♯3 対翼の兎
「それで、理科室はどこだ?」
「えーと、2階だから下に降りないと」
「分かった」
僕と七彩は飼育委員会の集まりがあるため、理科室に向かっていた。というのも、新年度の委員会が決まったので、委員会の仕事内容の確認や、委員長決めなどの話し合いを行うために、週明けである月曜日の放課後にすべての委員会ごとに召集が掛けられていたのだ。よって、廊下には指定された場所に向かうために学生たちで混み合っていた。特に、1年生はまだ学校に不慣れのため、この時期の委員会召集では必ず一人は迷子が発生すると担任の黒葛原先生が言っていた。
「それで、このまま真っ直ぐだね」
「分かった」
先週、七彩の家であったことを話題にしないことは、2人の間では暗黙のルールと化していた。七彩が『遠くに行かないで』と言ったのだから、僕は七彩の傍を離れなければいいだけだ。そう、それだけなのだから先週の件について深く追求はしない。
しかし、僕は少し怒っていた。それは七彩に、そして僕自身に。
七彩はさくら駅で悩み事は相談するように促した。それなのに、先週の七彩は泣き崩れ、明らかに悩みがあるのだ。僕に傍にいて欲しいと言ったが、そうではなく、僕には解決しがたい大きな悩みを持っているはずだ。
僕は七彩の家から帰って、ベッドに倒れ込んで、ここまで考えていた。しかし、それ以前に僕が悩みを打ち明けていなかったのだ。よって、2つの行き場の無い怒りが大きな悩みとなって、僕の頭の中でぐるぐると回っていた。
週が明けてもなお、その悩みは存在し続け、僕にとって大きな粘着質のような存在になっていた。
「右、左どっち?」
「右だよ。それで、正面に理科室があるはず・・・。ほら、あった!」
七彩の言う通り、目の前の教室は理科室と書いてあった。
「失礼します!」
「しまーす」
扉を開けると、教室にいる生徒の視線がこちらに向いていた。しかし、それも一瞬のことで、僕が扉を閉めた頃には誰の視線も僕達に向いていなかった。
七彩は開いている席に着く。続いて僕もその隣に座った。それとほぼ同時に教室の扉が開く。入って来たのは少しウェーブのある栗色の髪をした、少し背の高い女子だった。その後ろには、白髪交じりの眼鏡を掛けた老人が入ってくる。この人は何度か見たことがある。生物の先生だったはずだ。―――名前は忘れたが。
その2人は教卓の前に立つ。そして、女子生徒は指で人数を確認して、小さな声で「よし」と言ってから話を始める。人数がやけに少ない気もするがこれで全員なのだろ。
「みなさん、こんにちわ。この度、飼育員会の委員長を務めます。3年1組の
まばらな拍手が下吹越先輩を迎い入れた。続けて、先生が自己紹介を始める。
「ども。飼育委員の担当をしてます、
そうだ。東だった。
「まずは、飼育委員会の仕事の説明をします。下吹越さん、この資料を配ってくれるかな」
「分かりました」
東先生は手に持っていた資料を下吹越先輩に渡し、先輩がそれを配っていく。回って来た資料の見出しは"飼育委員会の活動について"と書かれていた。
1ページ目には飼育委員の活動時間、当番の仕方が書かれている。どうやら、月火水木金を5つの班に分けて行うらしい。
2ページ目にはウサギとカメのイラストが載っていた。どちらも飼っていると書いてある。
全員に資料が回ったことを確認した東先生が説明を始める。
「それでは、飼育委員会についての説明を始めます。飼育委員会は曜日ごとに担当を分けて動物の餌、飼育小屋の掃除を行います。飼育委員会は各学年の1、2、3組からそれぞれ2名ずつの選出となっています」
それならば、ここにいる人数の少なさに納得だ。思っていたより仕事は大変ではないようだ。
「餌上げの仕方などは配布した資料に書いてあるのでよく読んでおくように。それでは下吹越さん、後は頼みましたよ。私は用事があるのでお先に失礼するね」
「分かりました」
東先生はそう言って教室を後にした。理科室に残されたのは生徒達の緊張が僅かに解け、微々たる騒めきが広がる。それを再びの静寂へと導いたのは下吹越先輩だった。
「それでは、曜日ごとの班を決めてしまいたいと思います。勝手ながら、くじ引きで決定したいと思います」
