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半丁ごとに一つ、化物を描くことにした。
最初から版本にするつもりだったが、この描き方は先達の百鬼夜行絵巻に倣ったものだ。化物を一つずつ描き、名前を示すというのは、狩野元信の百鬼夜行絵巻から始まるもので、その写本――の写本――は画を描く者の間ではよく伝わっている。
ただ、これらは絵巻であるので多くの人が目にすることがない。佐野が版本にしようと思ったのは、化物はもう世間に広まり、ないものとされているからである。そんな状態であればおかしみを以て受け入れられるはずだ。
だから、画も怖くない。
そもそも怖く描く必要がないのである。この『
秋の頃になるともう殆ど形になっていた。書肆との間でも陰陽風雨晦明の六巻に分けて、まずは前編三巻を刊行するという話で纏まった。一枚の画の中に様々な諧謔や洒落を仕込むのには頭を悩ませたが、要は狂歌と同じだ。伝わるか伝わらないかは別にして、滑稽さは充分に生み出せたし、考え描いている間は兎角楽しかった。
例えば『陽』に描いた「
勿論何の意味もなく新しい化物を描いた訳ではない。高女は建物の二階に、一階から腰を伸び上がらせて笑っているという化物だ。この描かれた場面、吉原遊郭の二階であり、遊女の化物だと察せられるようになっている。女郎屋は高楼とも呼び、客は遊ぶために二階にある座敷に上がる。
遊女は格が上がれば高嶺の花となるし、そうなればお高く止まるし高腰を掛く。
高尾といえば代々襲名された吉原の太夫の筆頭。万治の仙台高尾の非業の死は広く知られ、長唄「高尾懺悔」などにも伝えられている。
寛保の榊原高尾は姫路城主榊原
――などと様々な臭わせるようなものを仕込み、佐野は画を描いた。
そんな折、佐野の庵――梧柳庵に恋川が剽軽な笑みを浮かべて訊ねてきた。
「どうも師匠、ちょっとこれを読んでくれませんか? 来年の正月に出すつもりの話なんですが」
佐野は温かく歓迎することも邪険に扱うこともせず、素っ気なく恋川を招き入れ、来客用の部屋で座って待つように言って自分は厨で茶と菓子の用意をする。
「で、何を読んでほしいって?」
唐紙で閉め切られた部屋の中、佐野は自分で淹れてきた茶を一口飲んで目の前に座る恋川を見遣る。
恋川は二人の間に置かれた盆から干菓子を一つつまんで口の中に放り込むと、これですこれ――と風呂敷包みの中から紙の束を取り出した。
「題は『
佐野は茶を飲み干すと、恋川から原稿を受け取った。
こんな話である。田舎の画工
この時点で佐野は笑みを漏らした。春町斎恋川というのはどう見ても恋川春町のもじりで、数川春章の方は勝川春章のもじりという訳だ。勝川春章は恋川が私淑する絵師だが、ひょっとすると前の荒ら家で『百慕々語』の話題が出たところから引っ張ってきたのかもしれない。
しかし、『金々先生栄花夢』の時もそうだが、恋川春町という作家は全く斬新な話を思い付くものだと佐野は感心する。物語の中に作者が出てくるなど、今まで誰も考え付かなかった趣向である。それがこの話の滑稽さをさらに際立てている。これは今後流行るな、などと思い、紙をめくる。
とある野原で陽が暮れ、仕方なく刈り取った稲の陰で様子を窺っていると、化物達が何やら相談を始める。
その会話がまたおかしい。見越し入道は、化物本が始まってより自分は化物の頭とされたと自分で言い出すし、うぶめは『今昔物語』などにも出た名の高い化物だとこれまた自分のことを紹介する。
極めつけはその相談の内容だ。狐に謀られ術によって現れ出た役者絵にこっぴどくやられた様を『
この化物達は、自分達が物語の中のものだということを自覚している。なんという馬鹿馬鹿しさであろうか。
その後それを聞いていた恋川が数川春章に
狐共を見越し入道の古屋敷に誘い込むと、酒をたらふく飲ませて大いに酔わせ、いよいよ錦の袋を開くと歌舞伎役者の似顔絵を描いた団扇と謀が書かれた巻物が入っていた。化物達はこれによって役者に化けると狐共を散々にやっつける。
そこに恋川が駆け付け、化物達を宥め、間を取り持つ。化物と狐は互いにこれから新版の化物本では仲間として睦まじく付き合っていくことを約束するのだった。
読み終えた佐野がどう賛辞を贈ろうか考えていると、表から佐野を訪ねる声がした。
「誰だ全く」
原稿を恋川に返し、佐野は玄関に向かう。
気弱そうな優男が立っていた。佐野に見覚えはない。
「誰だい」
少し険のある声で誰何する。単衣一枚だけの着流しという格好だが、町方廻り同心にはとても見えない草臥れた風貌だ。
「はあ、あの、天狗――って言ったら笑います?」
「ああ?」
思わず柄の悪い声が出る。その相手はすみませんすみませんと謝っている。
「いや、なんと言いますか――俺を言い表す言葉が天狗くらいしかないというか――」
「どうしました師匠」
奥から恋川が様子を見に出てくる。
「おい恋川。こいつが何に見える」
「町人風の優男ってとこですかね」
「天狗だそうだ」
「天狗ですか」
自称天狗はすっかり参ったように何度も謝り、意外な名を口にした。
「あの、白沢庵っていう奴はご存知ですか?」
「知っているが、なんだってあの爺さんの名が出てくる」
「師匠、とりあえず中へ入れてやったらどうでしょう。立ったままする話でもなさそうですし」
恋川に言われ、佐野は自称天狗を先程の部屋へと招き入れる。
「茶でも飲むかい」
「い、いえ。お構いなく」
とは言われても佐野と恋川の茶もなくなっていたので、佐野は三人分の茶を淹れてきた。
