第二章 安永四年~ 化物箱根から先

 冬の空は雲一つなく澄み渡っていた。

 ――くすんでいやがる。

 溜め息を一つ吐いて、佐野さの豊房とよふさは自身の庵から見える空を唾棄する。

 最初からそうだった。物心ついた頃より佐野の見る景色は全てくすんでいる。まるで見飽きたかのように全く心が動かない。

 それは他の全てにおいても同様だった。

 書物を読む。知識を得る。だのに何故か最初から知っているかのような気持ちの悪い感じが付き纏う。

 何をしてもこの既に知っているような厭な感じは消えなかった。六根が腐っているのかもしれないなどと冗談半分に思っているが、その実本当にそう思えてきている。

 勿論、それは纏わり付くだけであり、仲間内で狂歌を詠んだりしている時はきちんと楽しむことが出来ている。佐野は嗜みとして狩野派に学び、この根津の庵で隠居仕事として画を描いたりもするが、それも一応は楽しんではいる。若い時は郭遊びに耽ったこともあったし、とにかく何も知らないという感じを知りたいこともあって片っ端から書物も読んだ。結局この感じから抜け出せることはなかったが、何もする気が起きないという訳ではないのだ。

 ただ、どうしてもあの感じが消えない。ふと気付くとすぐ後ろにあの厭な感じが迫ってきて、寸の間でも我に返るとそれが大口を開けて佐野を呑み込む。

 横になってくすんだ空ばかり眺めているのもつまらないし、少し外でも歩こうと起き上がる。

 門前町はやはり岡場所が目を引く。佐野はもう六十を超えたが、若い頃は吉原などにも出かけた。女の肉が好きというよりも、郭遊びが楽しかっただけなのかもしれないと思う。しかし初めて女と寝た時も、遊女と語り合っている時も、あの厭な感じは付き纏っていた。

 流れていく景色はどれもくすんでいる。溜め息すらでない。もはや佐野には慣れたものだった。

 そろそろ門前町を抜けようかという時、佐野の目にふと眩しい光が差したかのような気がした。

 綺麗な佇まいの岡場所のある二階建てと、同じく二階建ての間に、押し潰されるように今にも崩れそうな荒ら家が建っていた。

 家と家の間に小さいとはいえ建物が出来るだけの隙間があるということがまず妙だ。ここ根津門前町は所狭しと岡場所やらが立ち並ぶ場所である。そこにどうしたってこんな荒ら家が建つ余裕はない。

 佐野は吸い寄せられるようにその荒ら家に向かって歩いていく。遠目ではわからなかったが、軒下に木の板が下げられ、定規で引いたような奇妙な字で「白沢庵」と書かれている。

 佐野はそれを見て思わず含み笑いをする。なるほど白沢と沢庵をかけている訳だ。佐野は狂歌を嗜むだけあって、洒落の類は大いに好んでいた。くだらないものから知恵を振り絞ったものまで何でも好きだが、これはくだらないものだなと頬を緩める。

 さて、入口は開け放たれているが、中は暗く様子を窺い知ることは出来ない。入ってみるかと軒先で立っていると、隣の岡場所から見覚えのある男が出てきた。

 ひょろりと背が高く、綺麗に剃られた月代と大銀杏が目を引くが、緩み切った目元が威厳を台無しにしている。三十を超えたばかりだというのに痩せぎすの身体がそう見せるのか常に疲れているような佇まいで、腰の二本差しがいかにも重そうだった。

「ありゃ、師匠せんせい

倉橋くらはし――お前ぇまたこんなとこに遊びに来てやがったのか。ちったあ自分の立場を考えてみたらどうだ」

「いやあ、そうは言っても、女遊びの一つも出来ないようじゃ今の時世で受けるものは書けないでしょう。あと今じゃあ恋川こいかわ春町はるまちで通ってますんでそのようにお願いします」

 剽軽な笑みを浮かべるこの恋川春町という男、佐野が浮世絵を教えた弟子の一人である。

 岡場所などに遊びに来ているが、歴とした駿河小島藩士であり、しかも今まさに出世街道を猛進しているという立場にある。

 しかしついこの間、『金々先生栄花夢きんきんせんせいえいがのゆめ』という草双紙を出し、これが大いに受けた。これまでにない当世風の話は子供よりもむしろ大人に受けて、草双紙の方向性を大きく変えたと佐野の仲間内でも評判になった程だ。

「それで、師匠もこれですか? 流石、枯れてませんねえ」

「馬鹿言ってんじゃねえ。ほら、ここをよく見ろ」

 そう言ってこちらに手招きすると、恋川も隙間に建った荒ら家に気付いたようだった。

「ありゃ、来た時は全く気付きませんでしたよ。沢庵売ってる訳でもなさそうですね」

 恋川もそうした知識は充分に持っている。この札が洒落だと即座に気付いた上で言っているのだ。

「入ってみますか」

 佐野は頷き、荒ら家の中へと足を踏み出した。

 中はやはり狭く、小さな土間には何も置かれていない。畳が敷かれた残りの空間にはそこら中に書物が散らばり、足の踏み場もない。恋川が入ると、それでもう土間はいっぱいだった。

