春を呼ぶ人

@kuroko

春を呼ぶ人

 春を呼ぶ人


その人の瞳は、木々が落とす濃い影のような黒で、時おりひどい不安を感じたように揺れるのが印象的だった。

その揺らめきをじっと見つめていると、またたきの合間の一瞬に、鮮やかだが優しい、春の緑が映る。まるで、そこには隠されたもう一つの世界があるかのようだった。

 

実際には、僕らが出会ったのは雪の日だった。

というより、僕の一族が長い歳月にわたって隠れ住んでいた大地の果てでは、いつでも季節は冬であって、雪と氷に閉ざされていない日などほとんどなかった。その上、僕らは許可なく地下の家から出ることを許されなかったから、その頃、僕はもう十五歳になっていたにも関わらず、生まれてからまだ一度も青空を見たことがなかった。

中でも、その年は少し様子がおかしかった。吹雪が周囲を閉ざし、家の外へ出られなくなる季節になった頃から、地下の薄暗がりの中で、奇妙な「病」がはやり出したのだ。その病は、何故か僕の家の女たちばかりを襲った。初めに犠牲になったのは、もうじき外へ嫁いでいくはずだった一番上の姉だった。次は、姉の死に打ちのめされていた哀れな母。それから年下の姉たち。

この「病」にかかったものは、口もきけないほど恐れおののき、やがて一様に自ら死を選んで行った。


彼がやって来たのは、ちょうど三番目の――最後の姉が命を絶った翌日のことだった。

泣いていたのは僕一人だった。他の人々は、ただ諦めの溜め息を一つついて、その遺骸を地下の最下層にあるつめたい墓地へと見送った。

ちょうどその葬儀のために岩屋のあちこちに別れて暮らす一族が集まっていたところへ、秘密の出入り口で、予期せぬ客人の到着をつげる鐘が叩かれた。

開かれた扉から入って来たのは山のような大きな影だった。

よくよく見れば、それはテントのように嵩張った旅装束で、体温に溶けて沁みこみ、再び凍てついた雪でずっしり重くなっているのが見ただけで分かった。顔のところにわずかな切れ目があって、そこから二つの目が覗いていた。その目の周りの皮膚は、しもやけで赤黒くなるほど爛れていた。

彼が重たい木の扉をくぐって獣の毛を織った絨毯の敷かれた玄関に入って来ると、その肩や頭に積もった雪がぼとり、ぼとり、と塊のまま落ちて、そのまま室内に籠った熱にゆっくりと溶けて行った。

溶けた雪の中から一枚の枯葉が姿を現した時、僕は思わず目を疑った。

どこかぎこちなく出迎えの口上を述べる大人たちの足もとに屈みこむと、慎重に、かつ誰にも見つからないように素早くそれを拾い上げ、親指と人差し指でそっとつまんで目の前にかざした。

それは、ほとんど朽ちてレース細工のようになった一枚の枯葉に過ぎなかったのだが、漂白されたように色素を落とし鮮やかな鶸色のもろい繊維で出来た骨格を露わにしていて、その今にも砕けて粉々になってしまいそうな様子が、言葉にしようもなくうつくしかった。

僕らの暮らしていた岩屋の周辺には、緑の葉を生やす木は文字通り一本もなかったから、僕にとってはじめて手に取るそれは黄金よりも貴重なものに思われたものだ。

僕は、この正体の知れない客人に興味を持った。木の葉を閉じ込めた雪を纏ったまま、どうやってこんな地の果てまで旅をして来たのだろう、と不思議でならなかった。それも、こんなうす暗く、さみしい洞窟などへ。

激しい吹雪の中をただひたすら、何か月も止まることなく歩き続ける旅人の姿を頭に思い浮かべた。一面の、どこまでも続く不毛な白銀の世界を、かたつむりのように後ろに向かって尾を引きながらゆっくりと進んで行く人の姿。一人の道連れもなく、身を守るものといえば、ただ旅装束のもろい殻一枚だけ。

