ハーヴェスト・ムーン
並木坂奈菜海
夢の国と天空の月
「『ハーヴェスト・ムーン』?」
「そう。舞浜の地ビール。パークのレストランで出していたり、ホテルの売店にもあるんだけどね、お店で飲むのが1番美味しいんだってさ。しかもビールはそのお店でしか作ってない。どう、行かない?」
「うーん……」
現在時刻は午後6時。
ちょうど
私がパークで食べようと言ったら、彼は「中もいいけど、イクスピアリにいいお酒を置いているお店がある」と言い、そのビールの名前がそうなのだという。
「どうしようかな……」
別段私はお酒に弱い体質というわけでもないし、夜のパレードはどっちにしろ今回は見ない、ということに決めていたから、特にノーと言う理由はない。
でも、なんとなく迷っていた。
もしかしたら、彼を少しだけじらしたい、と思っていたのかもしれない。
「じゃあ、そこまで言うなら……行こう、かな」
「オッケー」
パークを出て、舞浜駅にもつながる、スロープになっている道を通る。
イクスピアリに入り、エレベーターで4階へ上がる。
4階とは言っても、実際は建物の屋上にあたる。
本物の星空の屋根を見上げながら、彼に左手を引かれてついていく。
一角にあるレストランのところで、彼は足を止めた。
「さあ、ついたよ」
「ここが、そうなの……?」
入り口には、『ロティズ・ハウス』と名前が書いてある。
その傍らには、おそらく工房で使っているのと、同じタンクのようなものが、オブジェとしておかれていた。
「そうだよ。ここが地ビールの工房で、レストランにもなっているところだよ」
「そうなんだ」
もとより、彼も私も揃って子供のころから舞浜に通いつめ、周囲からは「マニア」ともいわれるほどここが大好きだったけれど、私はそのことを初めて知った。
カウンターで人数を告げ、お店の奥のテーブルに案内される。
席に着きメニューを開くと、やっぱりというか何というか、『ハーヴェスト・ムーン』が最後のページに詳しく書かれていた。
定番の5つの種類のビールに加えて、季節限定ビールというのもあった。
「なんかすごいね、このお店」
「うん。しかもここで出される『ハーヴェスト・ムーン』はみんな、工房のタンクから直接注いでるんだよ」
「へぇー」
それも私は初耳だった。
注文を済ませ、しばらくして料理とグラスが運ばれてきた。
私ははじめてだったので、メニューに「女性向け」と書いてあった『ベルジャンスタイルウィート』を、彼は『シュバルツ』という種類をそれぞれ注文していた。
「それじゃあ、乾杯」
「カンパイ」
かちん、とグラスを鳴らす。
すると、自分の中の時間がどんどん巻き戻っていくのを感じた。
不思議な味だった。
大好きなショーやパレードを見ている自分。
ジェットコースターに乗ってはしゃいでいる自分。
キャラクターたちと一緒に写真を撮っている自分。
脳裏に蘇り浮かんでくるのは、全部私の幼いころの思い出だった。
時間が今度は早送りされ、今になった。
すると、なぜか頬が熱く感じる。
指のはらで触ると、1粒の透明なしずくがついていた。
そっか。あの『ハーヴェスト・ムーン』の不思議な味は、そういうことだったんだ。
そっとハンカチで涙をぬぐいながら、そう思った。
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
ビールを一口飲んだだけでいきなり泣き始める私に向かって、お店の中の視線が集まってきているのを感じた。
「ご、ごめんね。せっかくのデートのディナーなのに」
ああ、せっかくキレイにしたのに、これでは化粧が台無しになってしまう。
「ちょっと、待ってて」
バッグからポーチを取り出し、化粧室へ駆け込んだ。
数分後、落ち着いてから化粧を直し、彼の待つテーブルに戻る。
「さっきは、ごめんね」
「ああ、それなら別に」
落ち着かないので、またもう一口、『ハーヴェスト・ムーン』を味わう。
「うん、美味しい。来てよかった」
「そっか。それはよかった」
穏やかにほほ笑む。
グラスも空になり、テーブルのお皿も片付けられる。
ドラマか小説なら、ここで彼氏からエンゲージリングと一緒に、プロポーズがやってくるのがセオリーだ。
でも残念ながら、私の薬指は彼がくれたそれで、もう埋まってしまっている。
もちろん、彼の指も。
「それじゃあ、行こうか」
「うん」
建物の外に出ると、秋の夜空に、満月が輝いているのが見えた。
私たちの頭のすぐ上を通るモノレールの中からは、もっときれいに見えるかもしれない。
その帰り道、彼がささやくように言った。
「ねぇ、『ハーヴェスト・ムーン』って、どういう意味か知ってる?」
「ううん、知らない。教えて」
すると彼は、月を指差した。
「日本っぽく言うと、『中秋の名月』。海外だと『収穫の月』って言うんだけどね。天空に輝く満月のように、そして収穫を祝う人々の楽しい気持ちを、このビールで感じてほしい。そんな願いが、『ハーヴェスト・ムーン』なんだよ」
「そうなんだ」
2人で来た道を戻るように歩く。
「ねぇ、あのさ。おんぶしてよ」
「はぁ!? 何言ってるんだよいい年して! もうそんなに酔ってるのか」
「グラス1杯だけだよ。そこまで酔ってませんー」
少し拗ねてみせてから、彼の腕をとる。
「ねぇ、あのさ。今日のことは、思い出にしようよ。2人だけの特別な思い出。子供ができても、孫ができても、私たちだけの秘密にしよう」
「……うん、そうだね。僕らだけの、秘密」
嬉しそうにそう言う彼の表情は、暗くてよく見えなかった。
それから、泊まったホテルの売店で、1本だけ『ハーヴェスト・ムーン』を買った。
そのボトルは、結婚して何年も経った今も、私たちの家のどこかに、大切にしまわれている。
ハーヴェスト・ムーン 並木坂奈菜海 @0013
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