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山岡元隣という人物は、百物語という場に最も相応しくないとも言えるし、ある意味では最も相応しいと言える人物だろう。
荒ら家の中には所狭しと青い紙が貼られた行灯が並べられ、一つの話を終えるごとにその灯心を抜いていく。すると徐々に場が暗くなっていき、百話終える頃には真っ暗になるという寸法だ。
最初に話をしたのは白沢庵だったが、次からは浅井が続けて話を語っていく。やはり白沢庵と張り合えるだけあって、後藤が聞いたこともないような話をいくつも持っている。ひょっとすると中には考えている途中だという『剪燈新話』の話を組み替えたものも入っているのかもしれないが、後藤が聞く限りでは全てこの国の話に思えた。
そしてその話が終わると、山岡が口を挟む。
最初は浅井が船幽霊の話をした時だった。この話は後藤も知っていたので目新しさを感じなかったのだが、山岡は浅井が灯心を抜く前に口を開いた。
「それは水中の陰火というものでしょう。陰陽の理の上では、熱く燃えものを焼く陽火に対し、陰火は燃えているのに熱くなく、ものを焼かないのです。狐火などもこれにあたりますね。高い山の上に水があるのと同じように、水中にも陰火が燃えるというのはあることです。これは例えば壇の浦のように海の中に没した人々、その魂が気となって形を成しているのですね」
おや失礼、と笑い、山岡は浅井に灯心を抜かせる。
「そうですね、陰火のお話をしたのですから、私の知っている他の話をしてもよろしいですかな?」
皆が何も言わなかったのを首肯と受け取り、山岡は以下のような話をした。
京の保津川に姥が火という怪火があった。亀山の辺りにいた子買い女は多くの子供を周旋すると言って親から金銀をせしめ、その子供は保津川に流していた。世が治まっていない頃だったので取り締まられることもなかったが、天命の恐ろしいことに洪水の時に溺れて死んでしまった。その後、保津川に夜ごと火の玉が見えるのを姥が火と呼ぶようになったという。
「これは捨てられた子供の亡魂か、その姥の苦しみの火の霊なのでしょう」
そう締めくくり、山岡は灯心を抜く。
山岡はそれからも浅井の話の後に何度か口を挟み、怪異を論じた。
「何一つ陰陽五行の理に漏れることはないのですよ」
山岡はそう言って笑う。それを聞いて白沢庵は口を開いた。
「山岡先生の仰ることは確かにその通りでございましょう。ですが世が変われば理も変わるものでございます」
五輪塔はご存知でございますね――白沢庵は言って、山岡に笑いかける。
それだけで全てを理解したのか、山岡は参ったな――と頭を掻いた。
「仏塔の一つですね。方形の地輪、円形の水輪、屋根形の火輪、半月形の風輪、宝珠形の空輪からなる。それぞれが密宗の教えである五輪を示している」
「地水火風空。万物はこの五つによって成り立つという教えでございます。木火土金水から万物を論ずる五行とは似ているようで全く違う。そしてどちらも、確かに信じられているのでございます」
「陰陽五行の理が間違っていると……?」
「いえいえ、そんな妄言は申しません。理は理。確かに正しいものでございましょう。ただ、先程申しました通り世が変われば理も変わります。そこに正しいもおかしいもないのでございます。今この世、山岡先生にとって最も信頼に足る理は陰陽五行なのでございましょうが、時が移ろえば山岡先生の考えが鼻で笑われる世が訪れるのかもしれません。しかし手前は申し上げます。山岡先生は誰よりも正しいのだと」
しょげたように肩を落としていた山岡はそれを聞いて驚いたように顔を上げた。もう荒ら家の中は相当暗くなっているが、まだ表情を窺うことは出来る。
「今の世の理はいかに後の世で笑われようとも、この世に根を下ろした厳然たる理なのでございます。世が変わろうと、今の世の方達が信じ築き上げたという事実は決して変わるものではございません。それを愚かだと断じる者が現れるのだとしたら、その者こそ愚かなのでございます。変わりもしましょう。移ろいもしましょう。ですが、この世に、この地に足を着けて生きている人間はきっと同じなのでございます」
「私は――この理を以て怪を論じたかったのです。安濃先生の本を読んで、その思いはますます強くなった。ですが、陰陽五行は決して絶対ではない――のかもしれませんね」
「そんなことはありません。先生の論じる理は実に素晴らしいものでございました。それを振るって怪を語る――手前達は今その一端を見せていただきましたが、実に感銘を受けた次第でございます」
「確かに、それは面白い試みかもしれませんな」
浅井が言って、白沢庵は何度も頷く。
「いつか時が来て、またこのように人を集めて私の知る理で怪を談じることがあれば、きっと本に纏めてみたいと思います」
山岡は言って、さあ次の話を――と引き下がった。その後も山岡はことあるごとに自分の理論で話に口を挟んだ。どうやら白沢庵に打ちのめされた訳ではなかったようだと後藤は何故か安堵した。
残りの火が点った行灯が二つになったところで、白沢庵が身を乗り出した。
「では残り二つの内、九十九話目は手前が受け持たせていただきます」