それはどんなにか過酷な旅路だろう。

だから、分厚い皮の手袋の中から老人のような細い手のひらが現れた時には、僕はひどく驚いた。てっきり毛むくじゃらの大男が出て来るものとばかり思っていたのだ。

その手はやせ細り、またしもやけのせいなのか皮膚が硬く強張っているようではあったが、垢で汚れている様子はちっともなかった。次々ボロボロになった装束を脱いでいく人を、天井の低い玄関に立ち並んだ父と彼を取り巻く親族たちの誰もが戦々恐々とした目で見つめていた。だが、中から現れた人は、髪がもじゃもじゃに絡まり、ひどく疲れ切った様子でこそあったものの、脱ぎ捨てた衣装からも、その人自身からも、ただ森の腐葉土のような湿ったにおいがしたばかりだった。

広い岩のホールの中央で、何十もの刺すような目に見つめられながら旅装束をといた人は、拠り所がなさそうにあたりを見回した。だが、胡乱げに見つめる大人たちの中に枯葉を胸の辺りで持った僕を見つけると、目に見えて顔色を明るくし、少し膝を折ってまっすぐ視線を合わせると、やあ、と微笑み、こう言った。

「君が、次の子だ」

 ふと、驚いたように首を傾げる。

「泣いていたね」

それから、おもむろにその人は僕の額にキスをし、手を差し出した。少し困惑しながら、僕は、枯葉を持っていないほうの手でその手を取った。小枝のような、細くて長く、硬い手のひらだった。小さなざわめきが起こり、父が驚いたように青黒い顔をひきつらせた。それを機に祖母が、さあ中へ、と促した。

そのとき、僕はようやく自分の間違いに気づいたのだが、彼の顔や手を覆っていたのは重度のしもやけではなく、ごつごつした樹皮であり、もじゃもじゃに絡まった薄い髪に絡まるものは、ゴミではなくて、一枚一枚があのレース細工のような枯葉なのだった。それらは、髪のように見える小枝から生えていたのだ。

――百年に一度、この冬の国に訪れる客人(まれびと)。

幼い頃から聞かされてはいても、ずっとただのおとぎ話だとばかり思っていた物語が耳の奥に甦り、そして僕ははじめてその人が誰なのかを理解した。


彼は、そのまま用意されたもてなしに手を付けることもなく、数日の間眠りつづけた。起きて来ると一族の墓地へと一人で下りて行き、先先代――ちょうど百年前に彼自身が当主に選んだというかつての少年の墓の前で泣きながらまた数日を過ごした。

彼は父を含めて一族の誰の言うことも聞かなかったが、ただ一族の最年長で、先先代の当主の姉でもあるダムラ刀自(とじ)とだけは、何度かしたしげに話をした。

「お懐かしい」

百歳をゆうに超える女は、ダンゴ虫のように背を丸めた格好のまま笑った。

「百年の辛苦の末に、わたくしも、こんなお見苦しい身と成り果てました」

うん、と彼は頷いた。

「よく頑張ったね」

「次を託すものはおりましたでしょうか」

「ああ」

彼は、心なしか躊躇いを含んだ声で答え、後ろに控えていた僕を振り向いた。

「彼なら、きっと大丈夫だろうと思うよ」

その目を見返すことが出来ずに、僕は彼から目を逸らしてじっと俯いた。


やって来て七日目から、彼は特別な部屋に閉じこもり、いよいよ春を呼ぶための準備にかかった。普段は開かずの部屋になっているそこの鍵を父から預かり、彼を案内したのは僕だった。

僕自身はじめて入る部屋の中には、地下深くから水をくみ上げるための大きな装置があり、教えられていた通りに動かすと百年ぶりに軋んだ音を立てて歯車が回り始め、やがて静かになったと思うと、とうとうと清らかな水を吐き出した。くみ上げられた水は大きな水盤のなかに注ぎこみ、絶え間なく循環してはどこかへ流れ去って行く。

水盤の頭上は吹き抜けの通気口になっていて、何十メートルも先に、小さく曇った空が覗き、弱弱しい白い光を落としていた。

彼は、その水盤の中に身体を沈め、ゆっくり、大きく息を吐いた。すっかり首までつかると、水面に彼の枝葉が広がって、ぷかりと浮いた。直に、一見髪のように見える彼の枝葉が水を吸い上げてうるおいを取り戻していくのが目に見えて分かった。柳のように柔軟性のある小枝の一本一本が、ゆらゆらと、まるで日向で鎌首を伸ばす蛇のように機嫌よく揺れる。

