第3話 転

 わたしはオールをしたことがありません。 

 理由は、ビリヤードが下手くそだからです。もう少し言うと、わたしと一緒に撞いて楽しい人がいないからです。オールをするような熱意のある人はみんな上手なので、わたしと撞いてもまともなゲームになりません。

 結果、初めてのオールに挑んだわたしは、延々と一人でセンターショットをする羽目になりました。センターショットとは、ビリヤード台の真ん中――センタースポットに的玉を置いて、少し離れた場所から手玉を撞いて的玉に当てて、コーナーポケットと呼ばれる隅の穴に入れる練習のことです。ビリヤードの最も基礎的な練習方法で、上手い人は九割ぐらい普通に成功させます。わたしの成功率は三割程度です。

 的玉と手玉をセットします。手玉を撞きます。手玉が的玉に当たります。的玉が動きます。的玉がコーナーポケットに入る――ことはなく台の上を駆けまわります。わたしは、深い溜息をつきました。

「頑張ってるー?」

 小笠原先輩。わたしは振り返り、暗い顔で答えます。

「全然ダメです」

「そうなの? ちょっと構えて振ってみて」

 言われた通り、左手でキュー先を固定して、右手で柄を握って素振りをします。小笠原先輩はふむふむと頷くと、わたしの右肩と右肘に手を当てました。

「ここが動いてる。次は意識して、肘から先だけで振ってみて」

 小笠原先輩が的玉と手玉をセットしました。そしてわたしは言われた通り、肘から先だけを動かすことを意識してキューを撞き出します。手玉が的玉にぶつかってカツンと硬質な音を立てて、的玉は綺麗にコーナーポケットに吸い込まれていきました。

「そうそう。そんな感じ。身体がブレたらダメだからね」

 ブレたらダメ。痛いところを突かれました。

「やっぱり、ふにゃふにゃしてたらダメですか」

「そうだねー。どっしり構えて撞けば、片手でも入るから」

 小笠原先輩が球をセットして、左手の支え無し、右手だけでキューを構えます。置き物みたいに動かない身体の中、右肘から先だけが振り子みたいに動きます。やがてスコンと軽快な音を立てて、的玉がポケットに吸い込まれます。すごい。

「そういえばさー、話ってなに?」

 近くの椅子に座りながら、小笠原先輩が問い尋ねてきました。わたしの頭に用意していた質問が浮かびます。

 ――作戦、どんなやつがいいですか?

 わたしは小笠原先輩のとなりに座り、質問を投げました。

「小笠原先輩と吉永さんって、どういう関係なんですか?」

 あれ、違う。なに聞いてるんだろ、わたし。

「バイトの同僚」

「それは分かりますけど、あんな話が出るなら、特別な何かがあるのかなって」

「別にないよー。俺が入った時の教育係だったぐらい」

 そうなんだ。良かった。――良かった?

「あのサークルはさー、話聞いたら潰したいって思うでしょ」

「それは、そうかもしれませんけど……」

「それにほら、俺、ちょっとぐらいはイイことしないと天国に行けそうにないし」

 小笠原先輩のネガティブな発言。とても珍しいです。わたしは目を丸くしました。

「どうしてですか?」

「んー、ぶらぶら生きて来たからねー。オヤジも、そんな適当な生き方をしてるからこんなことになるんだーって怒鳴ってたし」

「そんな……酷いです」

「でも泣きながらだよ。泣きながら『馬鹿が! 馬鹿が!』ってずっと言ってた。それ見た時、やっちゃったなーって思ったんだよね」

 小笠原先輩は眠そうな目でぼんやり中空を見上げていました。カコン。どこかの台で玉がポケットに入る音が、やけに大きく響きました。

「俺の癌さー、遺伝性みたいなんだ。母ちゃんも俺が小さい時、癌で死んでるの。おかげで弟がめっちゃビビっててさー。あ、弟は高校生なんだけど、俺と違って真面目なのね。応援部入っててさー。凄くない? 応援部だよ? 俺、高校の時、応援部に入るやつってどんだけ心がピュアなんだろうと思ってたんだけど、まさかの弟だからね。まあ、あいつ確かにスーパーピュアなんだけど。この前もー」

 小笠原先輩はぺらぺらと弟さんのことを話し続けます。やがて話は、お父さんのこと、お母さんのこと、小笠原先輩自身のこと、あっちこっちフラフラして、どこにも到着しないまま終わります。そして分かったことは、小笠原先輩の家族は小笠原先輩のことが好きで、小笠原先輩もそんな家族のことが好きだということでした。

 わたしは、相槌をうつだけでほとんど何も言えませんでした。きっと何を言ってもいいのに、何を言えばいいか分かりませんでした。ようやく口に出来たのは「素敵なご家族ですね」というありきたりな台詞。小笠原先輩はへらへら笑いながら「そうだねー」と答えて、そしてまた、眠そうな目でぼんやり中空を見上げます。

 カツン。カコン。球がポケットに飛び込む音が響く中、小笠原先輩が呟きました。

「死にたくないなあ」

 驚きました。

 当たり前のことなのに、驚きました。そしてわたしは、自分が驚いていることにも驚きました。小笠原先輩は「人間、いつかは死ぬんだしさー」とへらへら笑いながら死んでくれる。そんなことを期待していた自分に気がつきました。

