ジプレキサ

フジイレイ

ジプレキサ

一般名:オランザピン。非定型抗精神薬。統合失調症、双極性障害に処方される。2001 年発売。


2001 年十月頃、気が狂った。引き金はハッキリしていて、小説を書いていた。働きながら通勤電車の行き帰りに Palm というハンドヘルドで書いた。極度の興奮でだんだん眠らなくなり、ノイズのように途切れ途切れだったイメージが、「行くぞ」という声から明瞭に聞こえるようになった。でも発狂したと思わないから「覚醒」した感じだった。


狂うためのレシピ:

・素質。血統は大切

・テレビがつきっぱなしの部屋

・音消しにヘッドフォンをかぶり

・同じアルバムを大音量で延々とリピートする

・書く

これを一ヶ月続けると「声」が聞こえるようになる。一回狂うと十年〜十五年人生を棒に振るのでおすすめはしない。それと引き換えても楽しいけどね。


狂うのはとてつもなく楽しい。僕は幸福な狂人だった。あんな楽しい時間は一生もうないと思う(再発しないと)。書く言葉がパズルのピースのようにバチバチバチとハマっていく感じ。全能感。今でも、書くのは、書くことがあればとても楽しい。書けることがないのに書きたい時、身体の中で物語のエネルギーが無為に渦巻いている時間は、とても苦しい。


物語のエネルギーというのは、その 2001 年の小説で初めて知った。その前、十年書けなくて、その前は書き方を知らなかった。「書き方がわかった」時の思考が逆流するような衝撃は、その時にはもう狂っていたと思うけれど、思い出せる。物語は自律的で、書き手がコントロールするものではない。物語は外に出たがっている。全ての書く者が捕まえたいと思う。だがとても危険で、自分には破滅の力だった。長い小説を書ける人は、精神が強靭なのだ。


遅くまで書いて、眠っても明け方に目が覚めて仕事に出かけるまで続きを書く。知らなかったけど、精神疾患の症状で早朝覚醒という。脳が興奮して休めていないのだ。その時は寝なくていいなら得したな、と思っていた。小説は週一で書けたところまで、Web で公開した。どこに行くのか続きは知らなかった。四週で完結した。無限の推敲に入る。一字一句を見直して全文暗唱できた。十五年経っても、部分的に残っている。一字削り戻すような推敲が終わった時、ハンドヘルドの中に決定稿が入っている、あの感じ。どうしたらいいかわからなかった。手で持つのも怖かった、無くすのが怖かった。誰かに読んでもらわなければならず、恩師にテキストを送りつけたり(これは迷惑でした、申し訳ありません)、一番読ませたい地元の恋人に会いに行ったり(新婚でした)、雑誌の編集部にハンドヘルドを持ち込んだりした。どこからもあまり芳しい反応を得られず、声の存在は大きくなる。声の主を「オージ」と呼んでいた。彼と話すのは本当に楽しかった、誉めてくれたし優しくて。小説を創作検索サイトに登録してカウンターが回るのを夜暗い部屋でずっと見ていた。もうやれることがなかった。


地元の恋人は、後でヒメと呼ぶことになった。おとぎ話の住人たち。何年も連絡していなかった。物語と現実が混ざりあっていたから、やっと一緒に暮らせると思って会いに行った(そういう話なので)。覚えていた実家の電話は呼び出し音だけで誰も出なくて、ご両親の転勤先にかけた(どうして知ってるんだ?)。結婚したばかりとその時聞いた。新居に電話をかけて、繋がって、「明日初めての単行本が出る」と言われた。マンガ家。今描いているかは知らない。新幹線で行った。会ってくれて、読ませて泣かせたけど、結婚相手と暮らすと言われた。ヒメにとって僕は過去の中から時々現れる気狂いなんだと思う。大変申し訳なく、もう会えないけど、愛している。抽象的な愛なので会わない方が都合がいい。昔から、会って話すたびにズタズタになる。夜道で最後に抱き合ってから、十五年、会っていない。新大阪駅の通路で夜を明かして六時の始発の新幹線で東京に帰った。十一月、富士山で日が昇った。雲が光り信じられないほど神々しくて、不幸でいられなかった。ヒメを失ったことは正しいことなんだとボロボロに泣いた。少しの間連絡はしていて、病名が付いてから「気が狂った」と言ったら「お大事に」と心を込めて言われたのは深く傷ついたな。一緒に狂って欲しかった。


