熱病彼女

風々ふう子

第1話



僕には熱病彼女と言う者がいる。つまり、彼女にとっての僕は、季節の変わり目彼氏なのかもしれない。


僕は決まって季節の変わり目に風邪を引いた。大抵は三日以内で治る普通の風邪なのであるけれど、時々一週間以上続いたかと思うと、それがインフルエンザだと発覚することもしばしばあった。

彼女もよく風邪を引いた。それは僕以上に酷いものだった。しかも、持病なのかどうか分からないけれど、彼女は慢性的に七度五分ほどの微熱だった。彼女の手は、いつも熱かった。


僕たち二人は、どちらかが風邪を引いたその時だけ、恋人同士の関係だった。風邪を引いた時の孤独感と人肌恋しさ、誰かに甘えたくなるような熱い息が出るのは、おそらく普遍的なものだろうと僕は考え、それを利用して彼女に告白したのだった。「雪ちゃ、さん、夏目さんが、風邪の時だけでいいから、僕を恋人にして、看病させてください」と。彼女は恥ずかしそうに目を伏せ、微熱のせいで一層艶かしい感じのする頬を染め、小さく頷いた。


今朝のホームルームで、担任の先生から雪ちゃんの休みを知らされた。つまり、今日の僕は、雪ちゃんの彼氏なのだった。不謹慎ながら、正直なところそれは嬉しい報告だった。彼氏という特権を手にした僕は、居ても立っても居られない上の空な気持ちで、放課後までやり過ごした。


僕は全速力で駆けて、鮮やかな紫陽花で埋まる正門を抜けると、コンビニでポカリを二本買って、雪ちゃんのマンションへと向かった。十二階建ての濃いオレンジの建物へ入ると、僕は雪ちゃんの部屋番号を押して呼び出した。


『どちら様ですか?』と、か細い声が受話器から聞こえた。「佐伯春馬です」と僕が返事すると、何か声にもならない声が聞こえたのち、エレベーターフロアへと続くドアが開いた。


僕は高揚した気持ちでエレベーターで八階まで登り、八〇三番の部屋のチャイムを鳴らした。


雪ちゃんは寝巻きで出てきた。上下で揃ったピンク色のパジャマだった。そのパジャマには縦横無尽に皺が走っていた。


雪ちゃんの頬は焼けるように火照っていて、何かすごく苦しそうだった。


「佐伯君。あ、あがる?」

雪ちゃんは伏し目がちに言った。


「もちろん」


僕は雪ちゃんの部屋に案内された。両親は不在のようだった。雪ちゃんの部屋はいつも清潔で、今日もまた清潔な匂いがした。決して整理整頓が行き届いてるわけでもない、積まれた本で少し足場も悪いのだけど、埃の一粒にも詰まっているように思わせる凄く純粋な女の子の匂いが、そこには満ち満ちていた。


雪ちゃんはそそくさとベッドに潜り込んだ。明らかに僕から身体を隠すようにして深く毛布をかぶり、真っ赤な頭だけをちょこんと覗かせた。


僕は適当なところにスクールバッグをおろして、ベッドの側面に凭れるように座り、ポカリを一本ベッドで眠る雪ちゃんのほうへやった。


「悪いよ、いつも」


雪ちゃんは弱々しく言いながら、遠慮がちに受け取った。


「水分補給はしないとダメだよ。ほら、ちゃんと座って飲んで」


雪ちゃんはベッドの上で正座をして、言われるままにしぶしぶポカリに口をつけた。


雪ちゃんの部屋は今日も本で散乱していた。ちゃんと大きな木製の本棚もあるのだけれど、どの列にも所狭しと小難しそうな本が並んでいて、そこに収まりきらない本は床やベッドに積まれていた。


「夏目さん、僕いつも思うんだけどさ、本は売らないの? このままじゃ本で窒息しちゃうよ」


「うぅん、持ち運ぶ体力が、ないの」


「僕が片付けようか? 売りに行ってきてもいいし」


「大丈夫。本は、好きだから、散らかっていても、大丈夫」


「そっか」


雪ちゃんは病弱だから、必然的に体力を使わない読書が好きになるのは分かる。あまり人の趣味に触れるのは無粋だと思い、僕はこれ以上口を出すのはやめた。


僕は立ち上がって雪ちゃんと正面になるように振り向いた。雪ちゃんは一瞬びくりと震えた。


「ど、どうしたの?」


「いや、大丈夫かなって。熱は測った?」


「三十分前は八度弱だった。今はさっきより下がっているかも。なんだか、ちょっと、喋りやすくなった、と思う」


「僕が来たおかげかな?」


雪ちゃんはそっぽを向いてその質問に答えなかった。おそらく悪意のある無視ではないが、雪ちゃんはときどき意地悪になるのだ。


僕は雪ちゃんの頬に触れてみた。雪ちゃんはびくりとまた一つ震えた。今度はおでこに手をやった。雪ちゃんのおでこは、煮えた鍋の底のような熱さだった。


「とっても熱いよ。本当に大丈夫?」


「うん、熱はあるけど、体調はいつも通り、いつも通りちょっとだけしんどい」


僕はまだ少し冷えているポカリを力強く握って、それから冷たくなった自分の手をもう一度雪ちゃんのおでこにやった。


雪ちゃんは気持ち良さそうに目を細めた。それがまたとても可愛くて、本当に雪ちゃんと付き合えて良かったと僕は思った。


「ありがとう。気持ち良いです」


「うん。うん。なんだか僕の掌が、僕の心と一緒に蒸発していくみたい」


「詩的だね。ちょっと下手っぴな詩人が言いそう」


「夏目さんは厳しいなあ。今日は何を読んでたの?」


僕は依然雪ちゃんのおでこに手をあてながら、会話を続けた。雪ちゃんと僕の顔の距離は30センチほどで、僕は少し緊張していた。


「梶井基次郎の『檸檬』と三島由紀夫の『潮騒』。二冊とも三周目くらいかも」


「ああ、それはいいね。『潮騒』は三島にしては珍しいエンタメ恋愛小説だもんね、もしかして僕が来るとわかってたから、恋愛小説でドキドキしてたんじゃ?」


「はいはい。佐伯君は、なんだか、すごいよね。臆することがないんだから」


「僕は雪ちゃんと……、夏目さんとこうしていられるなら、別に夏目さんに嫌われてもいいんだ。夏目さんは多分、僕のことを嫌いになっても、嫌いだって突き放せない性格でしょ? 夏目さんは優しい性格だから。だから、僕は、嫌われてもいいから、一秒でも長く、夏目さんに触れていたんだよ」


「今日はいつにも増して三流ポエマーだね。まあ、でも、いつも、来てくれてありがとう。あと、その、あの、ゆきちゃん、でいいよ、呼ぶとき」


雪ちゃんは終いまで聞き取れないほどの小さな声でそう言った。そして身体を起こし中腰に跪くと、三秒ほど僕の胸の中で顔を埋め、それからまたすぐに布団に潜って、そのまま眠りに落ちた。

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