第2話
出会った日の翌日、雪の残るシャンゼリゼを二人は並んで歩いた。くすんだ空の下にたたずむ、改修工事中の凱旋門には灰色のシートがかけられている。
「今さら凱旋門も珍しくないでしょう」
真っ白なコートに顔の半ばをうめながら如が傍らの篠吹を見上げた。
「ああ。でも改修中じゃないのは一度しか見たことがないな」
どうして、と問いながら、如は改めて篠吹の颯爽とした姿にわずかに目を細めた。
品のいいカシミアのロングコート姿の篠吹はパリの街中でも人目をひいた。これだけの体躯に恵まれている日本人は多くない。それに精悍でアジア人らしい凛々しさをもつ篠吹には、パリジャンとは違う趣きと色気があった。マリーも、如が店に戻ると篠吹のことをききたがった。
篠吹は周囲の視線にも動じることなく、まるでそんなものには気付かないと言いそうな優雅な傲慢さで
「毎年決まった時期に来るからね」
と、微苦笑を浮かべる。
「この時期にってことですか?」
「伯父のお供だって言っただろ?明後日が、伯父の死んだ恋人の命日なんだ。恋人って言っても何十年も前の話だけどね」
「安藤先生の?」
紳士的な安藤の面影を篠吹の微笑の中に見付けながら、そういえば先生は独身だったなと如は思いだした。安藤のことだから、若い頃は篠吹に似た美丈夫だったのだろう。今までは離婚したか死別したとばかり思っていたが、実は驚くべきロマンスの末に今の安藤があるのかも知れない。
そんな如の思いを知ってか知らずか、篠吹は
「学生時代にパリで出会った女性で、お互いに一目惚れだったらしい。勿論本人の話だから実際はわからないけど」
落ち着いた声で如に話した。
「その人は、どうして亡くなったんですか?」
「事故だよ。交通事故だったらしい。婚約までしていた仲だったから……それから生涯独身を貫いて、毎年欠かさず墓参りをしてる」
何を思うのか、篠吹の口元に寂しげな陰りが走った。一瞬で消えたそれは、あるいは同情と呼ばれるものだったのかも知れないと如は思った。
「写真を見たが、確かに綺麗な人だった。気が強そうで、伯父の好みだってすぐにわかったよ」
前を向いたまま、篠吹はそう続けた。
「僕には」
抑えた如の声。
篠吹がゆっくりと如に視線を向けた。
「僕には……安藤先生の気持ちがわかる気がする」
そっと目をそらした如に、篠吹は何かを言いかけ口を噤んだ。
しばらく無言で大通りを歩いた後、
「部屋に、来ないか?」
篠吹が唐突にそう言った。
如はほんの少しだけ驚いたように瞳を揺らしたが、はいと、短く頷いた。
篠吹が滞在していたのは、アール・デコの時代に建築されたパリでも有数のホテルだった。
如は以前にパリを訪れた時、いずれは宿泊してみたいと思っていたが結局実現はされずに今日に至ってしまった。が、何の因果かこんな形でかつての望みは叶おうとしている。
何かの賞をとったこともあるという、エントランスの大理石の大ホールに佇み、如はフロントで鍵を受け取る篠吹の姿を眺めていた。
一緒に仕事をすることがあっても、やはり篠吹は自分とは違う世界の住人なのだと自信と気品に満ちた広い背に如は思った。
それを、悔しいとか悲しいとか思うことはない。ただ、篠吹という存在は……全てが特別だった。何から何まで……。今なら、何故自分が一目で篠吹に惹かれたのかよくわかる。金や地位や名声や、勿論それも篠吹を輝かせているものの一部には違いない。けれど、篠吹にはもっと、選ばれた人間だと思わせるような、体内からあるいは魂から発せられるパワーがある。
迷いなく、篠吹は生き続けているように見えるのだ。自分が向かうところを知り、そこに待ち受けるものを知り、篠吹は何もかも知り尽くしているように如には思える。
そして、もしそうなのだとしたら……篠吹は自分を、自分たち二人のことをどう受け止めいているのだろう。
「行こう」
堂々とした美しい男が自分の傍に立ち、そう声をかけてきた。
それが、篠吹であると認識するまで如にはわずかな時間が必要だった。