向かい合って座る佐野と恋川。その間に居心地が悪そうに座るこの男は、やはりどう見積もっても天狗には見えない。
「あの、鳥山先生は、化物の画を描いているとか……」
佐野は少し面食らう。『画図百鬼夜行』はまだ開板もしていない。先に出した『鳥山彦』にも化物は描いていないのである。
「なんでそれを知っている」
少し語気を強めて訊くと、自称天狗はまた平謝りである。
「白沢庵です。あいつが教えてきたんです」
佐野をその気にさせた張本人である白沢庵には、佐野はこれまで描いた画をいくつか見せている。白沢庵はそれを見てそこに込められた諧謔を見事に言い当てるので、見せる佐野としても面白かった。
「あいつは、俺達が滅びるのを見て楽しんでいるんです。そして言いました。『鳥山先生が化物に止めを刺す』と――」
「俺が化物に止めを刺すだぁ? 俺ぁむしろ化物を描いて残そうとしてやってる側だと思うがな」
「それは確かに残るでしょう。残るでしょうが、それはもう俺達のような化物じゃない」
自称天狗は畳に目を落とし、重苦しく息を吐く。
「夜道で袖を引かれたら、それは化物の仕業でしょう」
「勘違いかもしれねえだろ」
「もしくは誰かの悪戯かもしれませんねえ」
続けざまに二人に否定されるも、自称天狗は負けじと言い返す。
「今までは、それを化物の仕業としてきたという話です。武州でも田舎の方では袖引き小僧なんて言われています。そこには、実際に立ち会った人がいるという生々しさがあります」
佐野は一応頷いた。自称天狗はそれを見てほっと胸を撫で下ろし、二の句を継いでいく。
「そういったモノには、本来像はありません。ですが昨今の絵巻には見越し入道もしょうけらもひょうすべも描かれています。見越し入道に至っては草双紙で化物の頭領をやっている」
一方――と自称天狗は話を切り替える。それはこれ以上このことについて話しているのがつらいように、佐野には思われた。
「付喪神などは画に描かれる化物です。そちらには生々しさがない。傘のお化けに脅かされた人の話は殆どありません。ですが、それは単なる絵空事ではないのです。その典拠となる習わしや信心はきちんとあるんです」
自称天狗は大きく息をすると、佐野に真っ直ぐ向き合った。
「化物は画として描き継がれてきました。それは過去の像に倣い、しかし少しずつ姿を変えて。その道中で性質の違う化物は統合され、画として像を成していきました。そして鳥山先生は今化物の画を描こうとしている。恐らく、それで化物は統一されて完成し――死ぬでしょう」
佐野は大仰に溜め息を吐いた。
「野暮と化物は箱根から先、だ」
「は――」
「化物なんてもんがいねえこたあもうわかり切ってんだよ。それをぐちぐちよくわからねえ理屈をこねくり回しやがって。化物はとっくに死んでんだ。俺一人の力でどうこうなるような話じゃねえんだよ」
「で、ですけど、今はまだ生きているものも――」
「その内死ぬだろうよ。江戸の文化はそれこそ全国に広まっていく。やがては全国で一つの世間が生まれる。そうなりゃもう箱根から先にも化物の居場所はありゃしねえ」
自称天狗はがっくりとうなだれた。
それを見て、恋川は『其返報怪談』の原稿をそっと目の前に置いてやる。
「これは――」
「くだらない馬鹿話です。まあ読んでみてください」
自称天狗は紙の束を手に持つと、食い入るように一気に読み終えた。
完全に力が抜けたかのように、原稿を落とす。
「これはもう――笑えますね。笑えて、なんだか、泣けてきました」
全てを諦め切ったような笑みを見せ、はらりと涙が頬を伝う。
「化物は絵空事として、馬鹿馬鹿しく生きていくしかないんですかね」
「そうでもねえさ」
佐野は珍しく優しい声を出す。
「この程度で生きる場所を失うようなら、俺は好き好んで化物を描いたりしねえ。化物なんてものは言ったもん勝ちだろ。だから因果もありゃしねえ。果が因にすげ変わっちまうことなんて当たり前だ。生きる場所なんて勝手に出来る。後付けでいくらでも生まれる。そうでなきゃ化物は面白くねえ」
「それに、馬鹿馬鹿しいのも決して悪いことじゃありませんからねえ」
深く思い悩む自称天狗の顔を見て、佐野は何も言わずに茶を啜った。その音と、自称天狗のしゃくり上げる声が重なる。
「さあさあ泣きなさんな。天狗なんだろ? 高笑いの一つでもして飛んでいけ」
「あいすみません。ありがとうございます」
玄関まで見送ると、自称天狗は綺麗に一礼をして根津の町中へ消えていった。
「なあ恋川」
元の部屋に戻り、腰を下ろしてから目の前の恋川に声をかける。
「俺ぁ、何かとんでもねえ間違いを犯してんのか」
「はは、啖呵を切った割に内心気にしてらしたんですね」
恋川は干菓子を一つつまんで口の中に放り込み、ぽりぽりと噛みながら言う。
「いいんじゃないですか? 好き勝手やれば。間違いかどうかなんて誰にもわかりませんよ。そもそも世間に受けるかどうかもまだわからないじゃないですか。受けなかったらそれまで。受けたら世間がそれを求めてたってことじゃないですか」
「ああ――そうだな」
何より、今画を描いているのが楽しくてたまらない。あの厭な感じが邪魔をしてこないのである。こんなにすっきりとした気持ちで筆を取れることは今までなかった。
誰が邪魔をしようと、何と謗られようと、この画業だけは完遂する。佐野はそう、心に決めていた。
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