第6話

 別れの時間が迫っていた。

 今日は夕方から休みをもらったが、篠吹に会いに行くことは出来なかった。何故かと言って、答えることはできない。

 ただ、会えばそれが別れだと、知っていた。

 しかし、刻々と時間は迫る。

 会いに行っても、会いに行かなくても……もう、会うことはない。

 唐草模様の彫り込まれた美しいガラスと、日に日に色あせていく小さなバラの花弁。篠吹が、この七日間で自分に残したものは本当にそれだけだった。

 篠吹に言ったように、輝きを放つクリスタルの酒杯を、自らの手で叩き壊す日は訪れるだろうか。

 何もかも、壊れてしまえばいい……如は、唇を噛んだ。

 誰にも見せたことのない苦しげな表情で目を閉じる。

 わかってた……心中に繰り返すのは、篠吹と抱き合った日から手放すことのできない魔法の言葉。

 知ってる、わかってた……大丈夫、傷つかない……何も、変わらない……。

 「わかってた……」

 如はその言葉を声に出すと、ついに重い腰を上げた。


 人気のないセーヌ河の辺まで、二人は無言で歩き続けた。

 お互いに、もっと言葉を交わしたいと思っていたにもかかわらず、感情が昂ぶりすぎて言葉は尻込みした。

 やがて、どちらからともなく歩みを止め、如は篠吹に背を向けた。

 「日本に戻ったら」

 暗い水面にその静かな眼差しを注ぎながら、如は囁くような声音を震わせた。     

 「もう、会わない方がいい……」

 「……」

 篠吹は自分を拒む如の背をただじっと見つめる。わかっていた。わかっていたのに、自分はあるいは自分たちはこの一週間を享受した。誰も知る人間はいないと、帰りを待つ誰かの面影に背を向けて。今さら胸が痛むとは、自分も如もいえないだろう。      

 自分を拒絶するかのように……今ははっとするほど白く見えるコートの背中が小さく震えた。思い出と呼ぶにはまだあまりにも生々しい記憶が、現実みとともに苦さをおびる。

 篠吹はコートの襟を立て、欄干にもたれる人影に歩み寄った。

 「綺麗な街でしょう……」

 背後に気配を感じたか、振り向かないまま如が呟いた。遠くに見える中心街の光が寒気の為にか震えて見える。如は小さな溜め息をもらした。

 「僕には……まだここにいることが夢のようなんです」

 「夢?」

 篠吹に微笑みかけて如はええと頷いた。

 「こんなに長い間日本を離れたのは初めてですし、東京とは何から何まで違う。聞き慣れない言葉に一日中囲まれて、必死に話して、町並みも人間も出会うもの全てが新鮮です。不思議な感じもするんですよ。実感がわかないって言うか……」

 だから、とわずかに首を傾げ

 「篠吹さんと過ごした時間も、何だかみんな夢みたいでした……。僕がずっと憧れてた、たぶん……最高に幸せで甘い夢。でも目が覚めたら、僕は貴方じゃなくて……別の人の側にいるんだってそう知ってる哀しい夢でした」

 うっとりと、如は微笑んだ。            

 「言ってはいけないんだって、わかってます。でも……楽しかった」                 

 異国で見た泡沫の夢と、如は全てを悟りきっているようだった。古い建造物が作り出す大きな影の中で、二人は黙って抱き合った。

 冷たい頬を重ね、如が囁くのは異国の言葉。

「Je vous aime depuis longtemps, mais adieu, mon amour」

 篠吹が目を見開くのと、如が乾いたキスをしたのは同時だった。

 冷たいだけのキス。乾いた感触だけを残し、如は篠吹のもとを去った。世界の情熱と呼ばれる誘惑と激情だけで生きた七日間が嘘だったかのような、あっけない幕切れだった。如の言葉を借りればまさしく短い夢だったのだろう。

 振り向くことも立ち止まることもない如の確かな歩み。

 篠吹は一種の感動さえ覚えた。

 -本当に美しい人とは去り際の美しい人のことをいう-

 いつか見た映画にそんなフレーズがあったと不意に思い出した。

 真冬のパリ。暗い夜空。切なすぎる別れとは無縁の密やかな喧騒。闇の彼方に、人工的な街灯の光が見える。遠ざかる背中は、自分とここで別れ、一体どこへ向かうのだろう。かすれた如の囁きが耳から離れなかった。綺麗な音と寂しげな声。囁かれた言葉は、別れを告げるものだった。

 ずっとこのままでいられると、そんなおとぎ話を信じていたわけではなかった。

 一生の内の七日間を、たったそれだけの時間を共有しただけだった。それでもその中には、世界を賭すほどの情熱があった。全てを忘却の彼方に押し去る魔力があった。今ここで悔いるべきは、一体何なのだろう。