「安藤先生は?」
ここまでついてきて問うのもおかしいかと思ったが、
「このホテルには泊まってないよ」
「え?」
篠吹は如を伴いゆっくりとホールを進む。
「彼女の、妹さんが今一人で暮らしているんだ。去年、お母さんもなくなってね。それで、茶のみ友達か何か知らないが伯父の訪問を楽しみにしてるんだよ。広い家だから、ゲストルームもあるし。伯父は……飛行機がとにかく苦手でね。だから絶対に一人では乗らない」
「じゃあ」
「そうだよ。滞在中は別々に行動してる。毎年毎年いい迷惑だ」
赤絨毯を敷き詰めた瀟洒な作りの古いエレベーターが二人を運び、やがて停止した。
「日本にはない、いいホテルだ」
篠吹は独り言のようにそう言うとエレベーターをおり、突き当りの部屋の鍵を開けた。
「……ステキな部屋ですね」
如は部屋に入るなり嘆息を漏らした。
古い味のある艶を放つ調度品はどれも、アール・デコ調のもので統一されている。落ち着きと清潔感のある部屋には、微かにバラの香りがした。
「いい香りですね」
「例の、伯父の婚約者の妹さんが毎日バラを届けてくれるんだ」
篠吹は如からは死角になっていた部屋の隅を指し示し、
「ロマンチックな人でね」
どこか嬉しそうにも見える苦笑を浮かべた。
「je vous aime……」
「え?」
如の唇から漏れた滑らかなフランス語に篠吹ははっとさせられた。
如はピンク色のバラを飾った花瓶に歩み寄り
「貴方を愛しています……。赤が情熱なら、ピンクはもう少し柔らかい感情を表すんです」
「すごいな。よく知ってるね」
いいえ、と振り向きながら如は微笑んだ。
「パリには花屋が多いでしょう?暮らしていると何となく覚えるんです」
「なるほど」
如は静かに篠吹に歩み寄り、その胸に顔を埋めた。
「je vous aime beacoup」
羽を触れ合わせるような柔らかなキスをして、如は篠吹に囁いた。
篠吹にも聞き取れた如の囁き。
心から、愛している。そんな言葉、日本語ではきっと口にできなかっただろう。如は、あるいは自分が全くフランス語を介さないと思っているのかも知れないと篠吹は気づいたけれど、その方がお互いのためだろうと何も言わなかった。
明け方の這うような寒さに、如は目を覚ました。室内は暗く、夜明け前の深い闇を溜め込んだままだった。
床に脱ぎ散らした服が、如にはどことなく凄惨に映る。
篠吹の静かな寝息。
そういえば、はじめて見たと目を凝らす。
深く、穏やかな乱れることのない呼吸が篠吹らしく感じられた。
古代ギリシアのアポロン神にも、これほど安らかな眠りがあったのだろうか。輝くばかりに美しく雄々しいと歌われた伝説の太陽神を如は一時思い描いた。
広い胸に頭を持たせかけ、そっと篠吹の腕を撫でる。シーツのかかっていない篠吹の肩はひどく冷たくなっていた。
愛しい、と心が叫んだ。
壊れてしまいそうなほど、この存在を欲している自分がいる。
いっそ、二人でこの世界を去ろうか。永遠に続く神々の世界で生きることが叶えばいいと思う。自分はダフネになって……永遠にアポロンを魅了し、焦らし続ける。
愛故の拒絶。永久に愛されるために、自分は彼を受け入れない。月桂樹に姿を変えられようとも、それ故に結ばれることがなくなろうとも、それでもかまわない。
「je vous veux」
貴方が欲しいと寝顔に告げて、温もりを取り戻していく愛しい腕の中で、如は再び眠りに落ちた。
如が再び目覚めた時、篠吹は既に起きていた。
「おはよう」
「お早うございます」
恋人同士のように挨拶を交わして、二人は乾いた唇を触れ合わせた。罪悪感は、もうない。全くないと言えば嘘になるが、異国の空は全てを覆い尽していた。薄暗い冬のパリの空の下では、全てのものの輪郭がぼやけて見えた。鋭いエッジを潜めた景色は、その中に息づく人間の感情まで麻痺させるようだった。すくなくとも二人にはそう思えた。
