ばけものづくり

久佐馬野景

第一章 万治二年~ 化け物事始

 なんだかよくわからないぼんやりとしたものが漂い、なんだかよくわからないままに消えた。

 それでゆっくりと我に返り、矢立から筆を抜きもせず、文机の前にもう四半時も固まっていることに気付く。

 後藤ごとう重晴しげはるは欠伸を噛み殺しながら文机の上に置かれた紙をぼんやりと見つめる。右端の方に少しばかり筆が走った後が見られるが、殆どまっさらと呼んでも差し支えのない有様だった。

 小さく息を吐いて立ち上がり、妻のゆきに散歩に行ってくると言ってから屋敷を出た。

 旗奉行同心は牛込原町に面する屋敷を拝領している。一応の大きさはあるが一つの広い土地一箇所だけに建っているので、全体を見れば大した広さではない。すぐ近くの根来組屋敷や先手組屋敷などは一つの土地に旗組屋敷よりも広大な屋敷があるだけでなく、いくつかの場所に分かれて屋敷が建っている。

 まあしかし、二人の旗奉行にそれぞれ与力一騎と同心十五名。つまり同心は合わせて三十人。それだけが暮らすなら充分すぎる広さである。百人組である根来組や組の数が多い先手組と比べるなどおこがましいにも程がある。

 そもそも旗奉行という役職は隠居も同然の閑職であって、勤務するのは幕府式日のみ。その同心である後藤も、時折庶務をこなす程度の木っ端役人である。

 ただ、それで生活がまかり通るかというとそうは甘くない。俸禄は僅少であり、内職に手を出さなければ飢え死には目に見えている。

 そこで後藤は双紙を書くことに手を出した。子供の頃より書物に慣れ親しんだ後藤は思い付きで書いた話をどうにかこうにか日本橋の書肆に持ち込み、これが目出度く開板された。売れ行きは大したものではなかったが、一応の金は入った。後藤はこれに味をしめて次の作品を書こうとしているのだが、いかんせん筆が乗らない。

 実際、雪のやっている縫い物の方が入ってくる金は大きい。しかしそれにおんぶに抱っこでは、一応の武士である後藤の面目が立たない。そこで何とか売れそうな話を考えているのだが、考えれば売れるような話が出てくる程甘くはないのである。

 牛込原町を南に曲がり、そのまま市ヶ谷新町の中を腕組みをしながら難しい顔で歩く。

 その、なんだかよくわからないものは揺らめき立つ陽炎のように現れた。定まった姿に形を保てないらしく、悲鳴のような衣擦れのような音を立ててふわりふわりと後藤の周りを漂う。

 町中を歩く者達には何も見えていないようだった。ただ後藤にだけ、ぼんやりとした姿ではあるが確かに見えている。

 これがどういった類のものなのかは、なんとなくだがわかっている。

 物心ついた頃より、後藤には他人には見えないものが見えた。それは大体今のようなぼんやりとした形で、器物の化け物や一つ目であったり角の生えた異形の姿の時もあったが、どうもしっかりと姿を作ることが出来ないらしく、結局茫漠とした印象しか与えないのであった。

 後藤は長年の経験からそういったものを無視すべしと決めていた。確かに鬱陶しいし、恥ずかしながら肝を冷やされることも多々あるのだが、そこで「おのれ化け物」と叫んで腰の物を抜いて斬り付けたりなどすれば、完全に狂人としか見られない。後藤以外の人間には何も見えていないのである。実際この妙なもの達が後藤の中だけにしか存在しないという可能性も大いにある。

 自分は狂ってなどいない、と思う。ただ変なものが見えるだけだ。しかし――それこそが気狂いの証しなのではないかと思ってもしまう。

 だから後藤が書物を読んできたのも、自分が決して異常ではないことを確かめるためだったのかもしれない。

 過去の説話の中に化け物は息づいている。過去にもそうしたことがあったのだから、後藤が今目にしてもおかしくはない。そう思いたかったのだ。

 しかし、後藤は物語にはそうしたことを書かなかった。自分の手で自分の見えているものを話の中に放り込んでしまうのは、それが却って真実味を増しそうな気がしてならなかったのだ。それは後藤の中だけに留めておきたかった。己の中だけに押し込めておけば、己の中だけの問題としておける。

