第2話



雪ちゃんは三日ぶりに学校に来た。午前の授業が終わり、給食が過ぎ、お昼の休み時間にさしかかっても、雪ちゃんはずっと本を読んでいた。雪ちゃんは今日も、誰とも喋っていなかった。雪ちゃんの席は一番後ろの窓際、僕はその同じ列の三つ前の席で、しきりに振り返っては雪ちゃんの動向を確認していたのだ。


しかし今日の雪ちゃんは、もちろん僕の彼氏ではない。なぜなら、雪ちゃんは学校に来ているからだ。学校に来ているということは、おそらく風邪をひいていない。



お昼の休み時間、教室には少数の男子グループ、女子グループが、それぞれなにごとかを話し合っている。二つのグループは決して交わることはない、そこには思春期の隔絶があった。僕は普段、体育館でアクティブな男子グループに交わったり、教室でたむろする男子グループの雑談にさりげなく加わったりしているが、日に日に増す雪ちゃんへの愛情で、今日はそれどころではなかった。


僕は雪ちゃんの一クラスメイトとして、雪ちゃんの座る後方の窓際まで向かった。雪ちゃんは全く気づかない様子で、依然として凛とした姿勢を崩さず本に目を向けている。遂に席の前まで僕が来ても、やはり雪ちゃんは顔をあげなかった。


「雪ちゃん」

僕は呼んだ。返事がない、ただの屍のやうだ。

「雪ちゃん」

僕はもう一度呼んだ。返事がないうんぬん。

「雪ちゃん」

今度は語気を強めて呼んだ。返事がうんぬん。


流石に声が大きすぎたか、周りのクラスメイトの視線が僕の背中に突き刺さっているような気がした。気のせいであってほしい。


雪ちゃんは遂に本の隙間から顔をあげた。煩わしそうなその目は、ほとんど僕を睨んでいた。


「どうしたの、佐伯君。あと、ゆきちゃんって、やめて、恥ずかしい」


僕にしか聞き取れない声でぼそりと言った。目が据わっていて、流石の僕もいくらか怖かった。


「えぇ、この前そう呼んでいいって、言ったじゃん」


「バカ。あと、そういう、恋人みたいな感じ、ほんとうにやめて。始めの約束と違うよ」


抑揚のない声だ。アクセントをどこにも置いていない。仮に雪ちゃん言語、アクセント位置問題が出たら、解なしだろう。


「違うよ、今日は夏目さんの一クラスメイトとして話しかけているんだもの。ねえ、今は何を読んでるの?」


「古事記。はい、終わり。じゃあね」


雪ちゃんはまた本の世界に戻った。雪ちゃんの周りにはまた、違う世界の雰囲気が纏い始めた。その雰囲気の殻を破ろうとしている僕は、完全に邪魔者なのだろう。


「まあまあ。そう邪険にしないでよ。今日はとびきり面白い話を用意してるんだ。聞いてくれる?」


雪ちゃんは僅かに本の隙間から目だけを覗かせた。反応ありだと見た。


「最初に面白い話ってハードルあげて、大丈夫なの?」


「大丈夫。この話は半年前から温めてたやつだから」


「そうなんだ。仮に面白くなくても、わたし、愛想笑い苦手だよ」


「うん、知ってるよ。ていうか面白いってば。じゃあ話すね。これは昨日僕が電車に乗っていた時の話なんだけど」


「あれ、半年前から温めたんじゃないの?」


「あ、そうそう。違う、これじゃないんだ。もう一個別のやつ。これは、半年前の話なんだけど。僕がまだ初々しい幼稚園児だった頃の……」


「半年前は中学一年生です。わかるよ、このやり取りが面白い話でしたー、って落ちなんだよね。もう大丈夫。じゃあね、バイバイ」


雪ちゃんは思いの外冷たかったし、その落ちの見抜きはあまりに見事で、僕はただ脱帽していた。僕の浅すぎる知恵では、雪ちゃんの世界を破るのは無理難題であると悟った。それならば、雪ちゃんに対抗するには強行突破の物理攻撃しかないと僕は考えた。


僕はぎゅっと雪ちゃんの腕を掴んだ。雪ちゃんはキャッというスタッカートの効いた小さな悲鳴をあげ、怯えたように震えだし、持っていた古事記を机に落とした。ドンマイ古事記。


