♯8 色奪の怪盗


「ファーストゲーム、ラヴオールプレイ!」


 サーブは俺だ。シングルスの場合、基本的にサーブはエンドラインぎりぎりへ山なりに打つ。シャトルを高く、遠くに飛ばすことで、相手が体勢を整える前にこちらの体勢を整えるのだ。近年は"防御的な戦術"から"攻撃的な戦術"に移り変わっているが、俺は小学生の頃から"防御的な戦術"のままでいる。ともかく、山なりの高いサーブを打つということは相手が打ち返しやすい打球ということでもある。よって、レシーブはスマッシュで帰って来る確率が高い。スマッシュを受ける体勢を整える。予想通り、レシーブはスマッシュだった。思っていたよりもスピードがある。ストリングの当たる場所がズレて、シャトルはネットの上ぎりぎりを通過した。相手はそのシャトルをヘアピンで返す。それに応じて俺もヘアピンで返す。そしてしばらくネット前の攻防が続く。相手は背が低く、丸っこかったのでそんなに動けないだろうと思っていたのだが、その見た目に反して素早いステップを見せる。俺はシャトルをエンドラインに向けて返した。その隙に少し後ろに下がり、体勢を整える。相手は追いついたものの、体勢が崩れている。やっとの思いで相手が打ち返したのは弱いクリアだった。俺は容赦なくスマッシュを決めた。観客席では「ナイススマッシュ!」と声援が聞こえてきた。



「ナイススマッシュ!」


 と七彩は叫んだ。緑はそれに気づいたのか、一瞬観客席に目を向けた。そしてすぐにシャトルを受取り、サーブの姿勢に入った。


「七彩、全くわからん」

「それじゃあ、これを読んで」


 七彩が鞄から取り出したものは『誰にでも理解できる!バドミントンのルール!』という、そこそこ厚い本だった。


「別に詳しいことじゃないくて、簡単なことを教えてくれ。例えば、どこの線を越えたらアウトだ。とか」

「分かった。それじゃあ、ダブルスとシングルスの違いからね。バドミントンは基本的にダブルスとシングススがあるの。ダブルスは2人でチームを組んで、シングルスは1人で行なうの。なんでこの説明から始めたのかはね、ダブルスとシングルスではコートの大きさが違うからなんだよ」

「なるほど。1人の時よりも2人の時の方がカバーできる範囲が広いもんな」

「うん。それで、ダブルスの場合はコートは横に広いの」七彩はコートを指差す。

「コートに内側の線と外側の線があるでしょ。ダブルスの縦のコートは内側の線で、横は外側の線。ダブルは縦が外側の線で、横が内側。つまり、ダブルスの場合は『横長のコート』。シングルスの場合は『縦長のコート』なんだよ」

「理解できた。でも、ほら。今みたいに、ネットの近くに落ちたのに点数は入らなかった」

「そうだった。サーブの説明を忘れてたね。サーブを打つ時はネットに一番近い線があるでしょ。その線まで行かないとダメなんだよ」

「そうか。よく分かった。それにしても、七彩が真剣に話してくれるのは意外だったよ」

「何それ!私がいつもテキトーにしゃべってるみたいじゃん!」

「七彩はバドミントンのことになると熱いんだよ」


 七彩が反論していると、1つ後ろの席の女性が話しかけてきた。髪は短く、いかにもスポーツをしているという印象で、Tシャツには『羽球!』という大きなデザインが施されていた。


