第5話

 パリで最も洗練されているという16区を、篠吹は一人歩いていた。パリに来た当初の一番の目的をようやく思い出したのだ。

 アルクールのワイングラスを涼の誕生日に贈りたい……。そんなことを思いつき、バカラの店舗をパリで探した。高級住宅街としても有名なパッシー地区だけに、いかにもという感じのマダムたちが華やかな街を行きかっている。

 初めて一緒に迎える涼の誕生日を、危うく忘れるところだった。

 日本ではお目にかかれないような立派なシャンデリアが、バカラのブティック兼、美術館に入ってすぐ目に付いた。

 目当ての品物はすぐに見つかった。二人で飲めるようにと、二客そろえる。他にも魅力的なグラスがあったが、涼に初めて贈るならバカラの代名詞でもある重厚なワイングラスがいいと思った。

 そして、ジンが好きだと言っていた如の為に、ローハンのオールドファッションも一つ購入した。アルクールに比べ薄く華奢な印象のショットグラスだが、繊細に施された唐草模様が美しかった。あの部屋で、如が一人アルコールを口にするなら、赤く色づいたワインではなく、無色透明なドライジンの方が似合うだろう。

 「……」

 涼の誕生日プレゼントを買いに来て……如のことを考えている。篠吹は参ったなと、一人苦笑した。

 それから、自分の行動がひどく無神経なように思われて……苛立ちのような悲しさを覚えた。


  「髪が、伸びた……」

 まるで今気がついたとでも言うように、篠吹は如の髪を撫でた。

 「もう、スーツを着ることもないしと思ったんですが……。おかしいですか?」

 「いや。よく似合う」

 篠吹が率直に感想を告げると、如は困ったような照れたような表情で目を伏せた。そして

 「……日本には、いつ?」

 そう、何気なさを装って篠吹に尋ねた。視界の内には、昨日より片付いた部屋と今すぐにでも出かけられそうな雰囲気の黒いスーツケースがある。

 わかってた、と如は心の中で呟き目を閉じた。

 「フライトは明後日だ。午前の便だから、明日、空港のホテルに移動する」

 「そうですか……」

 ああ、と意味のない返事をして篠吹はソファから立ち上がった。

 「これを……」

 「え?」

 クローゼットから出てきたのは、Baccaratのネームが入った紙袋だった。

 「今日、寄ってみたんだ。君の好みかどうかわからないが、俺が勝手に似合いそうだと思った」

 「でも」

 いいから、と如の手に紙袋を押し付けて篠吹は再びソファに腰を下ろした。ハーフサイズのワインをグラスに注ぎ足して

 「使わないなら、人にあげてくれてかまわない」

 「そんな……。ありがとうございます」

 開けていいですか、と如が篠吹を見た。悲しそうにも見える美しく潤んだ瞳が篠吹に向けられた。

 「どうぞ」

 真っ赤なラッピングを開いて、如は箱の中からグラスを取り出した。

 「高いものでしょう?」

 手の中のクリスタルと篠吹の顔を見比べ、驚いたように目を見開いている。

 「いや……パリの案内もしてもらったし、お礼と言うほどじゃないが、よかったら使ってくれ」

 「ありがとうございます」

 光の加減で宝石のような光を放つグラスを、如は明かりに透かしてみた。

 「綺麗ですね。ワイングラスはよく見かけるけど、こういうタイプははじめて見ました」

 「ジンが好きだと言ってたから。ワイングラスだと、一つだけというわけにいかないし」

 暗黙の了解で篠吹は苦く微笑した。

 「気に入ってくれたら嬉しいよ」

 それを強く望んでいる様子もなく、篠吹はさらりとそう言った。

 「大切にします……」

 「……ちょっと、如君の好みと違ったか」

 悲しげに、それでも無理に笑った如の肩を篠吹は軽く叩いた。困惑したような、心から喜んでいる雰囲気のない如に少し寂しいような気もしたが、もとはといえば自分の気まぐれからの贈り物だ。押し付けられた方だって迷惑だっただろうと、そう思い至った。

 「やだな……」

 如はうつむいて、半笑いのような声で呟いた。

 「どうした?」

 如はなおもうつむいたまま、じっと篠吹からの贈り物を見つめていた。

 「思い出は、いつか消えるけど……物は、残るでしょう」

 「……」

 如の言わんとすることを察して、篠吹は沈黙を守った。

 「僕はきっと……何かの苛立ちと誘惑に負けて、いつかこのグラスを叩き壊すんだ……。それから、ようやく我に返ったようなフリをして……床に這いつくばって粉々になったガラスをかき集める……。今から、そんな自分が想像できて……」

 バカみたいだと如は呟いた。

 故意にではなく、篠吹は言葉を失った。自分の独りよがりがまたしても如を傷つけた。絶望的な衝撃と自己に対するどうしようもない憤りが、如の手の中のグラスを篠吹に奪わせた。

 「すまない。今すぐ割ろう。君が一人で辛い思いをすることはない」

 「いや……」

 「すまない。俺は本当にバカだ。大バカだ……」

 「止めてください!」

 その声は、悲痛な叫び。篠吹が振り上げた腕に如は縋った。

 「如くん……?」

 「お願いだから、止めてください……もう、僕から何も奪わないで……僕から、貴方の記憶を、消さないで……」

 お願いと、小さな声で訴えた如を篠吹が驚愕の眼差しで見つめた。

 胸が張り裂けるような思いとは、まさしくこの気持ちを言うのだろう。篠吹はグラスを持ったまま如をきつく抱きしめた。

 「Sachez que je vous aime ……」

 泣いてはいない。如は泣いてはいなかったけれど、慟哭よりずっと痛々しい表情で篠吹を見つめた。


*Sachez que je vous aime =愛してることを、わかって

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