第8章 いかさま天秤
いかさま天秤―①
僕が最初に目覚めたのは救急車の中だった。
白衣にヘルメット姿の救急隊員が、のしかかるように僕の顔をのぞき込んでいた。背中からは、タイヤがアスファルトを噛む感触が伝わってくる。
(そうだ……事故にあった……)
「あの……」
声を出そうとすると、突然激痛に襲われた。
僕は口の中いっぱいに血の味を感じ、それを吐き出そうとして、気を失った。
👆
次は手術台の上らしかった。
まぶしい光がのしかかるように、僕の頭上にあった。
手術着とゴム手袋をつけた医者が僕をのぞき込んでいた。
首から下の感覚が、切り離されたようになくなっていた。
それなのにお腹の中に血があふれているのが分かった。
これは……おとなしく気を失っていたほうがよさそうだな。
👆
今度は真っ白の天井と、そこに張り付いた二本の蛍光灯が見えた。
とても静かだった。ピッピッ、と頭の横のあたりで小さく電子音が聞こえていたが、首は動かせなかった。
「気がついた?」
あやめさんの声だった。視界の下の方からあやめさんの顔が現れた。
僕はなんだかうれしかった。
そのせいかどうか、また気を失った。
👆
ようやく意識がはっきりしたのは、事故から三日後のことだった。
目覚めたとき、やっぱりあやめさんがそばにいた。
体の痺れはとれていたけれど、手とか足には全く力が入らなかった。
「あの……、僕は……」
そう言いかけたのだが、言葉はノドに引っかかって、ひび割れただけだった。
そこであやめさんが少し水を飲ませてくれた。
「あの、僕、どうなったんですか?」
「事故にあったのよ。でももう大丈夫。手術はうまくいったわ」
今度は気を失わなかった。
👆
それから医者がやってきた。とても感じのいい、若いハンサムな先生だった。
先生は僕の脈と心音をチェックしてから、僕の怪我と手術のことを話してくれた。
「左足は複雑骨折。両手はあわせて六か所の骨折。それから肋骨が三本、そのうちの一本は肺に刺さって危険な状態でした。さらに深刻だったのは肝臓からの出血でしたが、処置の方は無事に済みました」
なんだか他人事のように思えてくるが、まぎれもなく僕の体のことなのだ。
「ありがとうございました」
とにかく生きているだけでも十分なのかもしれない。
👆
「この病院は設備もいいし、優秀なスタッフも揃ってますからね。最初にここへきて、君はすごく運がよかったんですよ」
運がいい……か。
たぶんこれもあやめさんのおかげなのだろう。
「大けがには違いないけど、手術は無事に成功したし、時間はかかるだろうけど、ちゃんとリハビリもすれば、あなたはすっかり元通りになりますよ」
そう言って医者は爽やかに笑った。
(そっか。良かった)
僕は心の中で安堵のため息をつく。
今はそれだけ聞ければ十分だった。
👆
「ところで一茶さん、あなたどうして赤信号を渡ったりしたの?」
検査を終えて医者が出ていくと、あやめさんは真っ先にそう聞いてきた。
「まさかあなた自分から……」
そう言いかけてあやめさんは言葉を詰まらせた。
たぶん僕が自殺しようとしていた、そう思ったのだろう。
そう考える気持ちは分かる。でも僕は違う。
「いえ、ちがいます」
だから僕ははっきりと告げた。僕は自殺なんかしない。僕の手相がはっきりとそれを告げているから。僕はそんな死に方はしないのだ。
👆
実はそのことだけはすでに占ってあった。
先生が昔言っていたように、僕の人生はかなり混乱している。
それこそ命の危険にさらされる状況も予想されている。
それでもその中に自殺というルートはない。
僕が決してそれを望まないからだ。
まぁそう言うことを誰かに話すつもりはないけれど。
👆
でも今回の事故はさすがに予想しなかった。
今回の事は僕の手のひらに刻まれていなかった。
少なくとも僕は読み取れなかった。
ひょっとしたら賢者の手を受け継いだせいかもしれない。
あのアザが僕の手のひらに刻まれたルートを変えていたのかもしれない。
まぁそういうこともある。
だいたい僕の占いの精度はその程度だから。
👆
「あれはただの事故だったんです。あのときは信号が見えなかったんです。あの夜、僕は占いをしていて、手相占いで。でもその途中で、手を合わせてないのに、急にあの感覚があって、答えが勝手に出て。それで、知らないうちに赤の色まで見えなくなっていたんです」
ぜんぜんうまく説明できなかったが、ともかくそういうことだった。
👆
「わかったわ。これからはもっと気をつけなくてはね」
「はい。ご心配かけました」
「それより、僕は相手のドライバーの方が気になってるんです」
と、僕。一番の原因は僕だからだ。
なんといっても信号を無視して車道に出たのが悪い。
相手もきっとケガをしているはずだ。むしろ加害者は僕だ。
「そのことなら心配はいりませんよ。相手の方は軽傷でした。速度超過もあって向こうの過失になっていますけど、こちらとしても十分な補償はしていますよ」
「そうでしたか。安心しました。ほんといろいろありがとうございました」
あやめさんはそこで初めて笑った。
「まったく、ケガしたのはあなたなのに……でもあなたらしいわね」
それから僕とあやめさんはなんとなく窓の向こうを眺めた。夕暮れの時間だろうか?
モノクロの視界では、それもよく分からなかった。
~ つづく ~
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