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雪はびっくりしたように、
「まあ美味しい」
と声を上げて口の中のものをぽりぽりと噛んだ。
「あなたが沢庵を買ってきてくださっただけでも驚きましたのに、こんなに美味しい沢庵は初めてです。一体どこのお店でお買いになったんです?」
後藤は曖昧にはぐらかし、自分もその沢庵を一切れ食べてみる。確かに美味い。
「しかし一体どういう風の吹き回しです?」
もう一切れ沢庵を美味そうに食みながら、雪は首を傾げる。
「散歩から帰ってきたと思ったら沢庵を持っていて、それからどうも様子が変ですよ」
「へ、変か?」
「変ですよ。何やら真剣に思い悩むようにうんうん唸っているかと思えば子供のように楽しげに歩き回っていますし。まさかこの美味しい沢庵のために辻斬りでもしたなんてことはないですよね?」
「ば、馬鹿を言うな」
「まあ、冗談ですのに。これはいよいよ心配です」
などと言って雪はしげしげと後藤を見つめながらまた沢庵を口に運ぶ。余程気に入ったらしい。
「その、あれだ。お前が身重で俺も色々と心配が尽きんのだ」
雪は身ごもってから半年になろうかという頃だった。後藤の初めての子になる。
後藤の言ったことはある意味では本当である。子供が生まれれば色々と入り用になるだろうし、そのために作品を出そうと考えていたのである。
ただし、帰ってきてから様子がおかしかったのは白沢庵とのこの世のものとは思えぬ会話のせいだ。
雪はころころと笑う。
「心配は要りませんよ。きっと元気な子を産みますから。でも、ありがとうございます」
照れるように頬を染めて、それを隠すように沢庵の最後の一切れを口に放り込む。
「よければまたこの沢庵を買ってきてくださいね。とても美味しいですもの」
「ああ――うむ」
と言ったものの、またあそこに行くことを考えるとどうも不安になってしまう。
翌日の朝、後藤は懐に矢立と帳面を入れて屋敷を出た。日の出からあまり時間は経っておらず、空気は身を切るように冷たい。あの荒ら家では寒さを凌げないことを思い出し、早くに出たことを後悔した。
昨日は猫に導かれるまま白沢庵に着いたので、道順は殆ど覚えていなかった。それでもふらふらと歩いていると、いつの間にか定規で引いたような妙な字が書かれた札がぶら下がった荒ら家の前に辿り着いていた。
例によって玄関は開け放たれている。中はやはり暗く、外から様子を窺い知ることは出来ない。後藤は水の中に潜るかのように大きく息を吸い込んでから、中に踏み込んだ。
まず全体を見渡す。土間には何もなく、床の上には書物が散らばっている。後藤から見て真正面には火鉢が置かれ、中で炭が白くなっている。
「いらっしゃいませ」
誰もいないとばかり思っていた後藤は昨日と同じように動転して声の主を捜す。
部屋の右隅から少し離れた辺りに白沢庵が笑みを浮かべて正座していた。
「は、白沢庵――お前は最初からそこにいたのか?」
白沢庵は一度はてと首を傾げた後、一人納得したように笑った。
「いや、手前はここからもう少し隅の陰になるところにおりました。先生がいらっしゃったので動いたのです。驚かせてしまったようで、申し訳ございません」
「ああ……そうか」
なるほど、実際のところはそんなものなのだ。後藤はそう納得しようとしたが、何故かどうしても疑念が離れなかった。
「ところであの沢庵はいかがだったでしょうか? お口に合えばよかったのですが」
「美味かった。あんなに美味い沢庵は初めてだと、妻が」
「それはようございました。そういえば先生、奥様は確かお子を――」
「な、何故それを知っている!」
後藤はぎょっとして声を荒らげる。すると白沢庵はそれを宥めるように笑った。
「手前も隠棲している訳ではございませんので、噂話も耳に入って参ります。では、その辺りから話を始めましょう」
「話?」
「おや先生、今日こちらにいらしたのは手前の語る雑談を書き留めていただくためではないのですか?」
確かにその通りだ。しかし入ってすぐに話を始める白沢庵も白沢庵である。
「まあその、なんだ。少しは間を作ってはくれぬか。いや――」
この間の会話で話を聞く心の準備は整っていた。白沢庵はそれを見透かすように笑い、こほんと咳払いをして居住まいを正す。後藤は慌てて矢立と帳面を取り出した。
「旅をしていた女がおりました。この女、身重でありまして、それももう十月経つ頃でありました。さて女、運の悪いことに道中で産気づきまして、しかも大変な難産でございました。結果、赤子は産まれるには産まれましたが、女はそのまま亡くなったのです。残された赤子は近くの石の上まで這っていきまして、その石には今でも赤子の這った跡が残り、夜になると赤子の声で泣くそうでございます」
「縁起でもない話をしおって――」
「これはすみません。しかししっかりと書き留めている辺り、流石先生です」
言われた通りなので言葉に詰まり、後藤は結局白沢庵の話を短く纏めきった。
「ですがこの石、祈願すれば子供の夜泣きを鎮めてくれるというありがたいお話が付くのです。旅をする女が城から逃げ延びる奥方だったり、女が死なず赤ん坊が死んでその死体を石の下に埋めるという場合もあります。三州や信州では『赤子石』と呼ぶところもあって、今お話したのもこちらの話なのですが、『夜泣き石』と呼び方が変わると全国に広まっております。まあそうなるとまた話の筋書きが色々と違ってくるのですが、本にするには似た話ばかりではつまらないでしょう。この辺りで止めにしておきます」