 いつの間にか市ヶ谷新町を抜けていた。通りの角に行き当たり、かなり早いがもう帰ろうかと立ち止まる。

 背後から、にゃあと声がした。

 後藤は何故かそれにびくりと身体を震わせ、情けないことに刀に手をかけながら振り向いた。

 声の時点で気付いて当然だが、その声の主は猫であった。どこにでもいそうな三毛猫で、腰を落としてじっと後藤を見据えている。

 猫はもう一度にゃあと鳴くと、腰を上げてそのまま後ろ足で立ち上がった。全く姿勢がぶれることなく、人の如き立ち姿で猫はまだ後藤を見上げていた。

 後藤は思わず鯉口を切る。ただの芸の上手な飼い猫かもしれない。しかしそれでも、この猫から発せられる気配は後藤が常日頃目にするものと同じだと直感が言っている。無視を通そうにも猫はまるで後藤の退路を絶つように直立不動の体であった。

 そこで、猫は笑った。目を細め、口元を吊り上げて笑ったのである。

 思わず後藤がたじろぐと、猫は二足のまま右へ歩いていく。助かったという安堵よりは、猛烈な疑問の方が襲ってきた。この猫はなんだ。俺に何をしたかったんだ。

 思わず猫の去っていった方に目をやると、その猫が立ち止まってこちらを振り向いていた。目が合うと、猫は手招きをするように前足を振る。

 後藤は暫しの逡巡の後、そちらに向かって足を踏み出した。猫は後藤がついてくるのを見ると前を向き、二本足で悠々と歩いていく。

 一昨年の大火で外堀内の町並みは大きく変わったが、この辺りに火は回らなかった。なので組屋敷近くの見知った町並みがそうそう変わっているはずもないのだが、何故か見慣れぬ通りを歩いていることに気付く。

 周囲を見回しながら歩いていたので気付くのが遅れたが、少し前で猫が立ち止まり後藤を待つような素振りを見せている。後藤がそれに気付くと、猫は四足に戻ってその通りに面する小さな建物に入っていった。

 前に進んでその建物を正面から見る。強い風が吹けば飛んでいってしまいそうな小さく簡素な家だった。屋根は禿げた藁葺きで、開け放たれた玄関はよく見れば歪んでいる。その玄関に粗末な木の板が吊り下げられ、「白沢庵」と定規で引いたような妙な字で書かれている。

 どう見ても八百屋ではないのに沢庵だけを売っているのだろうか。しかし八百屋どころか物を売る店にすら見えない。

 家の中は暗く、陽の高い外からは窺い知ることが出来ない。意を決し、後藤は中に足を踏み入れた。

 思っていた以上に中は暗かった。入ってすぐの土間は狭く、竃も何もない。目が慣れてくると、異様に狭く、圧迫されるような感覚を味わった。床には乱雑に書物が散らばり、奥には小さな火鉢が一つ置かれている。隙間風が容赦なく吹き込んでいるので、その暖も殆ど意味をなさないように思えた。

「いらっしゃいませ」

 いきなりそう声がして後藤は弾かれるように声の主を捜した。後藤の向いていた反対側に、男が一人座っていた。中に入った時、確かに全体を見て誰もいないと思ったのだが、とにかくその男は莞爾とした笑みを浮かべてそこにいた。

 藍の着流しに黒の十徳、総髪という出で立ち。医者か学者かとも思ったが、纏っている空気が得体が知れない。そして全く年の頃がわからない、不思議な顔立ちをしている。二十から五十くらいまでが範囲に入る程、見た目で判別がつかないのである。

「ここは沢庵を売っているのか」

 動揺を悟られぬよう、太い声で後藤は訊ねる。男はやはりにこにこと笑った。

「いえいえ。あれはこの庵の号でございます。実際沢庵を売っていると思って入ってこられる方も多いのですが、これは白沢庵はくたくあんと読みます。手前のこともそうお呼びください。それで、お武家様がこんな荒ら屋に何のご用でございましょう」

 後藤はそのまま答えるべきかを迷う。言葉を捜している内に、先程の猫が白沢庵の膝の上に乗っていることに気付く。

「その――猫だ」

 短く言うと、白沢庵は全て心得たようにはいはいと笑う。

「この畜生めがお武家様を誑かしたのですね。ええ、ええ。ということは」

 見えますのですね――急に脅すような口調で、白沢庵が言い放つ。

「な、なんのことだ」

「化け物ですよ。お化けでございます」

 貴様さては――とは口に出来なかった。有無を言わせぬ温和な表情を見せているこの男からは、そうしたものを感じようとは出来ないのだ。この時後藤はこの男に自分は絶対に勝てないと悟った。言わば達人が構えだけで相手を圧倒するようなものだった。後藤は大した剣の腕を持っている訳でもないし、相手の力量を見極められる程の眼力を持ってもいないのだが、何故か今ははっきりとわかる。

