音楽の歓び

「これは……」

 僕は思わず感嘆の声をもらす。

 そのバイオリンの姿は、素晴らしかった。

 細かく密で均一な木目。

 優美な胴体のフォルム。

 艶やかに光る飴色の本体。

 その全身から、高貴な光を発しているかのようだった。

 触るのも憚られる。


「リート! ……弾いてみてもいいかい?」

 恐る恐る、リートに尋ねる。

 リートは力尽きたように、椅子に座り込んだ。

「はい。それは、マコトさんのためのバイオリンです」

 僕はそのバイオリンを手に取った。

 長年使っていたように、しっくりと手に馴染む。

 それでいて、壊れたバイオリン以上の高揚感があった。

 僕は弓を弦に当てる。

 そして、ゆっくりと一音を弾いた。


 ぶわっ、と。一面の花畑が、目の前に広がる。

 たった一音の、その響きに、涙が出るほどの感銘を受ける。

 その音を奏でられる恍惚感に、バイオリンを弾く手が止まらなかった。

 感情のままに、即興で音楽を奏でる。

 遥か高い峰の上で、雲海を照らす朝日を見て。

 紺碧に澄んだ南の海のサンゴ礁を見て。

 満天に光る数え切れないほどの星星の輝きを見て。

 ありとあらゆる美しいものに感じる感動を、僕はその音に見ていた。

 充分な余韻を残して、演奏が終わる。

 しん……と、優しい静寂が部屋に満ちた。


「マコトさん……」

 リートが涙を流している。

「なんて……美しい音なんでしょう。私、感動で胸がいっぱいで……。素晴らしかった……」

「ああ。これ以上ない音だ……。こんな素晴らしいバイオリンを弾けることを、僕は幸せに思う。リート、君は、前以上の楽器を、僕に作り出してくれた」

「マコトさんのお役に立ててよかった」

 ハイスも涙ぐんでいる。

「なんて音だ……。あたしには、オンガクのことはよく分からないが……、まるで、自然界の美が広がるようだった。感動したよ」

 ルーフは笑顔になっていた。

「おと、きれい。きもちい」


「ハイス、ルーフ、ありがとう。……ねえ、リート。僕はもっとこのバイオリンを奏でたい。色んな音を聞きたい。そして、君の歌をそこに乗せて欲しい。僕の伴奏で、君に歌ってほしい。僕は君と一緒に音楽を奏でたいんだ」

