「天狗でございますか」

 白沢庵は細い目をほんの少しだけ見開いて、恐らくは驚いた顔を作った。

 門前町の岡場所に挟まれた荒ら家。佐野はそこに久しぶりに顔を出した。

 年が明けて、恋川の『其返報怪談』が開板されて暫く後、『画図百鬼夜行』三冊が開板された。

 これが、大いに受けた。

 元より前後編に分けて出す予定だったのが、その続きも考えてくれと書肆に頼み込まれていた。

 佐野は、ならばもっとふざけてやろうと思っている。

 ありもしない化物を洒落で勝手に作る。名の知られた化物も描く。そしてその画の中に無数のを仕込む。

 そうして出来あがったいくつかの画を白沢庵に見せようと、今こうして荒ら家の畳の上に腰だけを下ろしている。

 白沢庵が画を見ている間、佐野はふと思い出して去年梧柳庵を訪れた自称天狗の話をした。そもそもあの自称天狗が佐野を訪ねたのは白沢庵に言われたからだと言っていた。

「そうだよ。天狗だ。どうも爺さん、あんたの知り合いのようだったぜ」

「手前は存じ上げません。天狗の知り合いなどいるように見えますか?」

「見えるな。あんたは得体が知れねえよ」

 それから――と佐野は白沢庵を睨む。

「あんたはその天狗に俺が化物に止めを刺すと言ったそうじゃなねえか」

 佐野が言うと白沢庵は得心がいったように笑った。

「ああ、そうでございました。なるほど、天狗と名乗りましたか」

 白沢庵は愉快げに頬を緩め、寸時底意地の悪そうな笑みを見せた。

「知り合いなんだな」

「さて、その姿形までは存じません。ただ一方的に話をしたことはある――といったところでございましょうか」

 意味がわからずに佐野が首を傾げると、白沢庵はにっこりと笑って、

「闇夜の話をしましたでしょう」

 と言った。

 その通りだと佐野は頷く。

「鼻を抓まれてもわからないと申します通り、闇夜は怖いものでございます。そこで何かが起これば、何者かの仕業とされる。連中はそうしたモノでございます」

「それは――化物は本当にいると言うのか?」

「いえいえ。化物などおりません。全ては後講釈でございます」

「じゃああいつは何だったんだ」

「化物などおりません」

 そこで、白沢庵の顔に再び底意地の悪そうな笑みが浮かぶ。

「在りませんが、生まれるのでございますよ。うず高く積み重ねられた思念が溢れ出し、形を成す。因果が逆転するのでございます」

「あんた、一体――」

 白沢庵は、さらに邪悪な笑みを作って話を続ける。

「化物はないとされることで、一つの完成を迎えたのでございます。ないとされることで、空事のものだとわかり切った上で人は化物に触れる。そこから生まれるのは絵空事と承知の化物――それこそ『其返報怪談』の中の化物のように姿を変えていくのでございましょう。では、闇夜の化物はどうなるか。それは画に描かれ、元はなかった像を与えられることで本質を奪われていくのでございます。そして、それに止めを刺すのは――」

「俺って訳か」

 佐野が言うと、白沢庵は普段の莞爾とした笑顔に戻り、はいはいと頷いた。

「先生の画を途中で見せていただいた時に確信いたしました。実際、『画図百鬼夜行』は評判も高いそうではありませんか」

「だが、化物はそう易々とは死なねえ」

「はい。仰る通りでございます。人一人の力で化物という大きな流れを変えられるなどとは、それこそ思い上がりでございましょう。止めを刺す、殺すなどと申しましたが、それはあくまで一時的なもの。どうあれ化物は姿を変えるものでございます」

 白沢庵は一枚の画を手に持った。

百々目鬼どどめき。これなどは先生が洒落で作った化物でございますね」

 河岸に顔を布で覆い隠した女が立っている。その露わになった腕には無数の目が浮き上がっており、空には雁が二羽飛んでいる。

 その文には、ある女は生まれてから手が長く、常に人の銭を盗み、たちまち腕に百鳥の目を生じた。これは鳥目ちょうもくの精である――と書いた。

 手長――盗み癖のある人――でスリ師。鳥目――銅銭の精に祟られたということは金を「御足」と呼ぶから、つまり足が付いて手に罹る――捕まるという洒落だ。そんな目に百回もあったなら、さっさとスリの足を洗えばいい。

