第2話

しじみを買ってきた。今日の晩御飯にするつもりだったので、まだ日が落ちる前に塩抜きをしておく。ステンレス製の微かに小さな傷が見られるボウル7分目ほど水道水を入れる。このあたりの水はやたら薬臭さが鼻につくので浄水器にかけたものと変えるか逡巡しが、この際気にしない。柔らかなビニールを指に引っ掛けてぶちぶちと破り、しじみをパックから取り出す。硬い殻を擦り合わせながら透明な水の中に落ちていく。

塩を入れ忘れていたことにはっと気が付き、慌ててひとつまみボウルに入れた。早く溶けるようにとそのまま手で水を掻き回す。

今日のやるべき事はすでに終わっていたはずだ。ぼうっと椅子に腰掛けながらしじみを眺めていた。部屋の電気は付けずに、台所の蛍光灯だけが煌々と蒼白い光を放っている。昔からそういう空間が好きだった。

しじみたちはこの時を心待ちにしていたように、ゆっくりと口を開ける。中からは柔らかそうなベージュが覗いている。しばらくするとほっと落ち着いたように、にゅっと飛び出した管から少しずつ気泡をだしていった。同時に海で拾った藻屑もぴゅっと吹き出すので少しずつボウルの水は汚くなる。

安心しきったように見えるしじみに、不思議の国のアリスの可哀想なオイスターズを重ね合わせた。ああ、これから私に食べられるって言うのに呑気なものだ。私は彼らが可哀想で可愛くて、あの物語ではいっとう好きだった。

何だか意地悪をしたい気持ちになったので、溶けるように身を殻から飛び出しているやつをつついてやった。あわてて勢いよく殻を閉じるものだから、周りのしじみも驚いたように身をちじこめて口を閉じる。

冷蔵庫に30センチほど残った昆布が残っているのを思い出したが、わざわざ出汁をとるのも面倒になので、今日は顆粒だしでいい。どうせ誰に振る舞うわけでもないのだ。

今日の献立と手順を頭の中で考えながら椅子の背もたれに寄りかかる。


靴音が近づいて、少し止まる。数秒してから鍵を開ける音が聞こえた。

「おかえりー」

椅子に座ったまま声をかける。返事はない。

いつもより帰る時間が早いので私の心拍数も早くなる。予想外のことによわいのだ、私は。一体どうしたのだろう。




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