「はい、マコトさん。私も、マコトさんの音と一緒に歌いたいです」

 僕はゆっくりと弓を引く。

 エドワード・エルガーが、キャロライン・アリス・ロバーツとの婚約記念に贈った曲。

「愛の挨拶」

 ゆったりと心地よいメロディが流れる。

 愛しげな旋律。

 僕は音に酔いしれながらバイオリンを奏でる。


 そこへ、リートの歌が加わった。

 優しく甘い声が音に重なったとき、鳥肌が立った。

 絡み合う音と声が、天上へと誘う。

 鼓膜を揺さぶる響きが、涙が出るほど心地いい。

 きらめきが広がる。

 きらきらと輝く音色が、螺旋を描いて昇っていく。

 気持ちいい。

 音を奏で、感じることが気持ちいい。

 声と重ね、互いに響かせあうことが楽しい。

 リートの歌を聴きながら、それにあわせて演奏する。

 伸びやかに歌うときは高らかにバイオリンも歌い。

 しっとりと歌うときはそっと音を沿わせ。

 お互いに相手の音を聞いては対話し合ってゆく。

 楽しい。楽しい。

 バイオリンを弾くことが楽しい。

 誰かと共に音楽を奏でることが楽しい。

 僕は初めて、バイオリンを演奏することに快感を覚えていた。

 リートと同時に、演奏を終える。

 僕は高揚感でいっぱいだった。


 バイオリンを大切に置き、リートを思い切り抱きしめる。

「リート……ありがとう」

「マコトさん……?」

「君のおかげで、僕はバイオリンを演奏することの楽しさを知ることができた。バイオリンを奏でることが、心地いいと思うことができた。こんなのは初めてのことなんだ。今までは義務感で弾いていた。演奏すると言うのは、ただ楽譜を辿るだけの作業でしかなかったんだ。でも今は違う。一音一音、感動を覚える。音の響きに、いつまでも浸っていたいと思う。そして君と一緒に演奏することができる喜び。君と一緒に音を辿るのは、この上なく楽しかった。楽しいと思える自分に驚いたよ。そして、嬉しかった。こんなに純粋に音楽と向き合えたことは初めてだったんだ」

 感動を伝えたくて、でもうまく言葉にできなくて、僕は懸命に喋る。

「リートのおかげだよ。ありがとう」

「マコトさん……嬉しいです。私も、マコトさんと一緒に歌うの、すごく楽しくて、気持ちよかった。マコトさんが音楽を好きになれたのなら、嬉しい……」

 僕たちは感動を分かち合うように、しばらく抱き合っていた。


「あー……。あたしたちは邪魔かな?」

 ハイスの言葉に、リートはぱっと身を離す。

「ご、ごめんなさい」

 その頬は赤く染まっている。

「リートのウタも、マコトのばいおりんも、素晴らしかったよ。二人にしか入れない世界があるんだなって、感じた。本当にばいおりんを復活させることができたんだな。リート、すごいよ。これで魔物退治も安心だな」

「ああ。このバイオリンならなんだってできる。そんな気がするよ」


 それから僕は『食卓の音楽』を奏でた。

 するとなんとフランス料理のフルコースが出現し、何が材料なのかも分からないまま、しかし食べると非常に美味しく、みんなでどんな料理なのかを推測しながら、楽しくお喋りしつつ食事をした。


 夜、部屋に入ってから。

 しばらくは興奮が冷めやらず、ベットに入ってぽつぽつとリートと会話をした。

「マコトさん。バイオリン、復活してよかったですね」

「ああ。リートのおかげだ」

「私、嬉しいです。気味悪がられて、単なる嫌悪の対象だった私の歌が、こんなふうにマコトさんの力になれて」

「魔族を撃退できたのも、リートの歌のおかげだもんな。君の歌には、はかりしれない力があるよ」

「マコトさんのバイオリンと一緒に歌うの、気持ちよかったです。音が輝いているような気がして……」

「僕も、リートと一緒に演奏するの、楽しかった。バイオリンを弾くことを純粋に楽しめたよ。君の歌と響きあって、心地よかった。本当に、そんなふうに感じるのは初めてだったんだ」

 僕はリートの髪をなでる。


「君が創ってくれたバイオリンのおかげで、僕はバイオリンを弾くことを楽しいと思えた。君と一緒に演奏することで、僕は誰かと共に音楽を奏でることの心地よさを知った。どれも、以前の僕なら知らなかったことだ。この世界に来て、君と出会わなかったら、僕はこの感情を知らないまま死んでいた。――そうならなくてよかったと思うよ。君に出会えてよかった。音楽の楽しさを知れてよかった。……僕に教えてくれて、ありがとう」

「お礼を言うのは私の方です、マコトさん。私と出会ってくださって、ありがとうございました。私に歌を教えてくれて、音楽を教えてくれて、こんなに素敵な想いを私に教えてくれて、ありがとうございました。崖の上で、一人口ずさんでいるだけでは知れなかった想い。そしてそれが好きな人の力になれる喜び。マコトさんは私に、生きがいを与えてくれました」

「リート……君に音楽を教えられたことを、僕は誇りに思うよ。僕と出会ってくれてありがとう」

「はい、マコトさん。どうかこれからも、ずっと一緒にいてください」

「うん、僕の方こそ。ずっと一緒にいようね」

 リートを抱きしめて、僕は眠った。

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