下吹越先輩は、教卓から3つの白い正方形の箱を取り出した。それぞれ大きな文字で1、2、3と書かれている。そして、黒板に白いチョークで≪月曜日/3年:2人、2年:1人、1年:1人≫と書いていく。続けて、火水木金の人数の振り分けも書かれていった。火、木曜日は1、2、3年生が一人ずつで、月曜日に3年生、水曜日に2年生、金曜日に1年生が1人ずつ多くなっていた。
「それではみなさん、前でくじを引きに来てください。自分の学年の箱の中から白い紙を一枚引いて、そこに何曜日を担当するのかが書かれています」
その誘導に、前の席に座っていた生徒達から少しずつくじを引いていく。僕達も彼らに倣ってくじを引きに行く。
「どうぞ」
下吹越先輩の少し垂れた目が、僕に向く。
「……金曜日です」
ぶっきら棒にくじに書かれている曜日を言った。
下吹越先輩はチョークを持って黒板の前に立ち、金曜日の欄で腕を止めて振り返る。
「あなたの名前は?」
「シキシです。いろがみって書いてシキシです」
「……とっ、これでいいのよね?」
「はい」
僕は元いた席に戻る。
続いて、後ろに並んでいる七彩の番だ。残りの1年生の枠は月曜日と火曜日と金曜日だ。嫌な予感を感じつつ僕は席に座った。
「これだ!」
七彩はスパッと、空気が切れるようにくじの箱から腕を引き抜いた。そのくじに書かれた曜日を下吹越先輩に見せる。
「……金曜日ですね。あなたのお名前は?」
「シロヤマ、ナナセです!」
⁂
休日を告げるチャイムが鳴り響く。その音はどこか嬉しそうだ。周りの生徒から放出される、休日への祝福が僕を包み込んでいるからだろう。その僕はというと、別に嬉しくも楽しくもない。いたって通常の心境だ。
「たけちゃん、一緒に行こう」
教科書を鞄に入れていると、七彩が話しかけてきた。どうやら七彩は帰る支度が整っているようだ。
「悪いけど、先生に渡さなきゃいけないプリントがあるから先に行っててくれるか?」
「うん、分った。飼育小屋の前で待ってるね」
七彩は手を振って教室を立ち去った。僕も後を追うように教室を出る。
職員室は階段を下りて突き当りを右だ。これぐらいなら迷うことはない。
トントンとノックをして職員室に入る。
中をキョロキョロと見渡すが、プリントを受取る予定の黒葛原先生がいない。仕方がないので、机の上にプリントを裏表紙にして置いておくことにした。
職員室を出ると、小4からの付き合いである親友の浩輝とバッタリ出くわした。
「よぉ、健巳。奇遇だな」から浩輝の会話は始まり、なぜか僕は不覚にも、飼育委員会で同じ曜日になってしまったことを報告してしまった。浩輝と会話をすると、別に話したくもないことを話してしまうという現象が多々ある。どんな能力を持っているのやら。
「いやぁ、すごいね城山さん!それはある種の才能だね!」
「……才能ねぇ」
「……なあ、2人は本当に付き合ってないのか?」
「付き合っていない。何度言ったら分かるんだ?」
「誰がどう見ても、お前らはカップルだぞ」
そろそろ面倒になってきそうなので、聞き流す方向性に舵を切り替える。
「帰りも一緒に帰るんだろ?まさに高校生カップルの鏡!」
舵の切り替えは一瞬で無と成り、むしろ、とんでもない方向に行く予感がしたので仕方なく、再び反論を始めることにする。
「お前、彼女がいるんだろ?そんなに言うなら、浩輝はどうなんだ?高校生カップルとやらの鏡になっているのか?」
「あぁ……いや、まあ……」
浩輝は顔を引きつらせ、言葉を詰まらせた。どうやら、鏡にはなっていないらしい。しかし、浩輝は何か閃いたかのように言葉を続けた。
「―――俺の鏡は汚れてしまった……」
どや顔を決めてくる浩輝だが、全く回答になっていない。それよりも意味が分からない。このままでは浩輝が可哀想なのと、これ以上の会話は面倒なので、逃走を図ることにする。
「……僕はこれから飼育小屋に行くから。それじゃあ、また来週」
「あ、ちょっと」
僕は逃げるように昇降口を出て、校舎の裏側に走っていく。
逃走と言っても、嘘を吐いて逃げたわけではない。本当に飼育小屋に行かなくてはならないのだ。
⁂
