第4話

 もう何度目になるのか、篠吹は部屋の時計に目をやった。最後に時計を見てから、まだ15分も経っていない。

 朝からずっと、如のことばかり考えていた。昨日の電話は……恋人へのものだったのだろうか。だとすれば、この部屋で自分の傍でかけることは避けたかっただろう。

 何をしている?と、自問を繰り返していたが満足のいく答えは導き出せなかった。

 読書に集中しようとしても、脳が文字を理解しない。視線は活字の上を泳ぐばかりで意味のある単語一つも見つけられなかった。諦めて篠吹は本をテーブルに置いた。

 今朝方届けられたピンクのバラが、仄かな芳香を放っている。いい香りだと如が言ったその花。毎日新しいものが届くが、一日二日で枯れることはない。花瓶は当初のものより三倍も大きなものになっていた。当然、内容物である花の数は五十近い。

「……」

 篠吹はゆっくりと立ち上がると、部屋の一隅を占めるバラの花瓶に歩み寄った。


 4時を過ぎて、如がやってきた。そして

 「バラは?」

 残り香だけを漂わす花瓶を不審に思ったらしい。篠吹は、両手を軽く広げ、さぁ、とでも言わんばかりに首をかしげた。

 「しの」

 何も言わなくていいと篠吹が如の唇を塞いだ。外気の冷たさを宿したままの唇を温めながら、篠吹は如のコートを脱がせた。如は篠吹の腕に手をかけ、切なげな眼差しを細めた。

 これまでと同じように寝室に誘われたが、如は薄暗い部屋の前で思わず立ち止まった。

 篠吹は笑って如の腕を引いた。

 「これ……」

 「我ながら、頭がどうかしたとしか思えないよ」

 「……」

 寝室の光源は唯一つ、揺らめくキャンドルの明かりだけだった。真っ白なシーツに包まれた大きなベッドには、無数のピンクが散っている。

 濃厚なバラの香り。引き裂かれた花弁が、凄惨な恋の血痕のようにベッドを彩っていた。

 「どうせ、明後日には帰る」

 言い訳のように篠吹は言って

 「下らないな」

 自嘲気味に笑った。

 「どうして、こんなことを?」

 如は頬が火照るのを感じながら背後に立った篠吹を振り向いた。

 「暇だった」

 それ以上聞かないでくれと、篠吹は首を振った。

 「こんなこと……貴方らしくない……」

 如はそう言って笑うと、篠吹の首筋に腕を絡めた。

 昨日のことを気にしているのかと、ベッドの中で如がきいた。性欲の捌け口のように自分を扱っていると、篠吹はそう思っているのだと如は知っていた。篠吹にはそんなつもりはないけれど、篠吹は確かにそう気に病んでいた。

 かまわない、如が囁くと篠吹が驚いたように目を見開いた。

 「何を言ってる?」

 「そうじゃないと、わかってますよ。でも、一生、僕は愛人みたいな立場でもかまわない。それで、貴方が僕を必要としてくれるなら……」

 「そんなつもりはないよ」

 顔を背けて篠吹の言葉を聞きながら、如はベッドの上に辛うじて残った花弁を片手で掻き集めた。

 「如君?」

 伸ばした如の腕から、篠吹が焦がれた白い手の隙間から薄紅色の花が降り注いだ。キャンドルの灯火に不ぞろいで可憐な花びらがが、不吉な雨のように黒い影となる。

 「今でも、誰よりも……僕は貴方が好きだ……」

 瞼に落ちた花弁を払いもせず、如は上を向いたまま篠吹に告げた。



 メインディッシュの白身魚を前に、如が篠吹の瞳に微笑んだ。

 「本当は、セックスの後で食事をするのは好きじゃないんです」

 「それについては同感だ。でも、二日続けて夕食を抜くのは嫌だった」

 「本当に、自分が欲望だけで生きているような気がしてくる。動物みたいで……その上、奇麗事ばかり並べたがるから……動物よりずっと始末が悪い」

 周囲を憚る低い声は、篠吹にだけ届いたようだった。篠吹も如と同じ表情で微笑んだ。二人とも、食が進んでいるとは言えなかったが、パリでも名店として名高いレストランのディナーは悪くはなかった。先日、如の体だけを求めそのまま帰してしまったことを、如が想像している以上に篠吹は気にしていた。そんなつもりではなかったのだと直裁に伝える気はしなくて、何となく遠回りなことばかりしてしまった。ホテルを通じ、こんなレストランに予約を入れたのもその為だった。

 昨日のことで、如が気を悪くしているとは思わなかったし、問題は別にあることも理解はしていた。が、周囲からどう思われていようが篠吹にもわからないことはたくさんあった。

 例えば今、この瞬間、自分が何をしたいのか、篠吹にはわからなかった。

 いくら何でも羽目を外しすぎている。違う……恐ろしくて直視はしたくないが、自分は、自分たちはとんでもないことをしでかしている。涼も、是俊も、考えてもいないような裏切りだ。

 今となっては、もう、涼を愛していると言うことが何より憚られる気がした。

 「どうしました?」

 いや、と力なく微笑んで篠吹は如を盗み見た。相変わらず、静かな表情だ。何を考えているのか、篠吹には想像もつかない。

 大ぶりのワイングラスに揺れる深紅の液体を如はゆっくりと飲み干した。

 「……」

 篠吹の視線に気がついて、如は柔らかな微笑をのぞかせた。

 「同感です」

 寂しさに歪んでいく微笑みに篠吹の胸は痛んだ。

 言葉にしなくても……この思いを誰より理解できる、世界のたった二人。

 自分と、如だけが共有する罪悪と哀しみ。

 「Nous avons complicités」

 如は篠吹の瞳を見つめ、そう囁いた。篠吹が眼差しだけでその意を問うと

 「共犯です」

 そっと視線を落としながら如が応じた。

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