「化け猫の話は、古来よりあるものでございます。明月記には天福元年八月二日、南都に猫股という化け物が出て一夜に七、八人を食らったとあります。徒然草では山奥に猫またがいるとか、近所の猫が年を経て猫またになったなどという話が書かれております。まあこの話は、猫まただと思ったものが主人を見つけて喜んで飛びかかってきた飼い犬だったというお話なのでございますが」

「そういうものは――やはり、いるのか?」

 後藤には見えている。だがそれが己の中だけでしか見えない幻である懸念もある。この男なら、答えを知っている気がしたのだ。

 白沢庵はにっこりと笑い、

「そんなものはおりません」

 と言い切った。

 後藤はそれで、完全に自分を否定されたようなものだった。

「な、ならば何故俺にあんなことを言った。そうだ、俺には化け物が見える。それをおらぬとは――どういうことだ!」

 動揺し、思わず声を荒らげる後藤を見て、白沢庵はまるで落ち着き払った様子で笑った。

「見える方には見えましょう。でもそれはそれ。おらぬものはおりませぬ」

「俺が狂っているとでも言うのか」

「見たところ、そのようには思えませぬな。多少うろたえやすく、ご自分に自信を持てないといったところですが――狂ってなどはおりませぬ。ですがまあ、往々にしてそういった類のものが見えてしまう方はおられる訳でございます」

「だが、お前は、おらぬと――」

「在りませぬが、生まれるのございます」

 まあ落ち着きください――変わらない穏やかな声で言われ、後藤は混乱しきった頭を一旦冷ますために深く息をした。外と変わらない冷え切った空気が身体の奥まで入ってくると、ぶるっと身震いをして目が覚めた気分がした。

 自分は冷静ではなかった――目の前の得体の知れない相手を一度見てから、その膝の上で丸まる猫へと目を落とす。この男は答えを知っている。この猫が何なのか。俺の見ているものが何なのか。

 しかし白沢庵は後藤が答えを急ぐのを思い切り突っ撥ね、おろおろと狼狽する様を穏やかに笑いながら見物しているのだ。成程なかなか悪質な奴だと後藤はここで思う。

 後藤がわずかに敵意を込めて睨んだのに気付いたのか、白沢庵は一層にっこりと笑う。ここでまた後藤はこの男には勝てないという謎の確信を得たのだった。

「お武家様、もしも身内の方がなくなった時、どうなさいますか?」

 いきなりそう言われ、後藤は面食らう。もしかするとまた後藤を混乱させるつもりかもしれない。勝てないことはわかっていても、そう簡単に踊らされるものかと充分に警戒しながらその問いに答える。

「葬るに決まっておるだろう。葬儀をして、しっかりと弔う」

「そう。弔う。いい言葉だとは思いませんか? 人ってものは一体いつから死人を弔うようになったのでございましょうねえ。ずっとずっと昔の方のお墓など、いくらでもあるではないですか。まあしかしそれで――なんで人は死人を弔うのでございましょう?」

 後藤が返答に窮すると、白沢庵は最初からそれを見越していたように即座に口を開く。

「死人なんてものは、ただの肉の塊です。動かないし、喋らないし、何にもいたしません。そりゃあ放っておけば腐って臭いでしょうが、埋めたり燃やしたりすればいいだけです。その行いに仰々しいお経などを付ける意味もございません。はてさて、なんでまた腐っていくだけの肉を処分するのに弔うなんてことをするんでございましょう?」

「それは――そうすることが当然だからだ。化けて出でもしたら後生が悪いだろう」

 そう――白沢庵はまさにその答えを待っていたかのように膝を打つ。猫はそれに驚いたのか一度びくりと身体を震わせるが、すぐに元通り丸まる。

「霊でございますよ。死者は魂となって霊になると申します。しかしまあ、そんなことはありはしないのが本来の道理でございます」

 後藤が反論しようとするが、間隙を入れずに白沢庵は話を続けていく。

「しかし、『霊』というものが人々の心に生まれて果たしてどれ程経ったでしょうか。その間人々が思い続けた『霊』という思念は、うず高く積まれて流れ出しもしましょう」

 お武家様――白沢庵は未だ理解が出来ていない後藤に考える暇を与えないように問いただす。

「死人を見たことがおありですか? 見たところ町方役人様という訳ではないでしょうが、出来れば無残なものを」

 後藤は暫し記憶を手繰り寄せた後、小さく頷く。一昨年の大火で焼け死んだ者の死体を見たことがある。

「幽霊は、経帷子に乱れ髪。その方はきっと無念だったでしょう。死に顔を見た者に、筋違いの恨みを抱くこともございましょう。さあて今、お武家様の後ろに、恨みを抱いた女が一人」

