つづかない

@ichimiya

第1話

レッスンが始まる三十分前には、スタジオに着いてストレッチを始める。小学生低学年の頃は私服の下にピンクがかったベージュのタイツを履き、髪型を綺麗なシニヨンの形に固めてから通っていたように思う。いつからかそれをなんとなく恥ずかしいことのように思い、スタジオに行くまでの準備はポニーテールだけに留めるようになった。

母親の手で作るシニヨンは、いつもUピンが地肌を掠めていて、痛い、と声を上げることもあった。しかし、髪がきゅっと引き上げられる感覚は、幼いながらレッスンに対する気が引き締められた。

同年代の子供が20人弱、それぞれが親と買いに行った可愛らしい色のレオタードを身にまとい、まさに子供らしく女の子特有の会話に興じていた。


私のお母さんがねとーきょーバレエだんのコンサートに連れて行ってくれるんだよ。へー、すごぉい。みてみてこの服誕生日に買ってくれたやつなんだよ可愛い?ねえねえきいてよ。こないだの振りできるようになった?そっちの学校は算数ってどこまで進んでる?


そこには拙い駆け引きやカーストが既に存在していた。

姦しく談笑する少女の数は、学年が上がるごとに減っていき、新しい顔ぶれも加わったりと様々な変遷を経て、『シニア』と呼ばれる頃になるとレオタードは主に黒、もしくは品のある色でデザインに拘るようになっていった。


胸元がベロア素材の黒い生地のレオタードに足を入れて引き上げる。ショーツはベージュで目立たないものを選んではいるがはみ出さないように臀部のあたりを整える。ポニーテールのままだった髪の毛はコームで整えながら後れ毛一本見逃さないようにワックスできっちりとまとめあげた。Uピンの扱いは慣れたもので、鏡を見ずとも髪の毛で作った丸に対して放射状に等間隔で刺していく。仕上げに頭を左右に振り、どこも崩れないかを確認してからバレエシューズを履く。水筒、タオル、トウシューズをサブバッグに入れてスタジオに入り、まだ誰もいないことを確認する。正面にある大きな鏡張りを横切り、左奥にある扉を軽くノックした。

「おはようございます」

「……ええ、おはようございます」

少し遅れてくぐもった挨拶が扉の奥から返される。

「お月謝袋を渡しに来ました」

はぁい、と柔らかい声とともにガサガサと何かの音がした。しばらくの間が空いて、少し錆びたドアノブが捻られ、先生が顔を出す。

「はい、ありがとう」

手渡して目礼すると先生はすぐに部屋に戻った。まだレッスンの準備が終わっていないようだった。


私はスタジオの一辺に寄せられたバーの一つに自分のタオルをかけて、その足元にサブバッグを置いた。

少しずつ身体を解すようにストレッチを始める。座り込み、足を投げ出すようにして前に揃えて、タオルを二つ折りにするように腰から身体を折り曲げる。膝裏に心地よい痛みを感じながら足首を立てたり伸ばしたりを繰り返す。

開脚をして右足、左足それぞれに身体を傾けて体側を伸ばし、その後に上半身を前に倒して床にぺたんとくっつける。腰は浮かさずに百八十度広げられた両足の角度を徐々に広げるように、足の付け根から後ろに回していき、

うつ伏せで真っ直ぐ寝そべっている状態になる。そこから両腕を使って上半身を起こす。ここはどうしても小さい頃に水族館で見たアシカを想起してしまう。充分に上半身を持ち上げたら反り返るようにして頭を後ろへ、そして足は後頭部へくっつけるように曲げる。息を詰めずにゆっくりと呼吸をして足を下ろす。反らせていた身体を地面に対して垂直程度に戻す。その姿勢を保ったまま上半身を支える両手から少しずつ力を抜いていき、完全に床から手を離すと次第に腕を上げて頭上よりも少し前あたりに柔らかな楕円形を作る。そしてゆっくりと五秒数えてから体制を崩した。額にはうっすらと汗が滲んでいて、身体が温まっていることを示していた。正面の鏡を見れば、こころなしか頬に赤みが差しているようでリップクリームしか塗っていない唇の色も血色良く鮮やかになっていた。その後も一通り床でストレッチを終えると、時間が余ってしまった。バーを使った柔軟に移ろうと立ち上がるのと同時、鏡越しにスタジオの扉が開くのが見えた。