だが、不思議なことに、枝葉が青々と精気を取り戻すにつれて、彼の顔色はどんどん青ざめていくのだった。はじめは、あえて声を掛けることもしなかった。そういうものなのだ、ということは、刀自から話に聞いて知っていた。まれびとは、自分の命と引き換えに春を呼ぶのだ、と。知っていながら僕はどうすべきかを決めかねていた。下手に彼に警告し、ここから出て行くよう促せば、怪しんだ父に計画を勘付かれてしまいかねない。だが、やがて細い指が、明らかに苦痛を堪えるために水盤の縁石を掴むのを見て、我慢できなくなった。

「そこから上がってください」

僕は、衝動的にそう叫んでから、近くに寄って行って彼の手を掴んだ。え、と明確な疑問符とともに、彼は閉じていた目を開けて僕を見上げ、それから掴まれた手首を見て、いぶかしげな顔をする。

「一体どうしたんだい」

「いいから、早く」

僕の方から彼に話しかけたのは、たぶんその時がはじめてだった。

それまで、彼は父やたくさんいる叔父たちや、その他ダムラ刀自以外の誰に話しかけられても、いつも何か熟考に沈んでいるか、それとも泣いているばかりで、返事をしないことのほうが多く、いつも心ここにあらずといった調子だった。話しかけたところで、僕の声などきっと届くまいという気がした。そんな時、彼は人間というよりも年降りた樹木のほうに近いように見えた。

その時の彼は、その驚きに見張られた表情といい、水に濡れて柔らかくなった肌といい、人間そのものだった。

僕は、自分の言葉がしっかりと彼に届いたことに、半ば驚きながら、良いから出て、と彼が従うまでしつこく言い張った。

やがて躊躇いながら水からあがった彼の身体を、僕は乾いた布で拭いた。彼の身体は、木の皮そっくりの苔むした硬い表皮と、人の肌と同じやわらかな部分とが混ざり合っていて、触れると不思議な感触がした。やわらかい方の皮膚は、思った通り寒さで小刻みに震えていたが、一方で潤いかけた樹皮のほうはまだ水が足りない、と不満げに、水滴の一粒まで吸収しようと波打っているかのようだった。

確かに、彼のことを「神」だとかそんな名前で呼ぶ人々もいたが、相反する二つの性(さが)を併せ持つその存在を目の当たりにすると、彼の存在はそんな言葉一つで片付けてしまうにはあまりに生々しく、痛ましく、そして愛おしい大切なものに思われた。

手早く作業を終えると、顔を伏せてされるがままになっている彼の肩をあらためて柔らかい布で包み、僕は声を潜めた。

「貴方がここに春を呼んで――また百年の契約を結んでしまわれる前に、お話しなくてはいけないことがあります」

 顔を上げた彼は、何も答えず、ただとても不安そうに、じっと僕を見つめていた。


昔は、この岩屋にも良い時代があったのだそうだ。僕にはその頃の記憶はほとんどない。ただ、幼いころのぼんやりした記憶の中には、幸せそうに微笑む父と母の姿が、かすかだが残っている。

父がおかしくなっていったのは、いつ頃のことだったのか。

外の世界では、時代が少しずつ変わろうとしていた。

ちょうど同じ頃に、母が「岩の病」と呼ばれるこの辺りの風土病にかかり、徐々に変わって行った。彼女の心は冷たく、堅くなり、同時に顔も姿も変わって行った。

はじめに笑わなくなったのは一番上の姉だった。それから、二番目、三番目。あの男の狂気はとどまるところを知らなかった。不幸な姉たちの身に、何が起きていたのかを僕は知らない。死ぬまで、知らなかったと言い続けるだろう。

僕は何も知らないし、知りたくもない。

だが、たった一つ、僕にも分かっていることがある、それは、もう後戻りはできないということだ。たとえ僕のこの決意が、どんな結末を導こうとも、このままあの男の罪を見過ごすことは到底できない。

「恐ろしい病だ」

それですべては終わりだ、と言いたげに、あの男は吐き捨てたのだった。気丈だった一番上の姉の葬儀でのことだ。

彼女は、父の寝室のベッドの上で死んだ。

「親に対して恐ろしい妄言を訴え出たことを、後になって恥じたのだろう。だが今は、すべてを許そう。地底の暗がりにうごめく狂気が、私の哀れな娘を餌食にしたのだ」

その次の日、母が死んだ。あまりのことにその小石のような小さな膝に縋って泣きじゃくった僕に、大丈夫、大丈夫、とダムラ刀自は小さな、倦み疲れた声で言った。

「ちょうど百年前にも、この岩屋を忌まわしい罪の陰が覆ったことがあった。罪ときよめを繰り返し――何度も繰り返されてきたことなのだ。大丈夫、お前は、何も心配することはない。誰も信じなくても私は知ってる。もうじき、あの方がここへやって来て我々の罪は清算され、すべてがまた良くなる」