そこで白沢庵は後藤に目をやる。もう殆ど真っ暗と呼んでもいい程だったが、白沢庵の顔のすぐ隣に火の点った行灯が一つあったので所作を窺うことが出来る。もう一つの火の点いた行灯は後藤の横にあり、白沢庵からも後藤が脂汗を浮かべているのが見えただろう。
「そして百話目は安濃先生に。よろしいですね」
後藤の返答を聞く前に、白沢庵は自分の話を始めた。
「先の大火の時でございます。火に焼かれ、煙に燻され、道端で倒れた女がおりました。この女身重でございまして、ああ無念、我が子の顔も見れずに死ぬのかと悔いて悔いていますと、そこに役人風の男が一人、自分の前を通っていきます。女はまだ生きております。喉は干からび、水をくれとも、どうか腹の子だけでも助けてくれとも言えません。結局女は身じろぎ一つ出来ず、やがてむなしくなりました。ただ最後に目に映ったあの男が恨めしく、隙あらば取り殺してやろうと亡魂となり彷徨っておりました。
さて、今更この場でこんなことを言うのもおかしな話でございますが、怪を語れば怪至ると申します。先日この庵を訪れた男は、手前から幽霊の話を聞かされます。するとどうでしょう、男の後ろに、あの時の女が恨めしい顔で立っているのでございます」
小さく息を吐き、白沢庵は自分の隣の行灯の灯心を抜く。
「は、白沢庵、お前、今の話は――」
表情を窺おうにも、白沢庵の顔を照らしていた明かりはもう消えた。今この場で見えるのはもう後藤の狼狽し切った顔だけなのである。
「さあ」
白沢庵の声だ。
「最後は先生が」
唾を飲み込もうとするが、口の中も喉も乾き切っていて一滴たりとも出てこない。
「つ――」
声を発することは出来た。
「妻の雪が、死んだ」
諸処妖怪談が開板される少し前のことである。夜中、急に苦しみだした雪を見て、後藤は産気づいたのだと気付いた。急いで産婆を呼びに家を飛び出し、戻ってくると――死んでいた。
気が抜けたような、妙な心持ちになった。産婆に子供を取り上げてもらうと、そちらも死んでいた。
男だったそうだ。
それから、組屋敷の中で子供の泣くような声が毎夜聞こえるようになった。後藤が寝ていると、すぐ耳元で泣き声が聞こえる。目を開けても何もいない。
だがある時、夜中に庭を見ると、赤子を抱いた女の姿があった。その腰から下は血で真っ赤に染まり、髪も乱れたものだった。
――雪か?
後藤が恐る恐る声を発すると、女の姿は消えてしまった。暗かったことと、乱れ髪が顔を隠していたこともあって誰かまでの判別はつかなかった。
だが、後藤は確信した。これは雪の幽霊だ。産女となってこの世に再び顕れたのだと。
どういう心でそれに臨めばいいのかが、後藤にはわからなかった。後藤から会おうと思っても会えないだけではなく、顔もわからない。ただ夜中に子の泣く声だけが響くことも多く、これは後藤を祟っているのではないかと考えもした。
そしてそれは、今もまだ続いている。
後藤は震える声で話し終え、灯心を引き抜こうと手を伸ばす。
だが、白沢庵の声によってその手は止まった。
「ウブメとは、なんでございましょうね」
その言に山岡が続く。
「姑獲とも言いますね。他には、おばりょう、おばりょうと泣くとも。負ぶってくれ――という訳ですね」
「安濃先生、手前の話を覚えておられるでしょうか。つい先程の話。それから、ウブメの話」
「雪ではない――のか」
「さあどうでございましょうねえ。姑獲鳥は鬼神の類でございます。夜鳴く声は鳥のものでしょうか、子供の泣く声でしょうか。産女は『お産で死んだ女の幽霊』でございます。それが誰かなど、さして問題にはならないのでございますよ」
「わからん――わからん」
「化け物というものはですね」
白沢庵は音を立てずに笑った。灯りのないこの場で何故それがわかったのは知らないが、確かに嫌らしい笑みを浮かべたのだとわかった。
「言った者勝ちなのでございますよ。いないものをどう言おうが勝手でございますし、より強く心に残ることを言ったハナシが残っていくのでございます。さあ先生、先生は話を作る側の人間でございます。好きなように言っておやりになりませ。先生の見るもの聞くもの、全て先生が決めてしまえばいいのでございます」
後藤はゆっくりと、灯心に手を伸ばす。これを引き抜けば、必ずあれは現れる。その確信が後藤にはあった。
完全な闇が訪れた。抜いた。抜いてしまった。百話の怪談が終わり、そして――。
赤子の泣く声。
不気味な鳥の声。
――おばりょう、おばりょう。
――恨めしや。
――あなた。
「これは――」
浅井の声。
「一体何が――」
山岡の声。
「さあ」
白沢庵の声。
「先生、先生は何を見ます」
――こんなもの。
「こんなものは、ない!」
言った途端、荒ら家に光が灯った。白沢庵が普通の行灯に火を点けたのだ。
荒ら家の中には、何の異変もない。ただ火の消えた青紙を張った行灯で埋め尽くされているだけで、後藤達以外に誰もいないし誰の声もしない。
「少し残念でございますが、これもまた一興でございましょう」
呆然とする後藤に、白沢庵は優しく笑いかける。
「先生は見ないと決めたのです。ないものをないと割り切られた。実に――つまらない方になりましたね」
外から猫が入ってきて、にゃあと鳴いた。それだけだった。
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