第三章 文政元年~ お化け侍、参る

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 お化け侍――と後藤重頼しげよりは呼ばれている。

 当然一応の武家である家内の人間は恥じ入っているが、後藤は気に入っている。

 旗奉行同心後藤重里しげさとの三男である後藤の上には当然二人兄がいて、幸いなことに二人共成人している。跡目は勿論長男が継ぐ予定で、次男はよその家に養子に入りそちらの跡目を継ぐことになっている。

 さて、後藤も二年前に元服した身であるが、家を離れずにいる。跡目を継ぐ予定もない男子が家に残っていても、することなど何もない。部屋住みというやつで、普通ならば肩身の狭い思いをするところである。

 ところがこの後藤という男、家族の冷たい目などお構いなしで自分の好きなように部屋住み身分を謳歌している。悪びれることも、遠慮することもなく、普通に家の中に居座っているのである。冷や飯食いなどと揶揄される身分の癖に、飯が冷めていれば文句を言う。家族もこう堂々と居直られると、もう手の着けようがなかった。

 ただ、後藤は酒も飲まなければ郭に通うことも、博打に狂うこともなかった。一見素行は真面目だと思われるが、それならばあんな渾名が付くはずもない。

 後藤は化物というものが、好きで好きで仕方がなかった。

 きっかけは鳥山石燕の『画図百鬼夜行』から始まる連作群だった。それを読んだ時、後藤はとてつもない衝撃を受けた。

 こんなに楽しいものは他にない。後藤はそれから化物が出ている黄表紙や錦絵を片っ端から蒐集し始めた。

 黄表紙も錦絵も、大して高いものではない。それでも量が嵩めば値も張る。俸禄だけでは食っていけないので内職に精を出す家族を後目に、後藤は夢中で蒐集を続けた。

 後藤は錦絵を多く集めようと子供達の間を縫って地本問屋に毎日のように顔を出していた。後藤が求める錦絵は当然化物を描いたもので、子供向けのものも構わずに買い求めた。

 それで後藤の蒐集を眺めていた子供達から、お化け侍という渾名を頂戴することになった。

「重頼、話がある」

 父親の重里が難しい顔をして後藤を呼んだ。

「なんでしょうか父上」

 組屋敷の座敷に腰を下ろして二人は向かい合う。

「お前に養子の話がある」

「ほう」

 驚いた声を上げる後藤だが、いくらなんでも『ほう』はないだろうと父に注意される。しかし後藤はどこ吹く風である。父親としてもこの息子に説教が全く無意味であると半分諦めているという有様であった、

「まず武家ではない。商家の、それなりに大きな下り傘問屋だ。馬喰町にあってな、お前もそっちの方にはよく行くだろう」

 地本問屋は日本橋の辺りに集中している。牛込にある旗奉行組屋敷からは結構な距離になるが、後藤は自慢の健脚で毎日のように通っていた。

「そこには娘が一人いるにはいるのだが、跡取りの息子の方がいないらしくてな。それでお前に養子に入ってほしいという話だ」

「婿養子ですか」

「そうなるな。だからと言って腑抜けたことを言うでないぞ。商家とはいえ、跡を継ぐというのは大事であるのだ。わかっておろうな」

「大変そうですねえ。まあ、一度会ってみるのもいいと思います。私のような者を養子に迎えたいと言い出す人がどんな御仁なのか気になりますし」

 三日後、日本橋通町の外れにある小さな茶屋で後藤は自分を娘の婿に欲しいと言う伊勢屋いせや八兵衛はちべえと顔を合わせた。娘の方は来ていないようだった。

 八兵衛は肥えている訳ではないが、やけに血色のいい顔をしていた。仕立てのいい袷を見るに、どうやら伊勢屋は後藤家よりもずっと裕福のようだ。

 重里と並んで座敷に腰を下ろした後藤を見て、八兵衛は柔らかく微笑む。後藤は張る虚勢など持ち合わせていないので、小さく目礼で返す。

「ご子息はお化け侍などと呼ばれているようで……」

 八兵衛の最初の言葉がこれだった。これには流石の後藤も目を剥いた。

 いきなり、悪い噂があるようなのでこのお話はなかったことに――というようなことになるのではと重里は身を固くした。後藤の方は驚くには驚いたがそちらにまでは考えが回らず、しげしげと八兵衛の顔を眺めている。