「あ!クルミちゃん!」

「ななちゃん、おっひさー」

「七彩の知り合いですか?」僕が尋ねる。

「ええ、そうよ。私の名前は胡桃沢春美くるみさわはるみ。クルミ先輩でいいわ。中学の部活の先輩。それよりも、七彩の従姉いとこと言った方がいいかしら?」

「え、そうなんですか?」

「そうよ。君の名前は?」

「僕は色紙健巳です」

「もしかして、たけちゃん?」


 クルミ先輩は僕の顔を食い入るように見つめる。


「そうだよ。たけちゃん」


 七彩が答える。


「ほほう。こいつがたけちゃんか・・・」


 クルミ先輩は怪しい笑みをするとすぐに、耳元に囁く。


「後で話があるから」


 その声は今までのような明るい声ではなく、真剣な声だった。「へ?」と拍子抜けした声を出すと、クルミ先輩は無言でウインクをした。


「今のなに?ねえ、くるみちゃん!?」

「なんでもないわよ。・・・おっと、緑君がまた1点取ったぞ!」クルミ先輩はわざとらしく言った。

「おお!いいぞ!緑くーん!」とそれにつられて七彩が応援する。

「・・・」


 クルミ先輩は七彩の扱いに慣れている。流石は従姉。感心したと同時に七彩は本当に純粋だなと思う。悪く言えば馬鹿だ。



 不穏な雰囲気を観客席から感じるが・・・気のせいだろう。今は試合に集中しなくてはいけない。インターバルが終わり、コートへと再び足を運ぶ。今までのサーブはロングサーブのみだったので、あえてここでショートサーブを打つ。作戦は成功した。相手は一瞬怯む。そのせいでシャトルゆっくりとした低い軌道を描いた。想像してたより軌道は低かったのでスマッシュではなくハイクリアをする。シャトルはエンドラインぎりぎりまで飛んでいく。それを追って相手は腕を伸ばす・・・が間に合わず、シャトルは疲労したかのようにエンドラインに墜落し、しばしの空中散歩を終えた。相手との得点差は5点。しかし、この後の展開も気を緩めずに戦わなくてはいけない。あんな思いは二度としたくないから。



「勝った!」


 と七彩は叫ぶ。緑は最後に相手の顔面に強烈なスマッシュを叩き込み、試合は終了した。21対11。10点差をつけての勝利だった。緑は疲れた様子を見せず、荷物をまとめていた。一方、相手の選手は誰が見ても疲れている様子で髪の毛はシャワーでも浴びたかのようにびしょびしょに濡れている。


「どうだった、健巳君?」

「どうって、正直驚きました。こんなに強かったなんて・・・」


 七彩から強いとは聞いていたが、ここまでとは思っていなかったのだ。前半はそこまでの差はないだろうと思っていたが、インターバルを挟んでからの後半がとても凄かった。緑は獣の様に獰猛なスマッシュを繰り出したかと思ったら、不意を突いてドロップショットを使う。そして、何よりもその体力だった。緑は相手選手から来た打球をすべて取りに行って、すべて相手に返していた。しばらくの攻防が続き、その9割越えの確率で緑が勝利していた。これがバドミントンというもの。僕はそれを初めて知った。


「緑君のあの戦い方は相手にすると、とっても嫌なんだよ」


 クルミ先輩が腕を組みながら言った。


「相手の体力がどんどん削られて、最後に生き残るのは緑君だけ。それでできた通り名が魂喰者ソウルイーター。相手の体力だけじゃなくて、やる気ソウルすら喰いつくす・・・なーんて、シャレの意味もあるらしいわよ。」