「いっらしゃいませ」

 しわがれた、だが穏やかな声がした。

 声のした方を向くと、佐野のすぐ右側に、恐ろしく年を取った様子の老爺が正座していた。無理をして結っている髪の毛は全て白く染まり、顔も皺だらけで細い目と皺の区別がつかないのではないかと思われる程だった。

 老爺はにこにこと笑いながら存外に矍鑠とした動きで畳の上の書物を片付け、二人に座るように促した。

 草履を脱いで上がるには狭すぎたので、佐野と恋川は腰だけを空いた場所に下ろして何と話せばいいかを考えていた。

 その内に老爺の方が口を開く。

「まさかあの恋川春町先生がこんな荒ら家においでになるとは、驚いてしまいました」

 それを聞いて恋川は驚いた顔を見せる。老爺はやはり莞爾とした笑みを浮かべる。

「外でのお話が聞こえていただけでございます。手前などがお顔を知っているはずはございません」

「なるほど。御老体も人が悪いですねえ」

 佐野は手元にあった本に思わず目を落とす。

 浅井了意の『伽婢子おとぎぼうこ』に『狗張子いぬはりこ』。山岡元隣の『古今百物語評判ここんひゃくものがたりひょうばん』。佐野も読んだことのある古い本だった。その他にも怪談奇談を集めた本や、百物語本などがいくつも転がっている。

「怪談がお好きか」

 佐野が言うと、老爺ははいはいと明るく答える。

「というよりも、化物が好きなのでございます」

「はは、変わったお方ですねえ。最近じゃあ『野暮と化物は箱根から先』なんて言葉が出回ってるくらいだ」

 恋川が言うと、老爺は気を悪くするでもなく楽しげに頷いた。

「『ないものは金と化物』、『下戸と化物は世の中にない』とも申しますね」

「わかり切った話だ。今更何を言ってやがる――と俺は思うがね」

 佐野はそう言うも、その実化物の類は好きだった。勿論そんなものが実際にいるなどとは毛頭思っていない。ただ作り事としての化物は読んでいても画を眺めても楽しい。佐野は一応狩野派の画家でもあるので、狩野元信もとのぶの百鬼夜行絵巻も何度も見ている。それに追随する形で出た絵巻ものもいくつも見ているし、普通に出回っている草双紙も化物が出ているとつい買ってしまう。

 ただ、やはり、どうしてもあの厭な感じは不意に襲ってくる。だがその感じのおかげで、佐野は幼い頃より化物を怖がることなく、作り事として楽しむということが出来ていたのかもしれない。そう考えるとこの厭な感じもあながち悪いことばかりではない――と言い切るには佐野に付き纏うこの感じはあまりに悪辣だ。

「化物が作り事であるのはもう周知ということでございましょう。この『百慕々語ひゃくぼぼがたり』など、実に面白うございます」

 勝川かつかわ春章しゅんしょうの書いたその本は佐野も読んでいる。題からも察せられるように皆が知っている化物の名前を「ぼぼ」だの「つび」だの「へき」だの「まら」だのともじってそれに見立てた春画だった。

「もはや化物はこの世に生きる場をなくしているのでございます」

「まるで化物が本当にいるかのような言い方だな」

 佐野が言うと、老爺は照れるように笑った。

「化物は皆空事でございます。ただ、その舞台が変わっているということでございます。伝統として言われる化物も、画となった化物も、皆空事だという事実を突き付けられて空事の中で生きていくしかなくなるのでございましょう」

 見越し入道は化物の親玉と草双紙では決まっている。本来は見上げていく内にどんどん背が伸びていくという化物なのだが、それを画として表すのは不可能なので次第に首が長いという独特の姿が与えられ、今ではすっかりそれが定着している。

 今見越し入道の姿を描けと言われれば、殆どの者は草双紙のあの姿を描くだろう。これはある意味では元々伝わっていた見越し入道が消え、草双紙の中の姿とすり替えられたと言える。そこに伝統の姿が入る余地はない。見越し入道はもはや草双紙の中の化け物なのだ。

 老爺は手に持っていた『百慕々語』を畳の上に置き、別の本を拾い上げた。

「『当世故事附選怪興とうせいこじつけせんかいきょう』。これもまた面白うございます」

 それを聞くと恋川は決まりが悪そうに頭を掻いた。

「いや、御老体、その作者の真赤堂大嘘まっかどうおおうそというのは実は自分でして――」

「おや、そうでございましたか。実に楽しく読ませていただきましたよ」

『当世故事附選怪興』は『百慕々語』のように化物の名前をもじったり、人の性分などを化物に見立てた誹諧に重きを置いた本である。化物の名前の次にそれぞれ説明を入れて、一種の譜のようになっている。