 八兵衛は笑って、これは失礼いたしました――と綺麗に剃られた月代を撫でた。血色がいやにいいので、どこかおどけた感じを受ける。

「この近所の子供達がよく話しているのです。新しい錦絵や絵草子が出る度、化物の描かれたものばかり買い漁っていく方がいるというので、お化け侍などと渾名されるという」

「お、お恥ずかしい限りで……」

 重里は顔を赤くして俯く。ここで無礼だと怒り出さないのが重里という男だ。そうでなくてはとても後藤の親は務まらない。

 八兵衛はまた笑う。

「いえ、いえ。そのくらいの通人でなければ、とても伊勢屋は任せられません」

「私はただ子供なだけですよ」

「それがよいのです。その方がきっといい薬になる」

 そこで八兵衛の顔に陰りが見えた。どうも相手も訳ありらしいな、と後藤はまるで他人事の体で思った。

 その様子を見て取った重里は女中を呼んで酒を頼んだ。後藤は下戸なので、猪口は二つだけだ。

 酒が入ると八兵衛の顔はさらに血色がよくなる。だが顔の陰りは消えず、酒も無理矢理飲み込んでいるような有様だった。

「八兵衛殿、私は最初、この息子の浪費癖は言わないつもりでありました」

 一人で殆どの酒を飲んでいる重里は酒が入って調子がよくなり、開けっ広げに語っていく。

「しかしそちらは最初よりそのことを知っていたご様子。こうなればどうでしょう、そちらも隠し事はなし――というのは」

 酔っているなあ親父殿――などと傍で酒肴をつまみながら茶を啜って後藤当人は会話に加わろうとしない。

「は、はあ。実は、娘のことで――いや、馬鹿馬鹿しいと笑ってすむような話ではあるのですが――」

 八兵衛の娘――つまり後藤の妻になるかもしれない相手である――は、名をおふみといった。

 このお文、幼い頃から頭がよく、三つで読み書きを覚えて以降、八兵衛が難しい学問の本を買い与えると喜んで読みふけるようになった。

 八兵衛としても他の子とは違う頭のいい娘は自慢だったようだ。よその子供が手習いをしている間に、お文は自分で勝手に学を進めていく。これは将来は学者様だ、召し抱えられてしまうかもしれぬ――などと冗談半分本気半分で言っている内に、お文は浮かれることなくずんずんと学問を進めていく。

「実を言いますと、途中で少し不安になりました」

 高々商家の女が学で身を立てるなど、土台無理な話である。身に着いたところでどうしようもない学を突き詰めていって、逆に身を滅ぼしはしないか――と八兵衛は思ったのだそうだ。

 ところが、お文はあの気吹舎いぶきのやに目を付けられた。

 かの平田ひらた篤胤あつたねの開く私塾である。当世一の学問所と呼んでいい。才女の噂を聞いた門人の一人がお文を気吹舎に招き入れ、お文はそこでの平田篤胤の講義にすっかり魅入られてしまった。

 それからお文は平田篤胤の書いた本を片っ端から読みつくし、気吹舎に入門しようと道を模索した。女だからと断れるところを一歩も退かず、ついには平田篤胤に直談判までしたという。

 そこに助け舟を出したのは、篤胤の娘、千枝ちえであった。

 千枝はこの時まだ十三であったが、門人の誰もが認める才女として一目置かれていた。

 千枝は父に直談判をしに来たお文の間に入り、ならばお文さんは私のお友達ということにしましょう――と言いのけた。

 お文と友達という関係を――上辺だけにしても――作ることで、家に出入りする理由付けにしてしまったのだった。

 この年に次男又五郎またごろうを亡くし、残った子は千枝だけとなった篤胤はその娘には滅法敵わず、その話を呑んだ。

 こうしてお文は、平田篤胤の事実上の門人となった。

「すごい話じゃないですか」

 後藤は八兵衛の長い話を一旦切ってしまいたかったので、そう言って欠伸をした。

「はあ、全く身に余る光栄な話です」

 八兵衛の顔の陰りは一層深みを増していく。ここからが本題か――と後藤は憮然とする。

 お文が何を学んでいるのかということは、もはや普通の商人である親には皆目わからなかった。一度八兵衛がそれとなく聞いてみると、『ユウメイカイ』というものについて学んでいると言った。

「幽冥界は現世うつしよのすぐそばにありますが、見えません。ですがすぐ身近にあり、私達を見守っています」

 そう言った後でお文は儒学と仏道、そして神道の今後について長々と話したそうだが、八兵衛にはさっぱり意味がわからず、話の内容も全く覚えておくことが出来なかったという。

 そんなお文が、憤慨した。

 きっかけは、八兵衛の十組問屋の仲間が持ち込んだ黄表紙だった。

 十組問屋とは菱垣廻船によって大坂から荷――所謂下り物を仕入れて商売をする問屋達が廻船が難破などを起こした時の損害を防ぐために作った組合である。

 毎年正月と九月に寄り合いを開いたり、そもそも同じ組であるなら職種も同じなので、近しい付き合いが生まれるのも当たり前であった。

 伊勢屋も十組に入っているので、その筋の付き合いも多い。件の黄表紙を持ち込んだのも、同業の大店の若旦那だった。

 お文は学問にばかり目が行っていて、こういった草双紙の類は殆ど読んだことがない。それを気にしたのかどうかは知らないが、その若旦那はお文の目に付くところにその本を置いていった。