 クルミ先輩は突然観客席を立つ。


「さて健巳君、ちょっといいかな?」

「・・・分かりました」

「どこ行くの?」七彩が尋ねる。

「そうね・・・バド部の勧誘かな?」

「それなら私が―――」


 クルミ先輩は七彩の肩を叩いて言葉を遮る。


「大丈夫よ。これはさくら高バドミントン部の問題。今のあなたはには関係ないのよ」

「でも―――」


 七彩の言葉を、今度は耳元で何かを囁いて遮る。僕にはクルミ先輩が何と言っているのかは分からなかったが、七彩が暗い表情になったことはすぐに分かった。


「ほら、行くよ。健巳君」

「・・・はい」


 七彩に声を掛けようとしたのだが、その前にクルミ先輩に腕を引っ張られ、僕はそれに従うしかなかった。



「嘘ですよね?」


 クルミ先輩は僕のことを体育館の外へ連れ出して、人の少ない駐車場の近くにある休憩所のような場所に連れてこられた。


「何が?」


 クルミ先輩は自販機の前で財布を取り出し、小銭を探っている。


「とぼけないでください」

「・・・コーヒー、ブラックで飲める?」

「・・・はい」


 自販機に小銭を入れ、出てきたブラックコーヒーを僕に渡した。クルミ先輩はお茶を買った。


「さすがに無理やりだった?」

「ええ。七彩には問題ないと思いますけどね。なぜあんな嘘を?」

「君と2人きりで会話をする機会がどうしても欲しかったから」


 僕はコーヒーを一口飲んでから尋ねる。


「今ここで話す理由があるんですか?」

「早ければ早いほど、君には好都合」

「分かりました。それで、話とは?」


 クルミ先輩はお茶の入ったペットボトルの蓋を開けると、淡々と質問に答えた。


「もったいぶるのは好きじゃないから単刀直入に言うけど―――」

「健巳君の色を奪ったのは私だよ」



 衝撃的な発言から僕の頭の中で様々な推測、考察、疑問が飛びまわている。色を奪うとは?なぜ色が見えないことを知ってる?色を奪うとは現実的にありえない。なぜ奪った?この人は何者なんだ?


「表情はあまり変えないけど、頭の中はパニック状態かな?」

「そんなファンタジーな話を信じられるわけがない」

「そりゃあ、そうだよねー。それじゃあ、一瞬だけあなたの色を返してあげるよ」

「色を返す?」

「そ。色を返す。・・・あ、やっぱりダメだ。今はダメ。素晴らしい世界をもう一度絶望しちゃうか。昔よりも倍になって」

「何を言ってるんだ?」


 素晴らしい世界に絶望とは、話に一貫性を感じられない。


「ごめんこっちの話。健巳君にも関係あるけどね。―――そうだった。健巳君の色を奪ったことを証明しないとね」


 そう言って、クルミ先輩は両手を合わせて目を瞑った。


「・・・よし、そりゃ!」


 クルミ先輩が手を離すと、黒い何かが地面に落ちた。それが何か認識すると同時に、僕は両足の靴を大慌てで脱いだ。


「―――ッ!!!」


 僕は靴下を履いていなかった。そして、目の前には先ほどまで自分が身に着けていた靴下が落ちているのだ。あれは間違いなく僕の靴下だ。今日は黒い靴下を履いていた。


「どう?私が嘘ついてるように見える?」


 トリックを駆使すれば人の靴下を一瞬で奪い取ってしまうことは可能かもしれない。しかし、今起こった現象は何かしらのトリックを使ったようには見えなかった。考えても今は答えが出ないだろうから、話を進めてもらうことにする。


「分かりました。それで、何が言いたいんです?あなたが僕の色を奪ったことを教えたということは、何かの理由があるんですよね?」

「そう。あなたの言う通りよ。・・・あなたは色を取り戻したい?」

「もちろん。取り戻したいですよ」

「分かったわ。それじゃあ、下吹越紅羽と黄昏梓美の仲を戻しなさい」

「・・・僕は色を取り戻したいんですけど」


 僕は渋った顔をして尋ねる。


「ええ。理由はなんとなく分かるんじゃないかしら?」

「下吹越先輩に色が見えた」

「2人の仲を戻したら、その色を返してあげるわ」

「赤色」

「そうだったわね。赤色。情熱の赤。あ、そうだ。"ゲーテの色彩論"って知ってる?」

「なんですかそれ?」


 僕はコーヒーを口に含む。


「ドイツ生まれのヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテって人が提唱したものだよ。ゲーテは詩人であり小説家であり政治家であり法律家であり自然科学者であり・・・まあすごい人だったんだよ」