 背筋が凍ったように冷たくなったのを感じ、後藤ははたと振り向く。

 そこには振り乱した髪を垂らした女が、経帷子を着て立っている。

 後藤は魂消て尻餅をつく。

「な、な、なんだこれは!」

「幽霊でございます。お武家様のお考えになった幽霊、手前の思い描いた幽霊。それが世間の常となり、この場に顕れた訳でございます。この場合の世間はこの庵の中だけでございますので、二人の意識が同じならばこうなります」

「け、消せ! そのような妖術で俺をどうしようというのだ!」

「妖術にはございません。これは在らぬものが顕れただけにございます。お武家様も常日頃より似たようなものをご覧になっているのではないですか? 今回は世間が小さいゆえ、弱々しいですがはっきりと顕れたということになりましょう」

 すっと身を起こし、白沢庵は女の幽霊に指を向ける。

「さて幽霊、いかなる恨みがあれど、こちらにおわすお武家様に害をなすのは筋違いもいいところである。お主の恨み事は手前全て心得ておるゆえ、何も言う必要もなし。このお方もそなたをねんごろに弔い上げると申しておる。穏やかに成仏すべし」

 女は何も言わずに、急にその場から消えてなくなった。

「一度顕れてしまえばその意識の中の道理で動きますので、面倒ですがこうするしかないのです。約束した以上、お武家様も弔ってやらねばなりませんね」

 まだ動揺したままだが、へたり込んでいる訳にもいかない。後藤はゆっくりと立ち上がり、恐る恐る白沢庵に訊ねる。

「化けて出ると申すか」

「既に化けて出てますが――そうでございますね、また出てくるかもしれませぬ。何、回向院にでも参れば充分でございましょう」

「本当に、それだけでいいのか?」

「ええ。お武家様は一昨年の火事の死人を思い描いたはずです。その者の身元がわかりますか? あの幽霊はただの『火事で亡くなった女の霊』なのでございます。名前もありませんし、身元もありません。回向院は先の火事の死人を弔うために造られたお寺ですので、そこに参ればそれでいいのでございます」

 さて――白沢庵は猫を一撫でしてから後藤を見つめる。

「世間は広うございます。そこにいる者の思念から溢れ出したモノは形を成そうにもなかなか意識が合致しないために上手く形になりません。まあ、例えばこの猫」

 漸くそこに話が及んだかと後藤は身構える。

「世間には十二分に『猫が化ける』という思念が溢れております故に、それを糧に形を成し、見える方には見えてしまうのでございます」

 ただでございますね――そこで白沢庵はとした。

「先に言った通り、世間は広うございますから、あるところでは語られていても、他のところでは知られていないという化け物ばかりでございます。まあしかし、これは当たり前でございます。土地土地に根付いているということは、その土地では形を成せるということで、結構なことでございましょう。ですが、江戸の町はまさに諸国の中心。土地土地から様々な物や人が入ってきます故、話ももたらされる訳で、さらには逆に江戸から諸国に話は広がっていきましょう。そうしますと、かたちを想う者はあちこちで増えに増え、しかし皆ばらばらの話を聞いておりましょうから、ばらばらの像を想う訳でございます。そうするとどうしても、ぼんやりとした、何だかよくわからない姿で顕れることになってしまうのでございます」

 この男、やはり見えるのだ。後藤と同じモノが。いや、それにしてもこの口振りはなんだろう。何か一段高いところから物を見ているような、妙に落ち着いて、全て心得た様子の。

「霊は、人がごく自然に思い描くものなのでございましょう。唐土などにも霊の話はいくらでもあります。思念がうず高く積もる――これが重要でございます。霊はその点単純にございますからはるか昔より積もり積もって簡単に形を成します。しかし化け物、これは厄介にございまして、想う人によって像は違いましょうし、画があるものも限られております故になかなか定まった形になりません」