「そうそう、湯島で行われた薬品会やくひんえというものを覚えておられますか?」

 ここで老爺は急に昔の話に切り替える。

「俺は見に行ったクチだ」

 佐野は当時のことをよく覚えている。

 平賀ひらが源内げんないが主催した薬品会というのは、本草学者や医者、薬種商などが薬の原料となる様々な物を持ち寄って公開し、互いに交流を図るというものであった。開催されたのが湯島と割合近場であったことから、佐野も足を運んでいた。

 種々相の品物を眺めるのは楽しかった。後に物産会とも称されるようになる通り、薬品ばかりではなく各地の物産や珍しい品物も多く展観された。本草学もかじっている佐野としては実に楽しいものだったのだが、それでも例の感じは付き纏った。どれを見ても目新しさというものを感じることが出来ないのだった。

「本草学というものは実に素晴らしい学問でございますね。集め、分け、見えるようにする。化物もこうすればわかりやすうございますのに」

「こいつの書いたのもある意味じゃ本草学だろうよ。まあ丸っきりふざけた本だがな」

 恋川は佐野の言葉に照れるように笑って応える。恋川にしてみれば褒められたのと同じことなのだ。語気は投げやりだったが佐野もそのつもりで言っている。

「では、鳥山とりやま先生」

 老爺が急にそう言ったものだから佐野は驚いてその皺だらけの顔をまじまじと見つめる。

 佐野は画を描く時は鳥山石燕せきえんという号を使っている。それをこの老爺は知っていた。

「そう警戒なさらずに。たまたま知っていただけでございますよ。なにせご近所でございますから」

 老爺はご高名も伺っております――と続ける。

「当代きっての物知りであられるとの噂は手前も知るところでございます。お弟子には恋川先生のように高名な方々も多くいらっしゃるとか。それにこの――」

 老爺は自分の真後ろに置かれた本を取る。

「『鳥山彦とりやまびこ』。この画に手前などは大変感銘を受けてしまいました。この薄墨のばかし方――これは平賀先生の考えられた錦絵の技法に比肩する新しい技法かと思います」

『鳥山彦』で佐野が行ったのは、「フキボカシ」と呼んでいる版画の摺り方だ。版木に色料をつけてそれを軽く拭い、紙を当てて強く摺る。するとその名の通りぼかしたように濃淡がつく。

「お世辞はいらねえよ。俺ぁこの年だから、自分が大体出来るってことはもうわかってんだ。ただな――」

 知っている――ような気が拭えない。

「画を描いてる時も、このフキボカシを思い付いた時も、全部最初っから知ってるような気がして気味が悪ぃんだ」

「そうでございますね――先生は、本気で遊んだことがありますか?」

「本気で遊ぶ? 狂歌詠む時ゃあそりゃあ頭捻ってふざけてるが、何を言いてえんだ」

「知識というものは澱のように溜まっていきます。動かさなければ下の方に寄り固まり、揺り動かせば散っていきます。ただ同じなのはその身体の中にある知識の量だけでございます」

 老爺は楽しげに笑う。

「肝心なのは知識の吐き出し方だと、手前は考えるのでございます」

 佐野は怪訝な顔をして老爺を見る。

「吐き出したところで知ってるものは知ってるものだ。何にもなりゃしねえ」

「確かに知ったものを吐き出しても知識が減る訳ではございません。ただ、知識を練り合わせ、それを使って何かを生み出せれば、その何かが与えるものは未だ知らぬ何かとなる――などと思います」

「画がいいんじゃないですかねえ」

 久しぶりに口を開いた恋川を、佐野は責めるような目で睨んだ。この老爺の口車に乗るかどうかはまだ判じあぐねているのである。そこを勝手に話を進められては困る。

「いや、だって師匠の画はそれこそ一級品ですよ。『鳥山彦』だけで終わらせるのは勿体ないじゃないですか」

「俺ぁ弟子を育てられただけで満足だよ」

 そう言うも老爺は恋川の句を継いで口を開く。

「手前も画がよいかと思います。画にはいくらでも表し方がございます。そこにはいくらでも諧謔や洒落、そして先生の膨大な知識を仕込む余地があるはずです」

 詩は人の心に発して声をなすものだ。

 ならばもし、佐野がこの溜め込んだ知識をふんだんに画に盛り込み、それが画として、そして滑稽な諧謔として像をなすことが出来たとすれば――それは無声の詩となる。

「今の世、おかしみと親しみを持って受け入れられるとすれば……」

「ああ、わかったわかった」

 佐野は立ち上がり、老爺を見据える。

「化物だ。化物を、描く」

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