何かを思いついたように篠吹はベッドをおり、床に散らかっていた服を身に着けた。とは言え、シャツのボタンは止めていなかったし今すぐどこかに出かけるという雰囲気でもない。
「篠吹さん?」
ベッドに上体だけを起こし、如は篠吹の背を見つめた。
「何を」
驚く如に微笑んで
「写真を撮らせて欲しいんだ」
篠吹は黒いキャリーボックスから一眼レフのカメラを取り出した。
困りますと如は言いかけ、思いとどまった。是俊にも涼にも、すでに申し開きのできない裏切りを重ねている。今さらその痕跡が物理的に残ったからといって何が変わるだろう。
破滅的な思考が、如の脳裏を占めていた。
もう、いい……ただこの日々を、運命と呼べるのなら。それに全ては始めから篠吹の意のままだった。自分には、何一つ決めることができなかった。篠吹が選んだ答えを積み重ねて、ここまできた。そんな風に言えば、まるで自己弁護のように聞こえるかもしれなかったが、如にとって篠吹は……魂を貫くような力強く鮮やかな存在だった。
是俊を愛している。その気持ちに嘘はない。けれど、篠吹がいなければきっと世界はもっと退屈な姿を自分に見せていたと思う。篠吹がいるから、自分が生まれてきたことに感謝できる。自分の生を祝福できるのは、篠吹と出会ったからだった。
「手を」
「え?」
ベッドに腰かけ、篠吹は如の手をとった。カメラを床に置いて、両手で慈しむように如の手を包み込む。
「あの朝から」
一本一本の指を撫でながら、篠吹は微笑んだ。
「この手の幻にとりつかれてた……」
「手?」
ああ、と篠吹が如を見る。
「君を抱けなくて……あの朝、顔も覚えていなかった。印象だけが断片的に残ってて、それから君の手を思い出した。薄暗い中でも何だか発光してるみたいで……すごく」
綺麗に見えた……。
吐息のように小さな声で囁き、篠吹は如の手の甲に口付けた。
「手だけ撮りたいなんて言ったら不愉快かな?」
「いいですよ」
如は小さく笑って少しだけうつむいた。そして
「篠吹さんが欲しいなら、切り落としてあげてもいい……」
見詰め合った時の如の両目は、笑っていなかった。口調も表情も穏やかで言葉遊びに興じているようにしか見えないのに、瞳だけは静まり返っていた。
「遠慮するよ。君の一部だから、俺は綺麗だと思ったんだ」
自分の提案を辞退された一抹の悲しさのようなものも如の微笑の内には感じ取れた。しかし篠吹はそれに気付かぬフリをして、如の手をひっくり返したり指を曲げたりしながらポーズを作り始めた。
宙に止めて、シーツに投げ出して、篠吹はしばらく口をきかずにシャッターを切り続けた。
「ありがとう」
篠吹はカメラを両手の中に収めて如に微笑んだ。如も無言で微笑み返し、ベッドに座り直した。
「いつから写真を?」
カメラを片付ける篠吹に向かい如は問いかけた。
「そうだね……小学生の頃からかな。父親が好きで、子供の頃からカメラをおもちゃにしてたんだ」
「プロを目指したりは?」
しなかったよ、と篠吹は振り向いた。
「写真は趣味だ。食べていくには技術も無いし、何よりそこまでの思い入れがない」
傍らに腰かけた篠吹の首筋に腕をまわした如。そして
「僕の手が、好きでしたか?」
「ああ」
篠吹はそっと如の裸の背を抱いた。
「好きだった。何度も夢に見た」
「……」
どうして、と篠吹を詰りかけ、如は口を閉ざした。そんなことを言ったところで、何も変わらない。今まで二人が歩んできた道も、そして今この瞬間も。
「今日は……」
そう言いながら顔をあげた如には、穏やかな哀しみが溢れていた。
「今日は、どこに行きますか?」
「……どうしようか」
如の髪を撫でながら、篠吹は、美しく瞬く瞳が無言で頷いていることに気がついた。
わかってる……そう囁く如の眼差し。
わかってる……。
言葉を綴るフリをして、篠吹の唇が如のそれに重なった。
如は目を細め、それからそっと目を閉じた。
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