後藤の新作の表題は『諸処妖怪談しょしょようかいだん』と決まった。

 白沢庵から聞いた怪談が殆どを占める本なので、表題についても白沢庵から助言を受けて決めた。

 評判は大したものではなかったが、前に書いた白沢庵曰くつまらない話に比べれば売れた。

 ただ、この本は殆ど白沢庵の力によって書かれた本である。それが売れても、後藤の力ではない。それに開板してから気付いてからは何とも言えない複雑な心持ちになり、一応の金が入るとまた何とも言えない気持ちになった。

 組屋敷で寝転がっていると、庭から「旦那」と声がした。

 起き上がってそちらを見ると、日本橋の書肆の下男、弥太郎やたろうがその巨躯をへこへこと曲げてこちらに向かってきている。

 弥太郎は六尺はあろうかという背丈をしているが、それに反して恐ろしく腰が低い。常に困ったような表情を浮かべて申し訳なさそうに喋るので、逆にこちらが気をつかってしまう。

「どうした、珍しい」

「いや、旦那宛てに京から文が来たというので、持って参りました」

 言いながら何度も頭を下げる。後藤は縁側に腰かけ、弥太郎からその手紙を受け取る。

 内容は『諸処妖怪談』を読んだがあれは酷い、ちょうど江戸に出向く用向きがあるからその時直接文句を言うので在所を教えろ――というようなことがいたく達筆で丁寧に書かれていた。

 最後に、浅井あさい了意りょうい――と名前が書かれ、後藤はその名をどこかで見た気がして首を傾げる。

「お前のところの旦那様はこれを読んだのか?」

 後藤が訊くと、弥太郎はへえ、と申し訳なさそうに答える。

「大慌てでして、すぐに旦那の在所を書いて文を送ったそうです」

「俺の確認も取らずにか――」

「すみません。相手はなんせあの『堪忍記かんにんき』の先生ですから……」

 それを聞いて後藤は思わず声を上げる。『堪忍記』は今年開板され、たちまち好評を博した読み本だ。その作者の名前が、浅井了意だった。

 確か『堪忍記』が最初に書いた本だというし、それがいきなり売れたのだから後藤では相手にならない程の有望な逸材である。書肆からすればそんな相手を無碍には出来ないし、上手く関係を作ってこちらで開板しようという下心もあるだろう。

「それで、どういった内容だったんです?」

「ああ、『諸処妖怪談』が酷いという文句だ。文面はえらく丁寧だったが、苛立ちが伝わってくるな」

「うわあ、目を付けられたってことですか。そいつあおっかねえですね」

「御免」

 力強い声がして、僧形の男がこちらに歩いてくる。

「安濃穴太殿とお見受けする。拙僧は先日文を送らせていただいた浅井と申す」

 そう言って男は鋭く後藤を睨む。深い皺の刻まれたその顔で睨まれると、後藤はどうしても物怖じしてしまうのだった。

「お、おい弥太郎、何故もう――」

「すみません旦那。その手紙を受け取ったのはひと月程前なんだそうです。旦那様は大慌てで旦那のことをすっかりお忘れでして、はい。という訳であたしはこれで」

 やはり何度も頭を下げながら、弥太郎はそそくさと屋敷を出ていく。後藤は何度も呼び止めようと思ったが、浅井に睨まれたままで口を開くことが出来なかった。

「あの、浅井――殿」

「何か」

 おずおずと後藤が口を開くと、浅井は厳しい顔のまま短く返す。

「何か――いや、何かと言われましても」

 訊きたいのはこっちだ。

「三十八段」

「は?」

「『彭候ほうこうという獣のこと』」

 それは白沢庵から聞いた話を殆どそのまま書いたものだ。

 唐土に彭候という獣がいて、千年を経た木の中に取り付くという。ある人がくすのきを切ると血が流れ出て、中を見るとこの獣がいた。煮て食ってみると犬のような味がした――という話である。

「元の書の名は何か」

「は?」

 問いかけの意味がわからずに聞き返すと、浅井は一層険しい顔つきになった。

「やはりそうか。『捜神記』を読んだ訳ではないのであろう」

「は、はあ」

 怒っている。後藤は冷や汗を流しながら浅井の言葉に怯えている。我ながら情けない話だと思う。

 ――こうなったのも。

 白沢庵のせいだと言えるだろう。あの男が後藤をそそのかしたせいで浅井に目を付けられてしまった。

 ――こうなれば。

 全てを話してしまおう。そう思うとわずかだが虚勢を張ることが出来る気がした。文句を言われるべきは白沢庵であって後藤ではないのだ。

「浅井殿、あの話は確かに拙者が書いたものだが、話自体は拙者に話し聞かせて本にして欲しいという者があったのだ」

「そう思っておった」

「えっ?」

「何も知らない者があのような話を書くには誰かから話を聞く他ない。しかしあの本にはそのようなことがどこにも書かれておらん」

「それは――」

 後藤も途中で白沢庵に聞いた話だと序にでも書こうかと思ったのだが、白沢庵が断固としてそれを断ったのである。自分のことは決して書いてくれるなと何度も念を押されたのだ。