 白沢庵はそこで床に散らばっている書物を一つ手に取る。ぱらぱらと開いて中に目を通しているので、表紙はこちらに向いている。

 後藤はぎくりとした。それは後藤の書いた双紙だったのである。

「書物はいいものでございます。口伝えの話は広がるにつれ擦り減ったり尾ひれが付いたりしていきますが、書物では定まった文字で多くの人の頭に入っていくことが出来ます」

 にっこりと笑いながら双紙を振って見せる白沢庵。

「お前は、知っているのか?」

「何をでございましょう?」

「それを書いたのが俺だということだ」

 言ってから、何を馬鹿なことを言っているのだと気付く。後藤は他の同心の誰にも双紙を書いていることを話していないし、双紙を書く時は筆名を使っている。知っているのは細君と書肆くらいのはずなのだ。この男がそれを知っているとはとても考えられない。

 だから白沢庵は、驚いたような声を上げた。ような、というのは表情は相変わらずの穏やかな笑みのままで、本当に驚いているのか後藤には判じかねたからである。

「あなたが安濃あのう穴太あなた先生でしたか。読ませていただきましたよ、これ」

 始めから知っていたのではないかとも思えたが、ここは後藤、素直に頷く。

「しかし、この話には化け物は出てきておりませんね。あまり売れてはいないようですし、何より大して面白くない」

 後藤は言葉に詰まる。まさにその通りであったし、文を書く者としての後藤には士分は無関係だと心の内で決めているからだった。

「手前はですね、安濃先生、化け物の行く末を案じているのでございます」

 白沢庵はそう言うと一度ほうと息を吐いた。

「化け物はこれから先、どうなるのか。ぼんやりとしたまま消え去るのか、像を得て生まれていくのか。今の世は、その下地(、、)が出来るかどうかの瀬戸際なのだと、手前は考えております」

 そこで白沢庵は目を見開き、後藤を射竦めるかのように見つめた。後藤は怖気立ち、大きくたじろぐ。

 白沢庵はそんな後藤の様子を見ると目元を緩め、くつくつと笑声をこぼす。それでも後藤を射竦める力は殆ど緩んでいない。

「安濃先生、新作の案はもうお出来になりましたか?」

「いや……今考えているところだ」

「それは重畳。では先生、手前の企みに乗ってみる気はございませんか?」

 にやりと笑う。それすらも穏やかに見えるが、今までとは少し違う。いつの間にやら後藤はそんな些細な違いもわかるようになっていた。

「企みだと?」

 まさか御定法に逆らうことではあるまいな――とここだけは役人らしく凄む。

 しかし白沢庵は、思い切り笑い声を上げた。

 今までで一番大きな声で、ひいひいと笑い転げる。後藤を完全に馬鹿にしているとも思える言動だが、相対する後藤はなんというか意気を削がれてしまい、呆然とその姿を眺めていた。

「お武家様なのでございましたね、そういえば。いやいやそう肩肘張らずにお聞ききください。天下に仇成すという訳でも、お武家様に取り入って一儲け考えようという訳でもございません。ただの――化け物の話でございます」

 最後の方になって漸く込み上げる笑いを抑え、しかし音吐朗々と言い放つ。

「手前が諸国の化け物の話をいたします。先生はそれをご自分で好きなように文にいたします。それを開板していただければいいのです」

 白沢庵はそこで床に散らばったいくつかの本を手元に引き寄せる。

「『義残後覚ぎざんこうかく』。これにも恐ろしい、妖しい、珍妙なハナシが載せられておりますが、それは多くの雑談ぞうたんの一部にすぎません。こちらは『漢和奇異かんわきい』に『奇異雑談集きいぞうたんしゅう』――これはその名の通り奇異なるハナシばかり書かれたものなのでございますが、現在のところ写本しかありませんので多く人の目に触れるというのには少し足りません。この辺りで、奇異なるハナシばかりを集めた怪談集を開板するのがよろしいと思うのでございます」