そう言いながらも、魂そのものを吐き出すような重たい溜息をついた刀自は、まるで自分自身の言葉をまるで信じていないように見えた。

「百年の時間は、人が生きるにはあまりに長すぎる」

その時は、刀自がなにを言っているのか僕には分からなかった。その後、彼がやって来て、僕は伝説が嘘いつわりではなかったことを知った。

だが、だから何だというのだろう。それで父の罪が消えるわけではない。

「この家は、もう終わりにしなくてはいけません」

その時も、僕は、薬香の臭いのする膝に顔を伏せたままそう言ったのだ。老婆の喉が、何かを察して乾いてひきつった音を立てるのを聞いても、許しを請うことはしなかった。その決意は、彼と出会い、僕自身が彼に選ばれた後もすこしも変わっていない。

こんな暗闇の家はなくなってしまうべきなのだ。

だから――百年に一度の春など、来てはいけない。


水盤の縁石に腰かけた彼の足もとに跪き、父の罪のすべてを告発する間、僕の手は怒りと恐怖で小さく震えた。その話を聞く彼の目もまた、嫌悪とおののきに揺らいでいた。

百年ごとの死を繰り返し、数えきれない歳月を生きてきた彼のような人にも、まだ人並みの感情がある、ということは何か胸を打たれる不思議なことに思われた。

僕の告発を聞き終わると、彼は冷たい手で僕の手を握った。なにかを言いたげな様子だったが、実際には何も言わなかった。どう言葉をかけて良いか迷っているようで、その様子はあまりに人間じみていた。

もう一つ、言っておかなくてはいけないことがあります、と僕は切り出した。

「貴方に黙っているのはかえって不実だと思うから、ありのままに僕の考えをお話しておきたいんです。僕は、家を継ぐつもりはないし、もうじきここから出て行くつもりです。そして、貴方のように、広い世界を旅してみたい。僕だけじゃありません。もし父がいなくなったら、もうこの場所に留まり続けようとするものはいないでしょう。こんなことを言ってはなんだけれど――百年の契約なんて、もう古臭いものになったんです。時代は変わりました」

彼は、言葉もなく僕を見つめていた。

いったい何を考えているのか、あるいは何一つ考えてもいないのかも、測りがたい茫洋とした顔つきに見えた。

「この岩屋は、もうじきこの世から消えてなくなります。だから、貴方が命をかけて春を呼んでも、なんにもならないんです。もしお望みなら、ここを立ち去って下さい。きっとそれが貴方のためだと思う」

彼は、僕がすべてを話し終えても、がっくりと俯いたまま一言も発しなかった。僕は戸惑ってそんな彼を見た。

彼の頼りない反応に、少しもがっかりしなかったと言えば嘘になる。罪をきよめてくれる人、と刀自は僕に語ったのだ。だが、彼は、この凍てついた土地に春を呼ぶことはできるのかもしれないが、父を罰し、親殺しの罪から僕を救ってくれる魔法の呪文までは知らないのだった。勿論、初めから当てにしていたわけではないけれど。

思わず、漏れそうになった溜め息を喉の奥で押し殺す。僕は、部屋から出て行くために床から立ち上がった。

「僕が言いたかったことはそれだけです。後のことは、貴方にお任せします」

そのまま扉まで歩きかけたところで、彼に呼び止められたような気がして振り向いた。はじめそれは蚊の鳴くように小さな声だったので、何を言っているのかよく分からなくて困ってしまった。仕方なく側に戻って行って、俯いたままの顔を覗き込み、耳をすませると、樹幹の中を通る水のささやきより微かな音が繰り返し、こんなようなことを訴えているのだった。