校舎の後ろにある体育館の、そのまた後ろにあるのが飼育小屋だ。なぜこんな人の気配のないこんなところに飼育小屋を建てたのだろうか。人に見られてこその飼育小屋だと思うのだが。
飼育小屋の前には、すでに七彩と下吹越先輩が待っていた。飼育小屋には黒のウサギと白のウサギが1羽ずつ入っていた。
「すみません、遅れてしまって」
「いいのよ。ななちゃんから聞いているわ。頼まれたプリントを先生に届けに行ったのでしょう?―――偉いわね」
飛び切りの笑顔で『先生のお使いじゃなくて、そのプリントは出し忘れてだけのものなんです』、と言えない。なぜ僕がお使いを頼まれたように伝わっているのだろうか。ちゃんと正確に伝えて欲しいものだ。
いや、それ以前に『ななちゃん』とは……。僕が遅れている間にそんなに打ち解けたというのか。
「それじゃあ、私たちの仕事を説明するわね。行きましょう」
下吹越先輩はブレザーのポケットから小さな鍵を摘み出した。
「ちょっと待ってください。2年生の先輩はどうしたんです?」
金曜日の担当は3年、2年がそれぞれ1名。1年が2名となっている。それ以前に、各曜日ごとの担当には各学年最低1人は割り当てられているはずだ。しかし、辺りには僕たち以外の人はいないようだ。
「あー、それなら心配いらないわ。彼女なら去年も飼育委員で、私と同じ曜日だったから。それに、後で言おうと思っていたけれど、彼女は朝のエサやりと、飼育小屋の掃除をしてくれるの。だから私たちは放課後のエサやりだけでいいのよ」
下吹越先輩は鍵を開けて、僕と七彩を入る様に促す。
「餌やりと掃除もしてくれるんですか?なんか申し訳ないというか……」
「そうね。私も最初はそう思って、彼女に私もやるって言ったのだけれど、なんて言うか……怒られちゃったのかな?」
「怒られちゃったんですか?」
七彩が首を
「そう。『私の邪魔をしないでください』って。その後も何回か話してみたんだけれど、ダメだったわ」
『私の邪魔をしないでください』とはどのような意味なのか。考えても無駄な気がした。しかし、どのような人物なのかは興味深い。月曜日に飼育員会が集まった時、金曜日を当てた2年生の名前を見ておくべきだったと後悔する。
「さて、そろそろ説明を始めるわね」
下吹越先輩は黒いウサギを抱えて説明を始めた。黒いウサギはされるがままで、足が宙を蹴っている。
「まずは、この子たちのエサね。エサは1日2回あげるの。朝と夕。朝はさっき言ったように2年生の子がやってくれるから大丈夫よ。私たちは放課後のこの時間にエサをあげればいいわ。エサをあげる時に水の交換もするわ。なるべく新鮮なお水がいいからね」
下吹越先輩は黒いウサギを藁の敷いてあるふかふかの地面に降ろし、ウサギの体を撫でる。
「何か質問はあるかしら?」
「あの、その2羽のウサギに名前はあるんですか?」
僕は手を挙げて尋ねた。
「黒い方がクロで、白い方がシロよ。どっちもメスね」
「安直な名前過ぎません?誰が考えたんですか?」
「東先生よ」
「あの人ですか」
別に悪い意味では無いが、あの先生が付けそうな名前だなと直ぐに納得してしまった。
「名前かぁ」
七彩が顎に手を触れて首を傾ける。
「なんだ、名前を付けたいのか?」
「クロとシロだと、なんだか可哀そうだよ」
「そうか。それじゃあ、七彩はこの子たちに何て名前を付けるんだ?」
七彩はシロを抱き上げると自信満々に答えを告げる。
「白い子はホワイト!黒い子はブラック!」
「……英語に直しただけじゃないか」
と僕が七彩に突っ込みを入れるとフフフ、と下吹越先輩が微笑した。こちらの視線に気づくと、「だって」と言って再び微笑してから僕に向き直って尋ねた。
「2人って付き合ってるの?」
「いや、付き合ってないです」
僕は即答する。
「嘘でしょう?そんな楽しそうに会話してるんだもの、カップルにしか見えないわよ」
俯き、何も答えない選択を取る。
「そうですかぁ?」
一方の七彩はそんなこと気にしていない様子だ。
「2人はいつから知り合ったの?」
「幼稚園の時からです。幼馴染ってやつです」
「へぇー、そうなのね。それじゃあ、ずっと一緒の学校だったの?」