 今この瞬間に……消えていく人影に追いすがれないこと以外の何を後悔すればいいのだろう。

 踏み出しかけ戸惑うのは、一体誰の為だろう。

 どうしてこれほど……惹かれたのか。

 どうしてあれほど、求めたのか。

 如が消えていく。

 暗いパリの空の下に、凍える大気に溶けるようにそっと、如が消えていく。

 二人の、七日間が夢になった。


 「如と同じ誕生日のワインが手に入ったんだ」

 ギャラリーの片付けを終えたところへ、オーナーであるジルベールがやってきた。

 「飲まない?」

 そう誘われて断れなかったのは、寂しかったからだ。自分ではいつも通り振舞っているつもりだったけれど元気がないとマリーにも言われたから、ジルベールも心配してくれたのかもしれないと如は思った。

 店の奥にあるアンティークのテーブルに椅子を引っ張ってくると、ジルベールは鼻歌を歌いながらワインを空けた。

 お気に入りだというバカラのグラスに、如は微かに苦笑した。

 「A Votre sante」

 「A Votre sante」

 グラスを目の高さに上げて、二人は乾杯した。

 ジルベールは、少し静か過ぎるといって小さなラジオを持ってきた。チャンネルを何度か合わせると、有名な女性歌手の高音で、古い愛の歌が流れ始めた。その女性歌手が恋人を飛行機事故で亡くした日にも歌ったという愛の歌を、ジルベールは口ずさんだ。

 「……」

 如は黙って、哀しげに震える女の声とジルベールの声を聞いていた。

 こちらに来たばかりの頃、ジルベールに恋人はいるかと聞かれた。恋人と呼ぶなら、今は是俊になる。如には何故かすぐに返事ができなくて、それは秘密だと曖昧に笑ってみせた。

 「amoureux secret?」

 秘密の恋人かい、とジルベールは目を細めて笑った。

 今こうして世界の終りみたいな顔をしているに違いない自分の身に起こったことを、ジルベールは何もかも知り抜いているのではないかと如には思えるのだった。

 -あなたが私を愛してくれるのなら どうでもいいの-

 祖国も友達も全てを捨ててみせる、とラジオに合わせてジルベールが如の瞳を覗き込んだ。そして

 「終わった恋をいつまでも引きずるのはよくないよ。それは死んだ恋人の亡骸を愛撫し続けるのと同じことだから。そうだね、言うなればロマンスに対する冒讀だよ」

 ジルベールは緑がかった灰色の瞳でじっと如を見つめた。

 如は、とそっと手を握り

 「本当のロマンスは一生に一度だけと信じているのかも知れないけれど、そんなことはないよ。むしろ全てのロマンスがどれも一生に一つしかないんだ」

 如の手を引き寄せ

 「私にとっては、生まれて初めてのガールフレンドも三人いた妻も君が来る直前に別れた年下の彼も、みんなが今でも特別だよ。今でも愛しいと思う。それから」

 「ジルベール?」

 「君もだ」

 その手に素早く口付けてジルベールは片目を閉じてみせた。

 「ねぇ、如、私と恋をしないか?」

 「え?」

 如はオーナーのお気に入りと皆からからかわれていたし、確かにそれに気付いてもいたがこれほどストレートに、しかも日本人ではとても口に出来ないような誘い文句が言えるとは。

 「私は君の秘密の恋人になりたいんだ」

 冗談とも思えないジルベールの言葉。確かにジルベールは魅力的な男性であり人間だった。五十を過ぎているが、外見も精神も雰囲気もまだまだ若い。好奇心も旺盛で向上心も人一倍だ。美的なものに対するセンスは抜群にいいし、懐も深い。この店に惚れ込んだというのは、ある意味ではジルベールその人に惚れ込んだのと同義だった。

 それは、あるいは楽しいい恋になるかも知れなかった。それだけではなく、自分を大きく成長させて、変えることのできるチャンスにもなるだろう。そして、何より……一人ではどうにもならない痛みを紛らわせてくれるはずだった。けれど。

 是俊を裏切れるのは、世界を敵に回してもかまわないと思うのは、篠吹だったからだ。それ以外の誰かの為に、自分はなに一つ犠牲にはできない。如はようやくそれに気が付いた。

 如、と呟いてジルベールが目を見開いた。

 誰の為にか、涙が溢れた。つっと頬を伝い落ちた滴が自分の涙だと理解するまで如にはしばらく時間がかかった。

 「Pourquoi pleures-tu? Ne pleure pas, bebe」

 大きな手に頬を包まれても如の涙は止まらなかった。悲しいとか寂しいとか、一体どんな感情が自分を泣かせているのだろうと、まるで他人事のように如は考え、そしてようやく気が付いた。