 そしてお文は、その黄表紙を読んだ。

 結果、憤慨した。

「こんな低俗な読み物が溢れている世の中はおかしいです。信じられない。幽冥界はもっと清廉でなければならないのに、これはなんですか。化物とはこんな扱いを受けるものであってはならないでしょう。それがお笑いのタネになっているなんて! ああ!」

 黄表紙というのは恋川春町の『金々先生栄花夢』から始まった、今までの子供向けの草双紙とは一線を画す読み物の総称である。

 その筋書き自体は他愛のないものであるが、絵や文章に隠された諧謔や洒落を読み取る面白さがある。そういう意味では『画図百鬼夜行』に通じる部分も多い。

 しかし大人向けというのをいいことに、実際は酷く下品で春画と呼んでも差し支えないような代物も溢れ返っている。

 それに加えてお上を風刺するのも厭わない作品も多かった。嚆矢となった恋川春町自身も『鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみち』という作品で松平定信の文武奨励策を風刺して呼び出しを受けた。恋川は結局それには応じず、隠居して暫く後に亡くなったが、それを自害とする噂もある。

 前身の草双紙の頃から化物は題材として人気で、とにかくよく登場する。化物という性質を利用して、馬鹿馬鹿しく話を進めたり、化物ということを笠に着て隠す気もないような下品なネタを仕込むことも常套手段である。

 とにかく、黄表紙というものは知らずに読めばそれだけ刺激に強いものと言える。学問を究めたいと願うお文からすれば、ふざけ切った話を読んで憤慨するのも致し方なしというところか。

 お文は以降、やり場のない怒りに悶え苦しみ、飯も喉を通らない有様だという。

 お文はそのことを千枝に相談したそうだが、千枝の答えは冷たかった。

 ――そんなことで学問の道を踏み外すようではお話になりません。

 ――暫くは気吹舎にも顔を見せない方がいいでしょう。

 そうして気吹舎からも追い出され、お文は一層酷い状態になっていった。このままでは気塞ぎの病になってしまうのではないかという程、八兵衛は気が気でなかった。

「それで、私を婿にしたいというのですか?」

 熱い茶を息を送って冷ましながら、後藤は訊ねる。

「はい。お恥ずかしい話ですが、娘は学問にばかり傾いてしまって、世間というものを知らない。それならばお化け侍と渾名されるあなたと添えば、少しはまともな常識を持つのではないかと……」

「毒を以て毒を制す――という訳ですか」

 茶を啜り、まだ熱いことに顔を顰めながら後藤は言った。

「いや、それにしても無茶苦茶な話ではないですか」

 重里は赤くなった顔に影を落として八兵衛を責める。隠し事はなしにしようと言い出したのはそちらだろうに――と後藤は心中で嘆息した。

「いやいや父上。私は面白そうな話だと思いますが」

「し、重頼! 何を――」

「案外理に適っていると思いますよ。私のような卑俗な趣味人と、高尚な学しか持ち合わせぬ才女。まるで反対ですが、だからこそ面白い。それに、その方が気塞ぎになったきっかけは黄表紙だといううじゃないですか。それも恐らくは化物の出てくる、特に下らないもの。私などは全くその下らないものに腐心する愚か者ですから、その方にとっては忌み嫌うべきものということになりましょう。まさに毒を以て毒を制すという訳です」

 八兵衛はうんうんと頷いた。まさにその通りだと言いたいのだろう。直接言えば至極無礼であるが故、後藤がその意味を語ったことに安堵しているのだ。

「ただし」

 漸く冷めた茶をごくりと飲み込み、後藤は八兵衛の方を見る。

「お文さんにとってはきつい荒療治になるでしょうから、正式に婿入りするのは何度か会って、私のを確かめてからという方がよいでしょう」

 これを聞いて慌てたのは父重里だった。せっかく厄介払いが出来ると思ったのに、本人の方から待ったをかけるようなことを言い出すなどとんでもない。

 この息子は自分の身の振り方などどうでもいいのだ。ただ気の赴くままに吹かれて流れて、後がどうなろうと知ったことではない。我が子ながら、全くどうしようもない奴だと頭が痛くなる。八兵衛も実際に養子に迎え入れたら娘とは別の心痛が出来るに違いない――。

 父がそう頭を悩ませている間に、後藤は八兵衛と明日色々の準備をしてから伊勢屋にお邪魔する、と話を纏めていた。

「さ、帰りますよ父上。全く、酔って困るくらいなら酒など飲まなければいいものを」

 この頭痛の種はお前だと言おうとしたが、結局何も言えない重里であった。

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