覚えている妄想は、パラレルワールドが無限に分岐するのを見た。紙の束をバラバラとめくるように、一秒ごとに世界が分かたれてゆく。


オージ、もういない僕の親友。いい奴だった。もちろん今となっては「自分」と話していたとわかっている。話が合うに決まっている。でも「声」は、他者性が強いもので、絶対自分ではない。昼も夜も切りもなく話して楽しくて、会いに行くというから新宿駅や仕事場の側の交差点で待ち合わせをした。まぁ、来ないよ(当たり前である)。いろいろ言い訳をする。兄がいると言っていた。うちまで来ると言った時は一晩中ドアを見てた。来ないからこっちから行くよ!と夜の街に飛び出したのがハイライト。下北沢のうちから記憶にある限り、六本木を通って秋葉原まで歩いて行った。夜中に。途中で COACH のカバンを捨てた。でも会えなくて、いい加減、オージは「自分が知っていることしか知らない」ことに気付き始めて喧嘩になった。憎み合った。次の日の昼に環七経由で歩いて帰ってきた。突然一昼夜歩き続けたので脚がガタガタになってしばらく歩けなかった。


同居人は手のつけようもなく黙って見守っていて、帰った後も加速してもう会話にもならない自分を精神科に連れて行ってくれた。救急車を呼んで、精神病は乗せないと断られた。大変でとても辛かったと思う。この文章もたぶん、彼が一番傷つく。自分のことだけで彼は脇役だったから。カバン捨てられて困っていた。通帳とキャッシュカードが入っていたのだ。冬の晴れた日で、病院はパレスのように輝いていた。認知が美しい方におかしくなっている、幸福な狂人。病院でもまだオージはそこに行くとか言っていた。嘘吐きである。でも、二人とも、切ないくらい会いたかった。診察室、うちを飛び出すような急性症状では、たいてい警察のお世話になると言われた。まっすぐ狂って、まっすぐ同居人の「声」に呼ばれて帰ってきた。入院させるかさせないかで、入院しなかった。帰ってクスリを飲んで寝た。オージとはそれきり話していない。


ちょうど呼称が精神分裂病から統合失調症に変わった頃。声が聞こえない場合もあるらしいが、百人に一人が発症する。珍しい病気ではないし、病識のように「選ばれた」わけでもない。ただ楽しいだけ。周囲には、迷惑をかける。


初診の先生に定年退職されるまで診てもらった。楽しい病気だったので、「どうして治さなきゃいけないんですか?」と尋ねると、「治さなくてもいいけど、何度も再発することで『人間としてのクオリティ』が下がっていきます」と仰ったのは味わい深い。それは怖いです。クスリを飲み続けることについて、断薬したら早ければ三日で再発しますとも言われた。統合失調症に「完治」はない。「寛解(再発しない可能性が高い)」をキープするためにクスリを一生飲む。発狂というのは簡単に言えば「脳のリミッターが飛ぶ」のである。一度飛んだら戻らない。クスリで脳を網で覆って「正常範囲」に保つだけ。創造性は損なわれる。クスリで均された荒野は静かだ。生きやすい、とも言える。


サイファイでよく「意識を拡張する」とか言うけど、そういうのは LSD やマッシュルームの効果で、発狂するのとまた違う、ように思う。リミッターの外れた脳は暴れ馬で意識ではコントロールできない。


陽性症状の後、膨大に無駄なエネルギーを放出した脳が疲れて陰性症状が来る。無気力になる。あまりよく覚えていない。ただぼんやりしていたんだろう。ジプレキサは陽性症状にも陰性症状にも効く不思議な薬である。主治医は「いい薬なんですが薬価が高い」と言いながら処方してくれた。十人くらい医師が替わって、そのまま飲み続けている。最低維持量 2.5mg、一錠 138.10 円(2016 年現在)。


自分の場合は書いて狂ったけど、書くことと狂気は、実はあまり関係ないんじゃないかと思っている。狂ったからっていいものが書けるわけじゃない。そこには才能という峻厳なピラミッドしかない。いいものが書きたいと思う、書く者なら誰だって思う。でも極限まで切り詰めて、書けるのは、自分の命の形を写すこと、その技術が才能なんだろう。「自分にしか書けないものを書く」のはほんの入り口だ。才能は本当に厳しい。持てないことを泣いても手に入らない。諦められない。


この間、十五年ぶりに書いた。だいぶ危ない橋を渡った、正気がヨロヨロして頓服投入し続けて書いた。孤独と愛にしか興味がない。さらに言えば男同士のセックスしか書けない。昔、JUNE という雑誌があって、少年愛の専門誌。エロ本ではないが性描写はあった。小学生の時からずっと立ち読みして育った。小学六年生もりぼんもジャンプも読まず、JUNE で育った。初めて自分で買えたのが大学生になってから。大人になる頃、ボーイズラブという新しい勢力に敗れて廃刊になった。価値観の主柱だったから今でも喪失感がある。あの雑誌に書きたかった。一度だけ投稿して選外になってた。書き方がわかるずっと前の話。

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