白沢庵は口を閉じてすぐにああそうでしたと声を発した。
「身重の女性の話をするのでしたら、ウブメの話もしなくてはなりませんね」
「それならば知っておる。また縁起でもない」
産女と言えばお産で死んだ女の妄念が姿を現したものだ。確か『今昔物語集』には卜部末武の豪傑話として出てきた。抱いた子供を道行く人に抱かせるというのが典型で、そこからいくつか違った話を聞いたことがある。
「寛永の頃、京の墓所に、ウブメという化け物が出るという話がございました。この化け物、夜になると現れては赤子のようなそれは気味の悪い声で泣きまして、近くの者達は皆これを恐れて戸を閉めて家の中に閉じこもってしまっておりました。しかしある時ある人がそれを見届けようと外へ出て待っておりますと、青い火がふらりと飛んでいくのが見えます。この人その火の飛んでいった方へ向かうと赤子の泣く音が聞こえたので、刀を抜きましてその方へ斬りかかります。すると何かが地面に落ちまして、もう一太刀加えまして化け物を仕留めたと声を上げました。周りの家の人々が松明を掲げて出てきて見れば、それは大きな五位鷺だったのです」
「五位鷺……?」
後藤の知っている話とまるで違う。
白沢庵はにこにこと笑い、後藤の狼狽ぶりを面白そうに眺めている。
「先の大火の後に亡くなってしまいましたが、
白沢庵は散らばった書物の中から一冊の本を取り出す。『
「林先生? それは林
林羅山といえば幕府儒官
「流石にご存知ですね。あの方は実に面白いお人でございました。怪力乱神を語らずと言いながら、言い訳をして大いに怪を語る。ああ、実に楽しいお人でございました――」
まるで林羅山当人と交流があったかのような口振りだが、初代将軍の頃から幕府に仕えていた高名な儒家とこんな荒ら家に暮らす白沢庵が関わっていたなど普通に考えてありえない。ありえないのだが、それは『普通に考えて』であり、この男を前にすればそんな考えなど霞のように消えてしまう気がする。
「
さて、と白沢庵は穏やかな笑みで困惑したままの後藤を見つめる。
「この姑獲鳥をウブメと読んだのが林先生なのでございます」
白沢庵は『多識編』を一発で開き、そこに書かれた文を読み上げる。
「姑獲鳥 今案ずるに
姑獲鳥の読み方を今考えたのだと書かれているのだろう。
「産女は子供を抱かせます。対して姑獲鳥は子供を攫う。まるで反対でございます」
ただ――白沢庵は後藤に思案する時間を取らせた後、やはり笑いながら口を開く。
「
「源頼政の話か」
有名な話なので後藤も知っている。
近衛天皇の御所に毎晩丑の刻になると黒雲の怪物が現れ、不気味な声で鳴いた。その黒雲が御所を覆うと天皇は毎晩怯え、病に伏せるようになった。様々手を尽くしたが一向に治らず、源頼政に黒雲退治の命が下った。
頼政は猪早太という従者と共に御所に赴き、丑の刻になって黒雲が現れると矢を引き、見事に化け物を討ち取った。その化け物は頭は猿、身体が虎、足は狸、尾は蛇になっていたという。
「はい。しかしその話に出てくる化け物は、『鳴き声が鵺に似た化け物』なのでございます。鵺というのは夜鳴く鳥のことでございます。さて、ウブメでございますが、これを女の妄念ではなく、夜、子供の泣く声とすることもあるのでございます」
「どちらも夜になく――」
「その通りでございます。姑獲鳥を林先生は『
吉田先生というのは他ならぬ徒然草を著した吉田兼好のことだろう。随分と妙な呼び方をするとは思ったが、後藤の考えはそちらへは移らなかった。
「子を喚ぶ鳥――夜鳴く鳥――夜鳴く声――」
一見全く関係がないようにも思えるが、繋がっているのだ。
「まあそんな訳で、ウブメは妊婦、姑獲鳥、その他夜鳴く鳥の類と混同されていくのでございます。これから、それはますます混迷を増していくのでございましょう。おっといけない。全く脇道に逸れてしまいました。今の話は双紙にするにはややこしすぎますね」
確かに物語の中にこんなややこしい話を盛り込むなど正気の沙汰ではない。なので後藤は途中で書き留めるのをやめてしまった。
「お前のやろうとしていることとは正反対だな」
白沢庵は化け物に定まった像を与えようとしている。ウブメの中でこんな混乱が生じているとなれば像はとても定まらないだろう。
しかし白沢庵は楽しげに笑う。
「いえいえ。これでよいのでございますよ」
「どういうことだ?」
「目先のことばかり見ていては大局を見失うのは世の常でございます。様々な説話、思考、想念を取り込んでいくのが化け物でございます。その中に含むものが増えれば増える程、深みは増していくのでございます。時に先生、先生は化け物を信じておられますでしょうか?」
また話が変わった。だが後藤もそう急ぐ訳ではない。むしろ白沢庵の戯れ言に付き合う方が自分の見ているものの実体が見えてくるような気さえする。
「信じるも何も、俺には現に見えている。お前もそれを前に置いて話しているのではないか」
「先生は
ですが――そこで白沢庵は底意地の悪そうな笑みを見せた。
「化け物は本来いないものなのでございます。やがては文字通り化けの皮が剥がれ、そんなものはいないと皆が想うようになるでしょう。そうした時この混沌とした深みは、やがて意味を持つのでございます」
「どういう意味だ、まるでわからん」
「深みはそのまま
後藤は慌てて筆の先を湿らせる。白沢庵はその後も滔々と怪談を語り続けたが、もう話が脇道に逸れることはなかった。
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