 心が麻痺してしまったのだと。傷の深さを理解することを、心が拒んでいる。頑ななまでに、その痛みを無視し続けようともがいているのだ。

 ジルベールと、いたわしげに自分を見つめる男の手を如はとった。

 「貴方が言うことは正しいけど、僕は一生に一つの恋をしてた」

 そして

 「それを手放した」

 縋りつくようにジルベールの手を両手で包み込んで目を閉じた。

 「如、目を開けて」

 囁くような命令に如はおとなしく従った。

 「手放したものは二度と戻らないよ。でも、互いに呼び合うことは何度でもある」

 「ジルベール?」

 「君は素敵だ。私が一目惚れするくらいね」

 軽やかにウィンクを飛ばしてジルベールが如の頬に口付けた。

 「私にとって、君は奇跡みたいな存在だった。いかにも旅行者らしい顔つきでこの店にやってきて、とても、気に入ってくれたね。パリに来たい、ここで働きたいって……今になればひどいフランス語で、必死に私に話してくれた」

 あの時、と言ってジルベールは微笑んだ。

 「まあ、それはいい。私は君がどんな形であれ私の人生に飛び込んできてくれたことを歓迎しているよ。心から」

 君は奇跡だと、ジルベールは繰り返した。

 「だから、君自身もまた奇跡を呼び寄せるだろう」

 預言者のように、どこか荘厳な表情でジルベールが言った。

 「奇跡……」

 Oui、とジルベールは頷き、だからと、柔らかな表情で微笑んだ。

 「そんなに悲しそうな顔をしないで……。ただでさえ、いつも抱きしめたいと思ってるのに」

 口の端すれすれにキスをしたジルベールにありがとう、と如。

 「まだふられたとは思ってないよ」

 屈託のない笑顔で告げたジルベールに笑って頷いた。


 「もしもし?」

 「ああ、冴島さん……どうしました?」

 相手をいっそう遠くに感じさせる国際電話のノイズが、如はあまり好きではなかった。お互いが、本当に遠くにいるように感じてしまうから。しかし電話の相手は、いつもと同じ理知的な声で話しかけてきた。

 「うん、こないだ電話した件なんだけど、もしよかったら少し資料とかもらえないかな?すぐにそこに決めようとは思ってないんだけど、これからのこと考えたらやっぱり参考にしたいし」

 「ええ、かまいませんよ。あの物件もうちの取引先で引き取ることになりそうですし。よければ他にも適当なものを探して一緒にお送りしますよ」

 「本当に?そうしてもらえると助かるよ。ありがとう。本当はこっちにいる間に、ジルベールにもいろいろ相談しておきたくて……ごめんね、お金にならない仕事で」

 「いいえ。僕もお手伝いできれば嬉しいですよ」

 「まだオーナーにもなってないのに、敏腕の弁護士抱えてるみたいで心強いよ」

 「僕も専門は刑訴だから……あまり期待はしないで下さい。コンサルタントの友達はいつでも紹介できますけど」

 「ううん。ほんと、心強いよ。ありがとう」

 「いえ。……冴島さん、声が元気そうになりましたね」

 「え?」

 「この前は、何だか……お疲れのようでしたから」

 「そう、だった?ごめんね、心配かけて」

 「いいえ。お元気なら、それが何よりです」

 「うん……。あー、それじゃあ、またかけるね。いつもお願いごとの電話ばっかりで申し訳ないけど」

 「声を聞くだけでも僕は嬉しいですよ」

 「ねえ、千堂君」

 「何ですか?」

 「……ううん。何でもない……。それじゃ、いつも本当にありがとう」

 「とんでもない。どうぞ、パリでの生活を楽しんでください」

 「うん。じゃあ、また」

 「ええ、それじゃぁ……」

 電話を切って、如は苦笑した。

 相変わらずの後輩だ。切れ者で、いつでも冷静で、頼りになる。どこか人を小ばかにしたようなところもあるが、本人に悪意はないと如は信じていた。

 サークルのOB会で再会した彼は弁護士になっていた。それも、聞けば不動産関係や経営のコンサルタントに強い関係を持つ事務所に勤めているという。いずれは開業したいと如が話すと、快く相談に乗ってくれた。今も是俊に電話をすることより、彼に相談を持ちかけることの方が圧倒的に多い。と、言うよりも是俊と電話で話をしたのはクリスマスの一度きりだ。しかも電話をくれたのは是俊の方だった。

 今もまた、新着のメールを知らせる表示をパソコンの画面に見つけた。

 篠吹が帰国してから初めてのメール。

 すぐに開こうとして如は思いとどまった。

 今日は腰を落ち着けて少し長めの返事を書こう。

 その前にコーヒーをいれた方がいいなと、如は椅子をたった。


*Je vous aime depuis longtemps, mais adieu, mon amour=ずっと好きでした。でも、さようなら、愛しい人。


*Pourquoi pleures-tu? Ne pleure pas, bebe=どうして泣くの?泣かないで、可愛い人。

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Amoureuse au secret -パリの空の下- 西條寺 サイ @SaibySai

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