「小3まで一緒だったんですけど、小4になる前にたけちゃんが引っ越しちゃったので……その後は、高校に入るまでは離れてました」
「あら、それじゃあ、”運命の再会”ってことかしら?」
「”運命の再会”……。凄くいい響きですね!」
僕を無視して2人だけの空間を楽しんでいるようだ。しかし、ウサギ達は違うようで、2羽は僕の足元をぐるぐると回っている。お腹が空いたのだろうか。可哀想な気もしたので、2人の間に割って入る。
「あの、こいつらのエサはあげたんですか?」
「あ、そうだった。すっかり忘れてたわ。それじゃあ、ななちゃんこの話の続きは後でね」
「分かりました。楽しみに待ってます、先輩!」
「ええ、私もよ。それじゃあ、この子たちのエサを取りに行きましょうか。普段はここに来る前に取ってきてしまうのだけれど、今回は説明も兼ねて取ってきてなかったの」
僕たちは飼育小屋を出ると、校舎と体育館を結ぶ渡り廊下から校舎へ入って行く。わざわざ昇降口に回らずとも、ここから飼育小屋に向けへば良かったのだ。
下吹越先輩の後を付いていくと、職員室に辿り着いた。
「ウサギのエサは東先生の机の脇に置いてあるから覚えておいてね。今日は私が取ってきちゃうわね」
下吹越先輩は僕と七彩を残し、一人職員室へ入る。扉の隙間から先輩が職員室の奥へ進んだのが見えた。
僕が暇つぶしでも始めようかと考えているうちに、下吹越先輩は小さなビニール袋を持ってきた。中身が透けているが、色の判断ができない僕に何が入っているかを見破ることは難しい。おそらく、ニンジンは入っているのだろう。
「こんな袋が置いてあるから、取りに来るのよ。ここに入っているのが一食分のエサよ。それじゃあ、戻りましょう」
僕たちは再び飼育小屋へと向かった。
「先輩って彼氏いるんですか?」
職員室を抜け、渡り廊下に差し掛かったところで七彩が唐突に質問をした。
「ええ、いるわよ。でも彼氏というか下僕ね」
彼氏ではなく、下僕とは……。
「下僕ですか!?……私も1人欲しいです」
僕は七彩の衝撃発言に耳を疑う。
「ちょっと待て。七彩は『下僕』が何かを知っているのか?」
「『下僕』って執事のことだよね」
「違うぞ」
「違うの!?亜理紗ちゃんに教えてもらったのに・・・」
一体何を教えてもらったというのだろうか。それに、どんな会話をしてて『下僕』とは何かを学んだのだろう。
「七彩。これからは『下僕』と言う単語を聞いても反応するな」
「どうして?」
「様々な誤解を生むからに決まってる」
主にその被害は僕に来る予感がする。そのような事態は前もって対策しておきたい。
「分かりましたー」
七彩は唇を尖らせて言った。どうやら不満があるようだが、こうしておくしかない。
「ふふ、本当に仲がいいわね」
僕は「別に……」と否定するが、七彩は「もちろんです!」と胸を反らして誇った顔をした。
僕たちが飼育小屋に戻ると、シロとクロがエサを持ってきているのを知っているかのように擦り寄ってくる。特にシロはぴょんぴょんと僕の周りを跳ね回っている。
「相当お腹が空いているみたいね。はい、色紙君があげてみて」
下吹越先輩は袋から、スティック状にカットされたニンジン1本を受けとる。
「分かりました」
……シロとクロ、どちらから先にあげるか決めかねる。クロは行儀よくエサを待っているが、一方のシロは未だに跳ね回っていて落ち着きがない。しかし、その姿がとても嬉しそうで、先に食べさせてあげたいという欲求を僕に湧き上がらせてくるのだ。
僕はニンジンを見つめる。
……そうだ。
手に持っているニンジンを真ん中で2つに折った。そして、両手に持ったニンジンをシロとクロに与えた。2羽はそれを、もさもさと食べ始めた。その光景は永遠に見ていられる、とても微笑ましい光景だと感じた。
「やっぱり、悩むわよね」
腕を組み、隣に近づいてきた下吹越先輩がそう呟いた。
「性格なんてシロとクロの名前の通り真逆で、それぞれの個性が出て、とってもかわいいわよね」
そう言った下吹越先輩は憂い表情をしていた気がして、春が終わりを告げるまで、それは何度も僕の脳裏にしっかりと刻み込まれた。
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