「その者に会いたい」

 後藤は浅井と連れ立って屋敷を出た。どうやら浅井は後藤ではなくその裏で糸を引いている者――白沢庵に用があったらしい。しかし本を読むだけで白沢庵の存在に気付くとは、余程後藤の筆が拙いのか、浅井という男の慧眼か。

 曖昧な道順を殆ど考えずに歩いていくと、例の荒ら家の前に行き着いた。定規で引いたような妙な字で書かれた「白沢庵」という札を見て、浅井はほうと声を上げた。

「白沢を名乗るか。余程の御仁であろうな」

 中は暗く様子は窺えないが、何やら話し声が聞こえてくる。誰か客が来ているのかと後藤は驚いた。こんな荒ら家に通うのは自分くらいのものだろうと思っていたからである。

「おお、浅井先生。奇遇ですな」

 中に入ると、痩せぎすの三十近い男が笑いながら浅井に声をかけた。

山岡やまおか先生、どうしてここに?」

「いや、宿で休んでていたら調子が大分よくなったので、外を歩いて回っていたのです。そうしたらこの庵を見つけまして、中で話していたところなのですよ」

「おや、安濃先生。それとそちらは――浅井了意先生でございますか」

 穏やかな声で、荒ら家の主、白沢庵はその姿を示す。

「拙僧を知っておるのか」

「いや、先程こちらの山岡先生からお話を伺っていたのでございますよ。何でもお二人で京からこちらにいらっしゃったとか」

「それで私が体調を崩しまして、宿で休んでいたのです。流石に長旅はこの身体には堪えましたな。おや、そちらが安濃先生ということは白沢庵殿が例の――」

「はい。いかにも手前がこちらの安濃先生に話をさせていただいた者でございます」

「お、おい白沢庵。どういうことだ。俺には何がなんだか――」

 後藤が言うと、白沢庵はにこにこと笑う。それを受けてか山岡と呼ばれた男が口を開く。

「初めまして安濃先生。私は京で町医者をしている山岡元隣げんりんと申します。此度は先生の『諸処妖怪談』を読ませていただき、いたく感銘を受けて江戸までやって参りました。まあ本当のところは浅井先生が同じ理由で江戸に行くというので、無理を言ってお供させていただいたのですが」

「と、ということはあなたも、その――」

 後藤が言い淀むと山岡は全てを察したかのように嫌味のない笑声を上げた。

「はい。失礼ながら安濃先生がご自分の力だけであの本を書き上げたとは思えませんでした。誰か古今の奇談に精通した者が先生に語って聞かせ、それを本にしたのだろうと、私も浅井先生も思ったのです」

「必ずそういうお方がいらっしゃると思いました」

 白沢庵はいかにも楽しげに口元を綻ばせ、浅井と山岡を順々に見つめる。

「手前は表にも裏にも出るべきものではございません。なので安濃先生には決して手前のことを書かないで欲しいとお願い申し上げたのでございます。しかし、見抜かれる方はやはりいらっしゃった」

 白沢庵殿――浅井が相手の出方を窺うように口を開く。

「あの書き方は閉口せざるを得ぬ。唐土の書物からの抜き出しと思われるものだけでも『捜神記』、『山海経』、『玄中記』、『幽明録』、新しいものでは『本草綱目』に『剪燈新話』――他にもまだあるが、申そうか?」

「いえいえ、もう結構でございます」

「それを文として美しく書き記せておらぬ。ただ聞いた話をそのまま書いただけの悪文でしかない」

「それは安濃先生の筆の拙さによるものでございましょう」

 後藤は思わず言い返そうとするが、浅井が頷いたので出かかった言葉を飲み込むことになった。

「それはその通りであろう。だが白沢庵殿、尊公は古今のハナシに精通しているとお見受けする。そのような者が何故斯様な者に話を伝えて書かせるなどという愚行を犯す。尊公が自ら筆を取れば、このような悪書は生まれなかったはずである」

 白沢庵は厳めしく話す浅井に対しても、その穏やかな笑みを崩さない。

「手前は表にも裏にも出るべきものではございませんと申しました。どうかそれをわかっていただきたい。それに、この『諸処妖怪談』、あながち悪書とは言えないかもしれませぬよ」

 後藤はやっと白沢庵が自分の肩を持ってくれたと安堵しかかった。だが、次の言葉で即座に落胆する。

「確かにこの本は酷い。まず文が綺麗に纏まっておりませんし、手前の話を上手く纏めることも出来てはおりません」

 後藤はがっくりと肩を落とす。

「しかしながら、そのおかげでこうして二人、手前の許に現れた方がいらっしゃる。どうです、浅井先生、山岡先生、こんな悪書をのさばらせておいてよいものでございましょうか」