 何を考えていたのでしょう。

 余命半年の人を、迫りくる死に怯える人を前にして、わたしは、わたしのことを考えていました。わたしを認めて欲しい。そんなことを考えていました。なんて自分勝手なのでしょう。これだからわたしはふにゃふにゃなのです。

 小笠原先輩は笑いながら死んでくれる。

 違います。

 わたしが、笑わせなくてはいけないのです。

「――ごめんなさい」

 気がついたら、謝っていました。小笠原先輩はいつも眠たそうな目を珍しく大きく見開いて、きょとんした顔をしていました。

「どしたの?」

 上手く説明できませんでした。だから、一番頭に強く浮かんでいることを口にします。

「サークル潰し、頑張りましょうね」

 話がびっくりするぐらいに繋がっていません。だけど小笠原先輩は、そんなのどーでもいいとばかりにゆるく笑いました。

「そーだね」

 それから、わたしは一晩中センターショットを続けました。成功率は二割ぐらい上がりました。ふにゃふにゃの身体に、少しは中身が出来たのだと思います。


      ◆


 オールが終わって、一旦帰ってから、船井先輩の部屋に出向きました。

 わたしが着いた時には他のみんなは全員揃っていました。部屋に入るなり、小笠原先輩に「発表、一番だから」と言われました。独断で決めたそうです。ひどい。

 みんなでテーブルを囲みます。視線が自分に集中しているのが分かって、緊張します。わたしは声が裏返らないよう、ゆっくりと喋り出しました。

「わたしは――」

 わたしが考えた作戦は――

「警察に通報するのが、一番だと思います」

 わたしは、初心を変えないことにしました。

 他が思いつかないということは、これが今のわたしなのです。わたしはこんなわたしがあんまり好きじゃないけど、それはそれ、これはこれ。認めなくてはいけません。

「普通で捻りがなくてつまらないと思います。でもこれが一番わたしらしいんです。だからわたしはこの答えで行きます。すいません」

 わたしは頭を下げました。小笠原がゆるゆると笑います。

「うん。いいと思うよ」 

 褒めてくれた。ひとまず安心しました。そしてふと、暗い顔をしている船井先輩に気づきました。船井先輩はすぐ、その表情の理由を語ってくれました。

「……俺も同じ」

 ――そうでした。船井先輩は常識人なのでした。

「ごめんね、普通でひねりがなくてつまらなくて……」

 落ち込む船井先輩。フォローする人は誰もいません。わたしはおろおろしながら長野先輩に視線を送りました。長野先輩はやれやれとばかりに口火を切ります。

「じゃあ、次はあたしね」

 自分の胸の上に開いた手を乗せながら、長野先輩が話します。

「あたしは、会場に被害者の告白を流す作戦を提案します。このサークルにいるとどんな目に会うか女の子に教えてあげるの。それで悪い噂が広まってくれれば万々歳だし」

 なるほど。わたしは頷きました。だけど立ち直った船井先輩が、渋い顔をします。

「被害者の告白なんか集められるのか?」

「でっちあげでいいじゃない。わたし、ボカロ使えるから、それで作るよ」

「名誉棄損になるだろ」

「なるけど、近いことやってるんだから、向こうも公にしたくないでしょ」

 船井先輩がグッと顎を引きました。長野先輩は続けます。

「まあ本当は、単純にパーティーめちゃくちゃにしたいだけなんだけどね。最初に思いついたのは、昔作ったふざけた曲を会場で流すってアイディアだったし」

「昔作ったふざけた曲?」

「そう。『雌豚音頭』って言うんだけど、聞く?」

 念のため、もう一回だけ言っておきますけど、長野先輩はとても可愛らしい女性です。チョコレートのたっぷりかかったクレープをよく食べます。

「安木は、なに考えたの?」

 長野先輩が安木先輩に話を振りました。安木先輩は短く簡潔に答えます。

「花火」

 AのためのBのためのC。みんなが、続きを待って口を閉じます。

「警察に言っても動いてくれるかどうか分からないから、警察が向こうから踏み込んでくれるような状況にすればいいと思う。だからパーティー会場を荒らしたい。そのためには花火かなって。爆弾でもいいけど」

 爆弾。過激すぎるから却下したアイディアを平然と口にする安木先輩に、わたしは息を呑みました。小笠原はゆるゆる首を振ります。

「爆弾はやめよ。怪我人出るのは良くない」

 予想通りの答え。安木先輩はあっさり「分かった」と引き下がります。わたしがダメだと思ったことをダメだと判断してくれて、なんとなく安心しました。

「で、小笠原はどうなの? どーせあんたのことだから、自分の考えを曲げる気はないんでしょ?」

「うん。まーねー」

 小笠原先輩が、わたしたちの一週間は徒労だったとあっさり認めました。でもいいんです。無駄にはなっていません。少なくともわたしは、そう思います。

 さて、いよいよ小笠原先輩のアイディアです。話の流れ的に、わたしたちはこれを実行することになります。みんなが固唾を呑んで見守る中、小笠原先輩がおもむろに口を開きました。

「俺のアイディアは――」

 小笠原先輩が得意げに自分の考えた案を語ります。とりあえずわたしは、呆然としました。なにそれ。わたしのそんな気持ちを、船井先輩が代弁します。

「はあああああああああ!?」

 船井先輩は声が大きいです。「うるせーぞ!」と隣の部屋の壁が叩かれました。よくここまで我慢してくれたと思います。隣の方、ありがとうございます。

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