第7章 生け贄の山羊

生け贄の山羊―①

 ある日、僕は久しぶりにマックから呼び出しを受けた。


 場所は個室のあるチェーン店の居酒屋。

 マックと僕は、刺身と揚げ物をおつまみに、いつものようにビールを飲んでいた。


「ところでさ、まぁ大きなお世話かもしれないけど、こんな調子で拡大路線を続けてて大丈夫なの? 世間は不景気だって騒いでるのに」


 考えてみるとマックとは仕事の話しかしない。それ以外の共通点がまるでないからだ。だがマックにしてみれば僕に話したい内容はそれだけなのだ。理由は簡単、僕は話の内容を誰かに話すことがないからだ。


「逆だよ、一茶。今がチャンスなんだ。株価は軒並み下がってる。だからこそ買い時なんだ。それにこの不景気は市場心理がもたらしているだけで、きっかけさえあればすぐに回復する。まぁ見てなって、俺は今チャンスを待っているんだ。『ここ』っていうチャンス。それがもうすぐ見えそうなんだよ、わかるかなぁ?」


 マックはそう言って、そのチャンスの話を延々と続けた。


   👆


 その日のマックはいつになく饒舌だった。

 たぶん仕事のプレッシャーからその時だけは解放されていたのだと思う。


「まぁお前ならチャンスをつかめるよ」

「そうかな? 俺にできるかな?」


 マックは鼻の先をちょっとかきながら、照れたように僕に聞いてくる。珍しいことにちょっと弱気を見せている。

 僕に兄弟はいなかったけれど、弟ってこんな感じなのかと思う。

 なんかくすぐったいような、変な感覚だ。


「ああ、お前は頑張ってるよ、すごく頑張ってる」

 だから僕はガラにもなくそう言ってマックの肩を叩いた。


「ありがとう、一茶。そう言ってくれるのは、お前だけだよ」


 彼はそう言って残ったビールを流しこみ、お代わりを頼んだ。

 気の利くことに僕の分まで。


   👆


「そんなことないだろ。お前には同僚とか上司とか部下がいっぱいいるじゃん。同じ会社の仲間たちがさ」

「仲間かぁ、そうっスね。そうっスよね! オレはたくさんの人の未来を背負ってますからね、もちろん一茶、お前の分もな」


 ちなみに根が外人のせいなのか、コイツの丁寧語とか謙譲語は無茶苦茶だ。

 接客業をしていた僕からすればそれがすごく気に障る。

 だがまぁそれにも慣れてきた。

 テレビでも目上相手に普通にタメ口で話す人間も増えてきたくらいだ。

 気にしないのが一番なのだろう。


「そっか。嬉しいこと言ってくれるね」

「あ、当たり前だろっ」


 そんな風に照れるマックが妙にかわいく見えるくらいだ。

 そしてマックは照れ隠しなのか、またジョッキをグイッと開けた。


   👆


 そんな具合に夜も更けてゆく。


 そして帰り道で、ちょっとほろ酔いでヨタつきながら、僕は気付く。


 


 このところ、ずっとそうだった。

 だが気にすることもないのだろう。僕は少し酔った頭でそう思っていた。

 すべてが上向き。すべて世はこともなし。


 そう僕の周りではすべてが順調に推移していた。

 それに水を差す理由がない。


   👆


 だが同時に不景気の波は消えなかった。

 ずるずると地滑りのように、後退を続けていた。


 もう僕だけでなく、誰もが新聞でそれを知っていた。


   👆


 そしてマックと飲んだあの日から一週間が過ぎたころ。

 その日もいつものように、僕はあやめさんに新聞を読んでいた。


 記事にあるのは不景気の話ばかり。

 それも不安をあおるような記事ばかりだ。


 大手企業の決算の下方修正、大規模なリコールの対応、お決まりの株価の下落、金相場の下落、そんな記事だ。


   👆


「大丈夫かしらねぇ? マックさんは?」


 あやめさんは会社のことではなく、マック本人の事を気にかけていた。


「彼にとって今が一番厳しい時なんだと思いますよ。マックは今、大きな勝負にでているみたいですから」


「勝負……ね」


 あやめさんは珍しく考え込んでいた。

 それから静かにつぶやいた。


「こんな時こそ光造さんがいてくれたら良かったのにね……」


 あやめさんの言いたいことは分かるが、それはマックが一番聞きたくない言葉だったろう。


「マックならきっと大丈夫ですよ」


 そういう僕たちは、明るい陽射しの降り注ぐ部屋の中、優雅に紅茶を飲んでいた。


   👆


 ぬるま湯の時間が長く続いていた。


 それは僕にとってとても幸福な時間だった。


 だがそういうものは長くは続かないものだ。


 少なくとも僕の場合はそう。


 そして運命はとうとう僕に追いついた。


   👆


 その日の午後のことだった。

 マックがあやめさんの部屋にやってきた。


   👆


 マックは封筒を持っていた。


 それは久しぶりに見る光景だった。


 僕はこの瞬間をおそれていた。

 それでも恐怖はなかった。


 占いをして予知していたわけではない。

 ただこうなると分かっていただけ。


   👆


「あやめ会長、私にはもうこの方法しか思いつきません。どうか力を貸してください」


 マックは憔悴しきった様子だった。たぶん父親と同じように、たった一つの質問になるまで問題を絞り込んできたのだろう。それもたぶん一人だけで。


 封筒を握る彼の手は少し震えていた。


 あやめさんはその封筒に手を伸ばさなかった。

 だからマックはそのままガラステーブルに封筒を置いた。


   👆


 マックは光造さんから一連の話を聞いていなかったのだろうか?


 たぶんある程度は聞いていたのだとは思う。

 だが光造さんもマックも賢者の手のことはほとんど知らないはずだ。


 それでもマックはやってきた。

 まだあやめさんに奇跡が起こせると思っていたのだろう。


 あやめさんは困惑したように僕を見た。

 その目が僕に語りかけていた。


 あなた、どうするの?


 その段階なら、僕が首を少し横に振るだけで、あやめさんはマックの申し出を断っていたと思う。


 でも僕の中で答えはもう出ていた。


   👆


 僕はあやめさんに小さくうなずいた。


 そう。僕はあの占いをするつもりだった。


「分かりました、マックさん。あとで呼びますからそれまで待っていてください」


 あやめさんの言葉に、マックは深く頭を下げて部屋を出ていった。



 ~ つづく ~

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る