Amoureuse au secret -パリの空の下-

西條寺 サイ

第1話 

 その日は朝から雪が舞い、真冬のパリは凍えた人々を薄暗い空の下に抱いていた。

 フランスにやってきてもう三ヶ月になる。毎日、新鮮な驚きと体験の連続の中にはあったが、やはり人間はなれる生き物らしかった。日々に、単調さの翳りを感じ始めたのは、暗い冬の町だけのせいではないだろう。

 一週間程度で終わるはずの改装工事が長引き、店は現在、全体の4分の1くらいの広さのギャラリーだけで営業をしている。そんな理由で、如は静かでゆったりとした時間を過ごしていた。

 ギャラリーの倉庫で、如は三日ほど前から一枚の写真を探していた。古い展覧会の図録の中で見つけたその一枚。“le figue”という、若木を写したものだった。モノクロームのイチジクの木が二本、残照を思わせる光の中に立っている、それはある種、幻想的な光景でもあった。倉庫のどこかにしまってあるというミッシェルの言葉を信じ、如は、接客をする以外はほとんど倉庫にこもっていた。

 あるのか、ないのか、しかし探すことに面白みのある宝もある。如は収穫がないかもしれないこの仕事を、実際嬉々として続けているのだった。

 今日も見つからないかな、と如はまた一つ、高所の棚を閉めながら思った。

 と、店番をしていたマリーが、日本人らしいお客さんが来た、と倉庫にやってきた。如は、すぐ行くと、応じ、衣服に付いたほこりを払う。

 モンマルトルの丘には観光客も多い。特に日本人など、多い日には何人もこのギャラリーを訪れる。如は常と変わらない笑顔で店先に戻り、マリーと英語で会話をしていた男性に

 「こんにちは」

 と、声をかけた。

 「如、くん……」

 「篠吹さん……」

 振り向いたのは、片岡篠吹、その人だった。

 こんなことがあるのかと、如の表情は驚愕を通り越して戦慄に近いものだった。

 どうして、と呟いた如の唇が震える。

 同じく驚いたような様子の篠吹も、言葉に詰まっているようだった。

 「お知り合い?」

 マリーは如にフランス語で話しかけた。

 Oui……如は、それだけをやっとの思いで答え、少し早めに昼休みをとっても構わないかとマリーに尋ねた。マリーは勿論、と微笑み、篠吹にも笑いかけた。

 「少し、外を歩きませんか?」

 こわばった表情で如は篠吹を見る。

 「ああ」

 と、篠吹は応じ、マリーに礼と別れを告げた。


 「こんなところで、再会するなんて……」

 如は憔悴したような横顔で笑った。

 「ああ。俺も驚いたよ。伯父のお供でパリには来たんだ。如君がフランスにいることは知ってたが……まさか……」

 篠吹はそこで言葉を切った。何を言うべきか、あるいは何も言うべきではないのか、躊躇っているのが如にもわかった。

 戸惑いと興奮の入り混じった沈黙。

 如の住む小さなアパルトマンの一室で、二人は互いを見ることができなかった。

 コートを、と如が思い出したかのように唐突に言った。篠吹は、ああと低い声で応じ、カシミアのロングコートを脱いだ。

 「ありがとう」

 「いえ……」

 冷たい手が篠吹のコートの下で触れ合った。

 二人は視線を通わせた。

 篠吹が如の腰を抱き寄せる。

 唇が、重なった。

 二人とも、無言の合意を待っていた。

 如は手近だった椅子の背にコートをかけ、篠吹は唇を重ね合わせたまま、如をベッドに押し倒した。

 「……のぶさん」

 ニットを脱がせ、シャツの胸を開くと、如が篠吹の頭を抱いた。

 白い肌に音を立てて口付ける篠吹の服を如が脱がせる。

 暖房の効かない寒々とした室内。

 やがて、窓ガラスが徐々に曇り始めた。

 二つの荒い息遣いの合間に、切ないあえぎ声が響く。

 ああっと、如が背を仰け反らせた。

 篠吹は如に体を寄せながら、雨の夜のことを思い出した。如の体を、如自身を酷く苛んだあの夜のことを……。躊躇いがちにキスだけを繰り返す篠吹に、早くと如が囁いた。

 篠吹が覚悟を決めたように如の中に体を沈めていくと、如の紅い唇から甘い泣き声が漏れる。あの夜には一度も聞くことのなかった如の声に、篠吹は安心したように深く体を繋げた。

 「あ……」

 悲鳴が焦れるような吐息に変わる。

 篠吹は如の頬から唇に指を滑らせた。目を細めた如が戯れるように篠吹の指を甘噛みする。熱く潤んだ如の瞳は無言で快楽を訴えた。

 かつての情人に再会して……欲望だけで貪りあったと、そう言えばいいのだろうか。

 それは二人が越えた二つの夜とは全く異質な行為だった。追い詰められた中に、事態を楽しむ余裕が見え隠れする。運命がそうすることを許したのだと、運命の輪が結びつけたのだと、二人にはそんな風に思えた。

 狡猾な悦楽を得る代償は、己の御しがたい無垢か、あるいは誰かの汚れない信頼か。

 耳元に卑猥な言葉を囁いた篠吹の首筋を如が舐める。

 間近に見詰め合って頬笑むのは、すでに共犯の表情だった。

 「もう、いい……もう……」

 どうなっても……。

 達する寸前に如はそう言った。

 「君が誘った」

 「貴方が求めたんだ」

 整わない呼吸の下で、互いを責めるのでもない。二人は自身が感じたものをただ言葉にした。

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