 白沢庵はにっこりと笑って二人を眺める。浅井と山岡は互いに顔を見合わせ、小さく唸った。

「実は拙僧には『剪燈新話』を読んだ時から考えていたことがある。あの話をこの国を舞台に換骨奪胎し、新しく話を組み上げる」

「本歌取りという訳でございますね。『奇異雑談集』でも手前のした話でも、あくまで唐土の話として取り上げておりました。それをこの国の話とする――これはもう浅井先生の筆致に全てがかかります。安濃先生には決して出来ない所業になりましょう」

 白沢庵は後藤のことを下手くそな物書きと見ているらしい。それは決して否定出来ないし、薄々感付いてはいたが、ならば後藤は何のためにこの男の話を纏めたのであろう。

「唐土とこの国では風土が違う。それを擦り合わせようとすると、なかなか難儀である」

「手前はそうしたことは出来ません。伝わった話をそのまま語ることしか出来ぬのでございます」

「白沢は一万千五百二十の化け物を黄帝に伝えた。尊公もそうだと申すか」

「まさか、そのようなはずがございません。手前はただ巷説に化け物を広めようとするだけでございます。忠言する訳でも、守護する訳でもございません」

 浅井は強く白沢庵を睨むが、やはり白沢庵の笑顔は穏やかだ。それを見ると浅井は毒気を抜かれたように目を細め、大きく息を吐く。

「白沢庵、お前は、俺を何だと思っている」

 浅井と白沢庵のやり取りが終わったと見ると、後藤は思わず口を開いていた。

 白沢庵は後藤に話を語って聞かせる時はもののわからない相手に話すように――実際後藤にとっては初めて聞くような話ばかりだった――伝えた。だが浅井は恐らく後藤の何倍もの知識を持っている。白沢庵はそれを見越した上で後藤の時とは違う物の言い方をする。口振りは同じように馬鹿丁寧なものだが、その裏に隠された思いが後藤の場合とは全く違うのだ。

 それに、後藤の筆が拙いというのなら、浅井に全てを任せて書かせてしまえばよかったのではないか。博識の浅井ならば白沢庵の話など聞かずともいくらでも話が書けるはずだ。

 白沢庵は言った。『諸処妖怪談』が世に出たことによって浅井と山岡はここに現れたと。ならば後藤は撒き餌のようなものでしかない。白沢庵が本当に関わりを持ちたかったのは浅井や山岡のような人間で、後藤など最初から眼中になかったのではないか。

 白沢庵は後藤の切羽詰まった声を聞いてなお、笑みを崩さない。

「安濃先生は何よりも特別なお方でございますよ。筆が拙いのも、纏め上げるだけの力がないことも、最初からわかっておりましたことでございます」

「ならば――」

 にゃあ、と声がした。

 外から見覚えのある猫が澄まし顔で入ってくると、しなやかな動きで白沢庵の膝の上に飛び乗った。

「先生はこの猫に何を見ました。そして今、夜ごと何を見聞きしておられます」

「お前――」

 後藤がまだ誰にも話していない、近頃己の周りで起きる怪異。白沢庵はまるでそれを知っているかのような口振りだ。

「その話を語るのは暫しお待ちください。どうでしょうか、浅井先生、山岡先生、今夜は月も暗い。百話怪しきことを語るという、昔よりの戯れを行うのはいかがでございましょう。安濃先生にも、その場で語っていただくというのは」

「百物語ですか――」

 山岡は言って、浅井の顔を窺う。

「白日に人を談ずる事なかれ。人を談ずれば害を生ず」

「昏夜に鬼を語る事なかれ。鬼を語れば怪いたる――でございますね」

 白沢庵は浅井の言葉を引き継いで言い終えると、にやりと今日初めての意地の悪い笑みを見せた。

「大いに結構ではございませんか。怪を語れば怪いたる。ならば大いに怪を語り、その怪とやらを見届けるというのもまた一興でございましょう」

 今宵――白沢庵は有無を言わさぬ勢いで続ける。

「ここへまたおいでください。行灯や青紙などは手前が用意いたします」

「白沢庵殿、まだ私の方からも聞きたいことは色々とあるのですが――」

 山岡が言うが、白沢庵は今度は屈託のない笑みを見せてそれを一蹴する。

「一度場を整えてからというのも悪くはございませんよ。今宵色々と語っていけば、山岡先生のお話にもお答え出来ましょう」

 参りましたな――と頭を掻いて、山岡は大人しく引き下がる。そのまま山岡は浅井と共に連れ立って荒ら家を後にし、後藤が一人白沢庵の前に残された。

「一体何を企んでいる」

「いえいえ、ただ百物語をするというだけでございますよ。見鬼と共に怪を語るというのは、流石のあのお二方でも経験がないでしょうから」

「俺の価値は、それだけか」

 見えないものが見える。後藤はただそれだけである。浅井のように白沢庵と言い合える知識もないし、文も下手くそだ。

「嘘を実にする。ないものをあるものにする。先生はそういう方でございます。その価値は、計り知れないものなのでございますよ。今宵、それを知ることになるでしょう」

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