そのまま僕は雪ちゃんの腕をひいて歩き出した。雪ちゃんは重力を最大限に活用して踏みとどまったが、彼女の筋力はあまりに弱すぎた。他の生徒が僕たちを凝視していたが、僕は気にしなかった。

教室を出ると、僕たちは校庭へ向かった。雪ちゃんは諦めたのか、途中からやむなく歩き出したので、僕は彼女の腕から手を離した。


「ねえ、本当に。学校では、赤の他人だから、そういうことは、やめてほしいな。わたし、他の誰とも喋らないのに、佐伯君と一緒だったら、おかしいと思う。わたし、周りから変な風に見られるのが、一番嫌なの」


正面玄関を抜けたところで、雪ちゃんは極めて神妙な面持ちでそう喋りだした。


お昼休みは校庭で遊ぶことを禁止されているため、グラウンドにも、桜の樹の下のベンチにも、生徒は誰一人としていなかった。誰も見ていないので、僕はまた雪ちゃんの手をひいて、桜の樹の下のベンチまで行って、そこで腰を下ろした。雪ちゃんは五回ほどサッサとベンチの表面の砂埃を払って、同じように座った。


「正直に言って、雪ちゃんは、もう既に変な風に見られてるよ。だって雪ちゃん、誰とも喋らないじゃん。雪ちゃんは、自分が変な風に見られてないと思ってるから、周りの目を気にしているんだ。でも、雪ちゃんは既に、変な風に見られているんだよ」


「ひどい。どうしてそういうことが、言えるの。ごめん、本当に傷ついた」


「ひどいことがあるものか。僕たちは中学生なんだ。いつも一人で本を読んでいたら、どうしたって変な風に見られるに決まっている。変な風に見られるのが嫌なら、誰かと喋らなくちゃいけない。変な風に見られたくないのにいつも一人で本を読んでいるだなんて、そんなおかしな話はないよ。雪ちゃんは、言葉と行動が一致していない」


「どうして。佐伯君、知っているはずだよ。わたし、あんまり学校に来れなくって、友達とか作るのは苦手なんだって。継続した関わりが不可能なんだって、知っているはずだよ。なのに、なんで、そういうことが、言えるの」


雪ちゃんは泣いた。小さな嗚咽を漏らして、下を向き、濃紺のスカートをぎゅっと握りしめながら。スカートに落ちた滴は紺の色を更に濃くした。


「そうだね。僕は知っている。君よりもずっと知っている。ただ、僕は、いつも一人で本を読んでいて、けれど、喋ると気の利いた返しをしてくれる、そういう変な雪ちゃんが好きなんだ。そういう変な雪ちゃんが好きなのに、変な風に見られたくないなんて言われたら、僕の好意を否定することになるじゃないか。それは僕に失礼だよ。君は、変なままでいいんだ、誰とも喋らなくてもいいし、ずっと本を読んでいればいい。ただ、風邪をひいた時だけ僕の恋人でいてくれるなら、それでいい。僕は、そういう変な君が好きなんだから」


強い風が吹いた。桜の樹はつるつるの枝を伸ばし、そこに花びらの薄紅色は見えなかった。しかし、雪ちゃんが顔をあげて少し微笑むと、桜の花びらが彼女の周りに舞い落ちかたに思われた。それほど、雪ちゃんの笑顔は、綺麗だった。


「ふふ、佐伯君、露骨に言ってやったりって顔してる。ドヤ顔、って言うの? それと、生で聞く、二人称の『君』って、なんだか自分に酔っているみたいで、ちょっと気持ちが悪いかも。三文小説の気取った主人公みたい」


雪ちゃんは制服の袖で目元を拭い、笑いながら僕をからかった。僕は超えてはいけない線を超えてしまったかと心配したのだけど、どうやら杞憂だったみたいだ。その笑顔に、僕はいくらか救われた。


「ふう、良かった。ちょっと言い過ぎたよ、ごめんね。じゃあ、そろそろ時間だから戻ろうか」


雪ちゃんは、やはり微笑みながら、小さな声で「うん」と答えた。僕は立ち上がって雪ちゃんの右手を握った。その右手からは、何の抵抗も感じられなかった。

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熱病彼女 風々ふう子 @Fusenkazura5565

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