「わからぬな……」

 後藤はここで漸く白沢庵の話を遮ろうと試みる。実際、白沢庵が何を考えているのかよくわからないのである。

「お前の企みとは俺に話を書かせて、その案を出した者として金をせびろう――という訳ではないのだろう?」

「ええ。お金など要りません。話を広める――いや、その下地の下地を作りたいと思っているのでございます」

「お前の話はよくわからん」

 後藤はそう言って懐手をする。

「思念がどうのと、そんなことを言われても俺にはさっぱりだ」

「少し先走ってしまいましたね。申し訳ございません」

 白沢庵は悪びれる様子もなく謝ると、居住まいを正した。

「では、この場に先の大火の霊が顕れたところを詳しくお話ししましょう」

 後藤は先程の女の霊を思い出し思わず身震いする。白沢庵はそれを穏やかな目で見た後、話を始めた。

「この庵の中は、一つの世間として成り立っております。今で言えば手前と先生、二人だけで世間が成り立っていることになります」

「世間とは何を意味している?」

「言葉通り世間と言い切ってしまうのが楽なのでございましょうが、そうでございますね――複数の人間が共に生きていくこの世、そして溢れた思念が纏まることの出来る地のこととでも申しましょうか」

 また『思念』だ。後藤が口を挟む前に、白沢庵は続きを話す。

「先生は大火で亡くなった人の姿を思い、手前はそれを促し、霊として顕れる時の姿を定めさせていただきました」

 思い返せば白沢庵は幽霊の姿を語っていた。それは言わば「お約束」の形だったが、後藤はそれを聞いてその姿を思い描いたのだ。

「それで、この世間の中の人間の思い描く幽霊の形は殆ど重なります。『霊』というものが存在するという思念の流出は先にも言った通りうず高く積もっております故、そうなれば簡単に姿を現します。先生は元より『見える』方のようですから、狭い世間の中の手前にも同じ姿が見えていた訳でございます。さて、ではこの幽霊を化け物に、庵の中だけだった世間を江戸市中までに変えてみます」

 まだよく理解出来ていなかったが、後藤は何とか話についていこうとする。

「化け物の話は広く口伝えで広まってはおりましょう。ですがその姿形、名前などはばらばら。これは違う化け物の話が散り散りになっているという訳ではなく、本質が同じ化け物でも違うように語られる始末なのでございます。なので世間の中の人間の思い描く化け物の形はまるで重なりません。それが広いお江戸中で形を得ることは非常に難しいのでございます。先生が見るモノは、どれもぼんやりとしたものなのではないですか?」

 言われて、後藤は頷く。頷くが、白沢庵の企みとやらが一向に見えてこないことに首を傾げたい気持ちだった。

「手前は、それを定まった形にしたいのでございますよ」

 そう言って、白沢庵は笑う。

「世間に化け物を広く知らしめ、皆が同じ姿を思い描くようにすれば、化け物は形を得て顕れることも出来ましょう。そのための下地作りを、先生に引き受けていただきたいのです」

「化け物を増やして、一体何をしようというのだお前は」

「何も」

「は?」

「何もいたしませんよ。ただ化け物が増えれば楽しかろうと思うだけでございます。お伽の話が実になれば面白いなと誰でも思うのではないですか?」

「面白いなどと……。そんなものが増えては迷惑なだけではないか」

「勿論、形が定まったとしても化け物の姿は普通の者には見えません。先生のような特異な力をお持ちの方や、それ以外では場や心持ちが揃った時にふと見えるだけでございます。さて先生、失礼千万でお訊きいたしますが、先生はその目に映る、己にしか見えないモノに何度も肝を冷やされているのではありませぬか?」

 後藤はぐうと唸った。全く以てその通りだったからである。白沢庵は穏やかな笑みを崩さずに口を開く。

「人というものは、訳のわからぬモノに格別の恐怖を抱くものでございます。いいですか先生、手前が行おうとしているのは、訳のわからぬモノに姿形を与えて、どうにかこうにか理解出来るモノにしようということなのでございますよ」

「それが、出来るのか?」

「焦ってはなりません。まだこの国にはその下地すら完全に出来上がってはいないのでございます。先程申した通り、先生にやっていただきたいのはその下地作りでございます。しかしまあ、単純なものならば、あるいは可能かもしれません」

「ならば聞かせよ。貴様の口車に乗ってやる気になってきたわ。俺が纏め上げて本にすればよいのだろう」

「まあまあ。そう急くこともありますまい。長い話になりますし、帳面の類も今はお持ちではないでしょう。明日、またここにお越しください。その時は、いくらでも怪しいお話をいたしましょう」

「――そうか。では失礼する」

 後藤が荒ら家を出ようとすると、白沢庵があっと声を上げて呼び止めた。

「実はここを沢庵を売っている店と勘違いする方ばかりなので、手前もそれに応えようといたしまして」

 そう言って白沢庵はどこからか白い沢庵を取り出した。

「お一ついかがです? 安くいたしますよ」

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