 白沢庵は滔々と佐野の仕込んだ洒落を言い当てる。

「こんな化物は今までおりません。ですが、ひょっとすると後の世では当たり前のように生きているのかもしれないのです。どうです。考えるだけで楽しいでございましょう」

 佐野は、笑った。

「ああ、楽しい。楽しくてたまらない。こんなに楽しいのは初めてだ。あの厭な感じが襲ってこねえんだ。新しい、誰も知らないものを作れるっていうのが、最高に気持ちいい」

「では気の赴くまま、筆の進むままに描き続けていただければ万事解決でございます。過去のものを殺すなどとは思ってはなりません。未来を創ると思うのです」

 佐野は立ち上がり、荒ら家を出ようと玄関に向かう。この荒ら家は本当に狭いので、玄関までは数歩で事足りる。

 だが佐野は立ち止まる。玄関に、あの時の自称天狗が立っていたからである。

「あ――鳥山先生」

「何が『あ』だ。ぼけっと立ってねえで入るんなら入んな」

 そう言って佐野は元の場所に腰を下ろす。

 佐野は化物がいるなどとは思っていない。思っていないからこそ、こうして画を描いている。

 だが、この二人はどうだ。一方は化物などいないと言いながら、その舌の根が乾かぬ内に化物が生まれるなどと訳のわからぬことを口走る。もう一方は自分を天狗だと宣うのである。この二人の会話は、聞いておかねばなるまい。

「すみません鳥山先生。お帰りのところでしたか?」

「気にすんな。ここにいた方が面白そうだ。俺はいねえもんと思って、好き勝手喋ってくれ」

 自称天狗は前と同じようにすみませんと謝り、白沢庵に向き合う。

「白沢庵――やっと会えたな」

「はてさて、手前にはあなたのような知り合いも仇敵もございませんが」

「この姿は鳥山先生に感得していただいたもの。顔に覚えはないだろう。だが、お前が俺達を唆したのには覚えがあるだろう」

 白沢庵はつまらなそうに溜め息を吐く。

「それがどうしたのでございましょうか。手前はありのままを伝えただけ。それを慌てて像もないままに鳥山先生の許に向かい、散々に言い負かされて退散したのはそちらではございませんか」

「お前の目的はなんだ!」

 声を荒らげる自称天狗だが、白沢庵は相変わらず興味がないように溜め息を吐く。

「勘違いしていただきたくはないのですが、手前が化物の有り様をどうにかしているのではございません。時流の有り様を眺めて、もはや化物はこの世に生きる場所をなくしていると、伝えただけなのでござますよ」

「お前はそれを楽しんでいるのか。俺達が消えるのを――!」

「楽しむと申すなら、手前は全てを楽しんでおります。化物が現れるのも、消えるのも、時が移ろっていくのも、全て楽しゅうございます」

 白沢庵は自称天狗など眼中にないように外を眺める。

「おや、もう真っ暗だ。あなたもそろそろ、元の像なき姿に戻るのがよろしいかと思います」

 先生もお早くお帰りください、危のうございますから――白沢庵に言われ、佐野は立ち上がる。

 どういう訳か、自称天狗と連れ立って帰ることになった。

 門前町の岡場所からは灯りが漏れて活気づいていることがわかるが、そこを抜けるともう殆ど灯りはなく真っ暗だった。提灯の一つも貸してくれないのだから、白沢庵も気が利かない。

 自称天狗の話を思い出す。こんな暗い夜道を歩いていて、袖でも引かれようものなら誰だって驚く。佐野はそこから化物を連想することはないだろうが。

「先生――」

 隣を歩く自称天狗の声。姿は見えないが、そこにいるのだろう。

「俺は闇夜に起こる何かのごった煮といったものなんですよ。天狗なんて大層なものじゃありません。名前もないし、像もない。吹けば飛んでいくようなどうでもいいものなんです」

 先生に感得されてよかった――本当に嬉しそうに、声は言う。

「化物などいないと割り切っている先生の目の前に現れたからっこそ、俺は像を得ることが出来た。それもとても化物には見えない、信じてもらえない姿で。今だって先生は化物を信じちゃいない」

「何の話だ」

「そもそも化物なんて像のないものばかりです。でも、先生は画として描いた。これからはそれが化物の像になっていくんでしょう。俺もいつかは、そんなふうになるかもしれない。全く違う何かにすげ変わってしまうかもしれませんけど」

 小さく笑う声がした。

「俺、もう消えます。元の場所に還ると言った方がいいかな。ただの闇夜になって、また人を脅かしてやりますよ」

 それっきり、声は聞こえなくなった。佐野が梧柳庵に着いて灯りを点しても、姿はどこにもない。

 言った通り消えたのか。はたまた闇夜の中を別の方向へ帰っていったのか。

 どうでもいいことだと、佐野は笑った。

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