「お願いです。私を、ここから追い出さないで。私にはここ以外に死ねる場所がない」

彼は、溢れるように涙を流していた。

だが、手を伸ばして触れると、それは先ほど彼が吸い上げた、冷たいままの水に過ぎないのだった。


あれは、単なる呪われた人間だ、と父は常々、刀自が敬意をこめて春を呼ぶ人の物語を語り出すたびにそう言っていた。決して神などではない、人としてあるべき生から疎外された哀れな逸脱者に過ぎないのだ、と。

案外、父の言い分は正しかったのかもしれない。

汚らわしい臭いの籠った、うす暗い父の寝室を抜け出して、これを最後と地下の最下層への階段を降りて行く。旅立ちに必要なものは、すべてまとめて外に隠しておいた。行先も決めてあるし、そこまでの地図も手に入れた。準備は万端だ。後は、うるさく騒がれる前にここから出て行くだけ。もうあまり時間はなかった。それでも、最後にもう一度、どうしても彼に会っておきたかった。

水盤のある部屋の扉を開けようとして、ふと自分の手が目に入る。洗ってくるのを忘れてしまったことに、その時初めて気が付いた。扉の前で、思わず大きな舌打ちが漏れる。

まあ仕方がない、と僕は思う。どうせ、これから眠りにつく彼には、今さらなにも隠すことはない。

ここから逃げ出して欲しい、という僕の願いを、彼は結局拒絶したのだった。

あの日から、彼は水盤の中から出ることなく、蜘蛛が巣を作るための銀糸を吐き出す速さで、するすると空中に枝葉を伸ばし、ごつごつとした根を張り、その時には円形の広い部屋の中は彼の身体から生え出たものたちでぎゅうぎゅう、足の踏み場もなくなっていた。

水盤から溢れ、地面を覆い尽くした太い根は、壁を破り、地面の岩を砕いて自ら水と養分を求めて地下へ地下へと行進していた。また、新芽を蓄えはじめた枝々は、僅かな陽光を求めて通気口のほうへと腕をいっぱいに伸ばし、もう少しで外界へと到達せんとしていることも、僕は知っていた。その周辺の地面の雪が溶け、新鮮な土壌が顔を出していることも。

百年に一度の奇跡の春は、もうすぐ近くまでやって来ていた。

扉をあけて入って行った部屋の中は、生きものの熱がこもって汗が出るほど暑かった。

部屋の中はしんとして、水の音以外なにも聞こえないのに、空気の中には思わず胸が高鳴るような精気が満ちている。

彼は、この前見た時と寸分変わらない、水盤のなかに手足を投げ出した格好で、両目を開いたまままるで死体のようにぐったりとしていた。その身体から生え出た巨大な樹木のなかに埋没して、彼は、もはやほとんど人としての性を失っているように見えた。

だが、まだすっかり眠ってしまったわけではない証拠に、僕がやって来た物音に気付くと、乾ききった瞳が僕を探すようにゆっくりと空中を彷徨いはじめた。

このまま、本当なら、彼は短く深い眠りにつき、幻のような春が過ぎ去る頃に、またふたたび目を覚ますことになるはずだった。本当なら、これは単なるかりそめの死に過ぎないはずだった。

少なくとも伝説によれば、生まれ変わった彼を目覚めさせるのは、彼に選ばれた子供だの役目とされていた――つまり、僕の。

だがその時は話が違った。当面の間、彼を目覚めさせる人間はどこにもいない。なにしろ僕は今日ここから出て行って、二度と戻って来るつもりはないからだ。親族たちは彼のことを畏れていて、起こすなんて思いもつかない。まだ彼の意識がしっかりしていた頃、いっそ眠りになどつかず一緒に来ないか、と誘ったこともあったが、彼はいつものように困ったように瞳を揺らがせて、首を横に振った。何故、と問い質しても、私はもうあまりにも疲れてしまったから、と答えるばかりだった。

彼は、ゆっくりと顔を上げ、水盤の前に立つ僕を見つけると、それから数秒を掛けて徐々に驚いた表情を作った。

「おいで、ここに。おいで」

彼は、強張ってほとんど動かなくなった腕をどうにか差し上げて、僕を呼んだ。

「かわいそうな子」

彼は泣き出さんばかりだった。

「何もできない。私には、なんの力もない。どうか、私を許して」

「僕は、大丈夫です。もう何もかも終わりました。ようやく」

僕は、大きな息を吐いた。すると、自分でも思いがけないことに急に膝が震え始めて、地面に崩れ落ちそうになった。ぐっとそれを堪えると、まず汚れた手を水で洗ってから、なるべく根を踏まないように水盤の上を渡って――それはほとんど不可能だったが――、彼の元に辿りついた。

