第3話

 今さらとは思ったがパリでの4日目を、篠吹はルーブル美術館で過ごした。昔から何か目的があるわけではなく、時間を潰したい時によく訪れていた。如が聞いたら不謹慎と言われるかもわからなかったが、如何せんすることがない。

 以前ならホテルに篭って本ばかり読んでいたが、今回はどうしてもそういう気分にはなれなかった。パリに着いた次の日、モンマルトルの丘に向かいあのギャラリーに立ち寄ったことさえ、奇跡的な所業だった。そして、期せずして如と再会した。

 仕事が終わったら、ピガールのバーで会おうと如は言っていた。篠吹がムーランルージュに行こうかと笑うと

 「エンターテイメントとしては素晴らしいし、男としても悪くない場所ですよ」

 と、如は応じた。

 如には女性の恋人もいたな、と篠吹は不意に思いだした。自分に抱かれている時の如しか知らなかったので、彼が女と寝るところは想像しがたい。そういえば涼にも経験があると言っていた。

 涼。

 その単語に篠吹の思考は停止した。忘れていたわけではない。ただ異国の魔力が涼に対する愛着さえ霞ませていた。

 顔を見たいと、声を聞きたいと、抱き締めたいともこの瞬間に思うのは本当だった。しかし……今こうして如を待つ間にもし涼が現れたら、心から喜べるだろうか。

 「お待たせしました」

 約束の時間を5分程過ぎて如はやってきた。急いで来たのか、寒さの為にかいつもは白い頬がわずかに上気していた。

 「出よう」

 驚いている如の腕を掴んで篠吹は席を立った。表通りでタクシーを捕まえると迷わず滞在しているホテルを告げる。如は戸惑っているようにも見えたが、ドライバーに気付かれないようそっと篠吹の手に触れた。

 待つ間に飲んでいたせいか、篠吹の手は如にはひどく熱かった。

 「……」

 篠吹も無言で如の指を握った。

 部屋に着くとすぐ、篠吹は情熱的な性急さで如を求めた。普段の篠吹からは想像もつかない、獰猛な獣のような激しさで。力強い野生美を武器とするしなやかな猛獣。その引き締まった体に自らの肢体を絡ませながら、如は求められる奇跡のような歓喜に意識を飛ばした。

 まどろむ如の体を抱き寄せた、篠吹は微かに目を細めた。

 涼を抱く時は、神経質なくらい気を遣って、極力負担がかからないよう配慮を欠かしたことはない。涼を愛する時はいつも最大限の理性が側にいた。

 それに引きかえと、篠吹は如の閉ざされた瞼に指先で触れる。

 如を抱くのは、いつも突然だった。突然再会し、突然欲しくなる。欲しいという強烈で凶暴な思いに支配される。野蛮な、と呼んでもいい。それは、涼には決して向けることのない激情だった。

 青白い瞼が震え、如がゆっくりと目を開けた。

 「すまない」

 まだ焦点の定まらない不安定で柔らかな眼差しが篠吹に向けられる。くるりとした丸い目がどこか不思議そうにも見えた。

 「無理をさせた」

 髪を撫で篠吹が囁くと、如はうっとりとしたような微笑で篠吹の首筋に顔を埋めた。甘えた鼻声が耳元に聞こえた。篠吹は如を抱きしめた。

 「Que vous êtes chaud……」

 「ん?」

 聞き取れない言葉に、篠吹は顔を上げた。

 如は篠吹の腕に頭を乗せ、悪戯な微笑を浮かべた。何でもない、と首を振る。

 「何だか、ずるいな」

 篠吹は言って、それでも諦めたように笑った。

 しばらくの間二人は黙ったままだったが、如はおもむろに頭を上げた。

 「どうした?」

 「今、何時ですか?」

 「もう、11時かな」

 「そうですか……」

 如は気怠げに髪をかき上げ、ベッドサイドの時計に目をやる。紅い唇が何か単語を綴ったように篠吹には見えたが、その言葉を解することはできなかった。

 「そろそろ、帰ります」

 「まだ食事もしてないだろ?」

 何だか申し訳ないような気持ちになって篠吹が引き止めると

 「かまいません」

 如は微笑んだ。

 「すまない」

 「何がです?」

 「いや……」

 ゆっくりと体を起こした如。篠吹も後を追うように起き上がり

 「泊まっていけばいい」

 どんな思いからか再び如を引き止めた。

 「いえ……今夜は、日本に電話を入れる約束をしてるので」

 「電話ならここからでもできる」

 篠吹が言うと、如は驚いた表情をした。篠吹がどうしてそこまでして自分を引き止めるのかがわからなかったし、何より駄々をこねる子供のような篠吹を見るのは初めてだった。

 「……すまない。俺は何だか……君をいいように扱っているみたいだな」

 押し黙った如の顔に何かを読み取ったのか、篠吹は決まり悪そうに眼を伏せた。

 「そんなこと、ありませんよ……。僕は」

 言いかけ、如は口を噤んだ。

 「どうした?」

 いえ、と曖昧な笑みに打ち消される如の本音。篠吹は短くため息をつくと、如の裸の肩をそっと撫でた。如はその手に口付けて、ゆっくりとベッドをおりる。

 「明日、また来ます。たぶん、夕方くらいには」

 「……わかった」

 にこりと微笑んで、如は篠吹に背を向けた。


*Que vous êtes chaud=(貴方の体は)温かい

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