 クルミ先輩はそこまで言ってお茶を飲む。


「『色彩は光の行為である。行為であり、受苦である』っていう前書きからはじまるのが"ゲーテの色彩論"。教示偏、論争偏、歴史偏の3部構成になってて、教示編ではゲーテによる色彩の基礎理論のお話をして、論争偏ではあのニュートンの提唱した色彩理論を批判。歴史偏ではギリシア時代から18世紀後半までの色彩論の歴史を語ってるわ」


 近くにあった長椅子に座って脚を組む。


「ゲーテは色彩論の中で光に近い色である黄色、橙色などはプラスの作用、つまりは快活な気分を与える。闇に近い色である青色、紫色などはマイナスの作用、つまりは陰鬱な気分を与えるって言ってるの。まとめると、ゲーテは、色というものは人間の精神に影響を与えていることを説明しているの。本当は色彩環のことも説明したかったけど、それは自分で調べてね」

「・・・ゲーテのことはだいたい分かりました。それで、あなたは何が言いたいんですか?回りくどいのは嫌いなんでしょう?」


 脚を組み直す。


「違うわ。もったいぶるのが嫌いって言ったの。回りくどいのは好きよ。私が言いたいのは、健巳君は色を失ってからの世界をどう思うのか。ってことよ」


 僕は頭の中で色を失った朝を思いだす。あの感覚は喪失感だろうか。寂しいと感じたのだろうか。


「・・・色が無い世界は、寂しい」

「本当にそうかしら?健巳君は健巳君の無力さを感じなかった?色が見えなくなって、病院に行っても治らないと言われて、自分にはどうすることのできない無力感」

「誰だって、いきなり色を奪われたらそうなりますよ」

「そうかしら?けれど、その日の夜にはその感情が無かった。心が覚えていなくとも、体は覚えているものよ。・・・その日の夜のことを思い出してみなさい」


 色を奪われた日の夜。七彩からメールが来たのだ。


「七彩からメールが来た。どこの高校を目指すのかっていうメール」

「そうね。それにあなたはどう答えたの?」

「さくら高へ行く」

「それはなぜ?」

「高校なんてどこでも行けたから」

「違うわ。健巳君は未来を軽く考えないはずよね?だったらもっと高いレベルの高校へ行ったはずよ。色が奪われて心が弱っていたとしても、健巳君の論理的思考はそれを無視できない」

「僕は・・・」

「あなたは色を奪われても自暴自棄をしない。いいえ、したとしてもすぐに元に戻る。それはなぜ?」

「精神が強いから」

「違う。健巳君は



「そんなはずはない。そんな理由は無理やり過ぎだ」

「そんなことは無いのよ。私は健巳君がお母さんのお腹の中にいた時から知っているから」


 クルミ先輩は椅子から立ち上がってから否定した。


「あんたはいったい何者なんだ?」


 仮に、クルミ先輩が母さんのお腹の中にいた時から知っていることが事実なら現役の高校生をやっているはずがない。そもそもそんなに若くないだろう。


「私は・・・そうね、怪盗かしら」

「怪盗?」

「そう、世界を股に掛ける大泥棒、怪盗ルパンってところね」

「ふざけてるんですか?」

「いたって通常運転よ。怪盗はモノを盗んでこその怪盗よ。だから私はある人から色を盗んで、その色をあなたにあげたのよ」

「なぜ?」

「それは秘密よ」


 クルミ先輩は口の前でバッテン印を作って見せた。


「それじゃあ、2人の仲を戻すのがんばってね。あっ、それと銭形警部にもよろしくね」


 クルミ先輩は今日一番の笑顔を見せ、いつの間にか飲み干したお茶の入っていたペットボトルをゴミ箱に投げ入れて、唖然とする僕をひとり残して去って行った。

空きペットボトルはポトンと音を立てた。

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