じっと差し出されたままの腕を取って抱きしめると、彼の目元から頬、そして首元にかけての、まだ幾分なりと柔らかさの残った部分に頬を擦りつけ、キスをした。

それからしばらくの間、ぴったりと身体をひっつけて目を閉じていた。彼の腕がぎこちなく背中に回り、身体を濡らす水を伝って彼の頭の中の情景が流れ込んでくるような気がした。どこだかは分からないが、それは僕が生まれて一度も見たことのない緑の草原で、光に満ちて暖かい、とてもうつくしい場所だった。長い長い時間、そうして目を閉じていたような気がするが、実際にはそれはほんの数秒間のことだったかもしれない。

僕は顔を上げると、彼の目をまっすぐに見つめて、宣言した。

「僕は行きます」

そう、と彼は穏やかに頷いた。

「二度と、ここには戻って来ません。あの男の身体は、部屋の隅の井戸から地下水の流れのなかへ落として来ました。どうしても、姉たちや貴方と一緒にここへ残していくのは嫌だったから。きっと、黒い川の流れを伝い、この世の果ての崖を落ちて、地獄にまで流れて行くことでしょう」

そう、とだけ、また頷く。

「父が死に、僕が消えて、家の者が絶えたと分かったら、ここには誰も残らないでしょう。貴方は一人ぼっちになりますが、眠りを邪魔するものもいなくなります」

黒い瞳が、不安に揺れる。彼もまた、本当はずっと迷っていたのかもしれない、と僕は思う。ずっと一人ぼっちで旅を続けてきた彼だって、本当は、誰かと一緒にいたかったのではないだろうか。

「しばらくは、静かに眠って」

でも、残念なことに、その誰かは僕ではなかった。

耳元に囁くと、彼は言われるままに目を閉じた。

「いつか、また貴方の眠りを覚ます人がいることを願っています」

レース細工のような枯葉の合間に、芽吹き始めた若葉を飾った彼の髪を撫で、眠りはじめた彼を置いて僕は立ち去った。


そうして彼が眠りに着くと同時に、春が来た。

たっぷり栄養を蓄えていた枝葉は一斉に芽を吹き出すと、それまでとは比較にならない力で扉を破り、通路を這い進み、天井を破壊しながら外界を目指した。一体何ごとか、とみんなが逃げ惑う中を、僕はこっそりと岩屋を抜け出した。

その先のことを僕は知らない。僕は全てを捨てて外の世界に飛び出した。それからというもの、僕は、ずっと風のように世界中を旅し続けている。

今でも時々、彼の夢を見る。

丈高い、柔らかな緑色の草が銀色の腹を見せてそよぐ草原。むせ返るような熱気と草いきれ。僕と彼は、たった一本佇む大きな木の天蓋の底に横たわって、まるでその時が来るのをただ待ち続ける蛹のように、時間が穏やかに流れ過ぎていくのを感じている。

長い間頻繁に見続けたその夢のせいだろうか、実際に僕と彼が過ごした時間はごくわずかなものに過ぎないのだが、まるで数え切れないほどの時間を共に過ごしたような錯覚を覚えた。

だが、ある年、その夢が消えた。

北の果てに、そこだけ毎年緑の絶えない不思議な丘がある、という噂は、さすらいの旅人たちの間では長い間有名だった。彼の夢を見なくなってしばらくたった頃、北からやって来た旅人が、とても悲しそうに、今年はもはやその緑を見ることはできなかったのだ、と語った。

「そうか、春は来なかったのか」

僕は、何が起こったのかを悟って、思わず笑みがこぼれるのを堪え切れなかった。酒を取り上げ、一人で乾杯して飲み干した僕を、周りの連中がおかしなものを見る目で見た。

「良かったなあ」

もしかしてお前なにか知っているのか、と噂好きの旅人が僕にせっついたが、僕が涙を流し始めたのを見ると、ふと胸を突かれたように黙り込んだ。

僕は、そいつの肩を抱いて、思い切り泣き、思い切り笑った。

自分が少年だった頃の切ない思いと共に、どうか幸せであるように、と思う。

たとえ、それがあの人にとっては、瞬きするより短い一瞬であったとしても。

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