「おはようございます」

「……おはようございます」

先に挨拶をして何事も無かったかのようにバーに向き合う。右を軸足に、左足首を乗せる。背筋と腹筋を使いながらドゥヴァン、ア・ラ・スゴン、デリエールと方向を変えながら腕を運んで体側を伸ばす。

少し気まずさを感じていた。入ってきたのは、最近入ったばかりの新入りの子で、私はあまり話したことがなかった。私が特別仲が悪いというわけでもなく、ほかの子が彼女と話している所も見たことがない。


健康的に焼けた肌で、ぱっちりとした二重の目が印象的だった。まだシニヨンを作るのに慣れていないのか、Uピンが髪の毛から飛び出していた。

お節介であるとはわかってはいたが、気になってしまう。左足をバーから下ろして、彼女に近づいた。座り込み、正面に揃えて伸ばした両足の上に覆いかぶさるように――しかし両手の先はくるぶしにまでしか届いていない――下を向いていたので、私に気がついていないようだった。

「ねぇ、あの」

思わず買った口篭ってしまったところで、彼女は心底驚いたように、勢いよく顔をあげた。

「な、なに」

どこか怯えたようにすら見えるその大きな瞳を見ながら、自分を鼓舞するように小さく息を吸い込む。

「あのさ、シニヨン崩れてるよ」

「えっ、うん……え?」

何を言われているのか分からないように眉根を寄せて、私を見る。困ったように私の言葉の続きを待っているようだった。少し逡巡してからもう一度口を開く。

「お団子が崩れてる」

彼女はつい最近バレエを始めたばかりなのだ。ああ、と合点がいったように後頭部に手をやる。ほんとだ、と呟いたあとに彼女の指がUピンをそのまま押し込む動作をした。

「それじゃあ、動いたらすぐに取れちゃうよ」

「そうなの?」

どうしよう、とばかりにまた眉根を寄せて困った顔をする。見れば、そもそもの髪の毛の量に対してUピンの数が足りていないようだった。横髪も天然パーマなのか、あちこちが跳ねている。

待ってて、と一言言い放って更衣室に向かう。自分のロッカーからコーム、ワックス、アメピン、Uピンの入った髪上げ一式の入ったポーチを持ってくる。スタジオに入ると不安げな顔をした彼女が座り込んでいた。

「じっとして、下向いてて」

「うん」

大人しく、私の手に委ねるところはとても好感が持てた。あっちこっちに飛び出ているピンを抜いて、髪を包んでいた黒いネットをとる。ポニーテールからやり直そうかとも思ったが、お互いに柔軟が終わったわけではないし、こんなことの為に時間を割くことはあまりいい選択ではないように思えた。仕方がなくポニーテールはそのままに手早くシニヨンを仕上げていく。他よりも細く柔らかいカールを作る生え際の髪の毛は、微かに茶色がかった色をしていた。

「いたい!」

「わ、ごめん」

地肌にUピンが掠めたようだ。そのあとは慎重に差し込んでいったので、抗議の声は聞こえなかった。柔らかく飛び跳ねる横髪はワックスとアメピンで対処をすれば、なんとか見れるような仕上がりとなった。

「首を振ってみて」

言う通りに首を振る様子は、まるで犬が水を飛ばす姿にも似ていた。

「大丈夫?緩くない?」

「うん、ありがとう!」

本当に嬉しそうに笑う顔につられて、私も少し笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る