火炎崇拝

手塚エマ

伝統祭礼 -手筒花火-


 日本人には火も水も神様です。


 一神教の西洋とは対照的に、日本では万物に神が宿っている。

 森羅万象だけでなく、筆や包丁や人形など、人が想いをこめて使った物には魂が宿るとされています。

 ここでいう、物に宿る魂は森羅万象に宿る神とは性質が異なり、人の念とでもいうべきでしょうか。


 一概には言えないとは思いますが、私はそれらを供養する時、どうして人はのだろうと考える。


 神事的には火の神の力で、物に宿った魂を天にかえしている。

 仏事のお焚き上げでも、包丁など燃やせない物は読経で魂抜たまぬきを行って成仏させ、そのあと、法に基づいてしかるべき処理をするそうです。

 その際、やはり読経とともに焚かれているのは炎です。

 護摩焚きです。


 たとえば、怨念に近いほど心の底から誰かや何かを憎んで怒り、ふらふらになって救いを求めているときに、私もなぜか火を見ると、それだけで気持ちが和らぎます。


 そんな火炎信仰を基にした神事や祭りは日本全国にみられます。

 別に怒っていなくても、燃え盛る炎はそれだけで美しいと思うので、火祭り関係目当てに旅行にも出かけます。


 中でも感銘を受けたのが、愛知県三河地方の伝承神事として行われる手筒花火。


 神社の氏子達が氏神様に、秋の実りの感謝を捧げる祭礼として奉納されます。

 演者は十八歳以上の男性のみ。

 宵闇の神社の境内で供される勇壮な花火です。


 手筒花火は、町内の竹藪から切り出してきた竹の中に火薬を詰め、祭りの当日に点火し、消火するまで、その花火を打ち上げる男衆が全部自分で務めます。


 細い竹筒に麻布を何重にも巻きつけて、その上にさらに荒縄を巻き、大人が両腕でやっと抱え持つことができるぐらいの太さにする。


 手筒花火の作成から奉揚までの手順は、主に三河から駿府にかけて庶民に広く受け継がれているそうです。

 三河の国主だった徳川家康が、足軽衆に火縄銃と火薬の取り扱いに慣れさせるため、推奨したからとも言われています。


その手筒花火が主役の祭り当日は、定刻が近づくにつれ、神社の境内の外灯がひとつずつ消され、掃き清められた参道も、参道の左右に設けられた観客席の人垣も、鎮守の杜の蒼いひとつの闇になる。


 やがて静寂に包まれた参道に、法被姿の男衆が手筒花火を抱え持ち、拝殿の前まで進み出ます。

 筒の火口を拝殿に向けて地面に置き、点火の衝撃で筒が回転しないよう、筒の下部に足をかける。

 そして最後にトーチの炎で手筒の火口に点火する。


 演者は筒の側面に荒縄で作られた持ち手を左右で握って筒を起こし、火を噴くそれを垂直にして身体の脇に抱え持ち、腰を落として右足を前に踏み出します。


 立ち昇る火柱は、あっという間に拝殿の屋根を越える高さになっていた。


 麻布と荒縄が何重にも巻かれているとはいえ、着火後の手筒花火の竹筒は、七百度を越える熱を発します。

 しかも、花火は打ち上げではなく、吹き上げ式。

 男衆は筒の火薬が燃え尽きて消えるまで、それを脇に抱えていなければなりません。


 紅蓮の炎が夜空に高く舞い上がり、鋳鉄さてつが黄金色の結晶のように煌めいて、観客席まで降ってきます。

 それまで平然と拝殿を見据えたまま、不動の構えを保ち続けた男衆が膝を曲げ、腰をいっそう深く落としたと思ったら、筒の底が突然抜けて、腹に響くような轟音とともに辺り一面、目もくらむような光の海になりました。


それはと呼ばれる手筒花火の特色です。


 真っ赤な炎を垂直に吹き上げ、男衆に火の雨を降らせた手筒花火が尽きる瞬間、筒の底に詰められた特殊な火薬に火が点いて、爆発的に炎を噴き出す仕掛けになっています。


 その衝撃で、男衆の身体は抱え持った手筒ごと、大きくぐるりと反転した。


 漆黒の闇の中に八の字を描いて消える火の演舞。


 筒の底からハネの炎が噴き出したその刹那、観客席からは熱狂的な喝采がわき起こり、鼻をつくような火薬の匂い。

 たなびく煙。

 天高く舞った火の粉が名残のように閃きながら落ちてきて、私の頭上で消えました。


 こういう火祭りは、やはり実りの収穫を終えた秋がいいと、実感させられた瞬間です。

 それも晩秋の締めくくり。

 今年一年、いろいろ嫌なこともあったけど。

 理不尽さにも泣かされて、死のうと思ったりしたけれど。


 火が全部なにもかも焼いてなかったことにしてくれて、天にかえしてくれるようで、ずっと夜空を見上げていた。



 故人を追悼する仏事である、長崎や広島の精霊流しのように、私たちは悲しみは水に流します。

 命の源でもある海へとして昇華します。

 日本人は怒りは炎で燃やし尽くし、悲しみは少しずつ水で薄めて和らげる。


 身を焼くような憎悪や怒り、手放しきれない悲しみも、炎の中に放り込み、水に浮かべて見送って流し、万物の神々にゆだねます。


 そうして新しい朝を迎えている。

 その朝はもう昨日と同じ朝ではなく、全く別の今日という朝なのだ。


 日本の祭りは誰かが人知れず抱えた怒りや悲しみ。

 それらを全部引き取ってくれる、受け皿のような意味合いも兼ねているのかもしれません。

 だから祭りはなくならない。

 人にはなくてはならないものとして、大切に伝承されていくのでしょう。


 私達があえて声にしなくても、それをゆだねた万物の神々は知っている。

 それが救いになっている。

 どこにもやり場のなかった私のあの無念も憤怒も悔しさも。

 人知れず流した深い涙も。

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火炎崇拝 手塚エマ @ravissante

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