第6章 獅子奮迅の勢

獅子奮迅の勢―①

 翌朝、僕はあやめさんの部屋に入ってすぐに告げた。


「僕はやっぱりやめます」


 それが僕の出した答えだった。


   👆


「あやめさんには本当に感謝してます」


 あやめさんに良くしてもらったことはもちろん理解している。だから僕は深々と、感謝を込めて礼をした。

 あやめさんは今日も鮮やかな色のスーツ姿だ。あやめさんは僕に正面から向き合い、黙って僕の言葉を聞いている。


「でも、僕には続けられません」


 そう、今ならまだ引き返せると思った。

 僕は本当の意味でまだなにも手に入れていない。

 だから失うものだってなにもない。


 それに体にどんな影響が出てくるか分からない、というのはやっぱり怖かった。


 あやめさんと同じようになるとしたら、やっぱり怖かった。


   👆


「それがあなたの出した答えなのね?」

「はい。僕はあなたのように生きることができません」


 ちょっとひどい言い方に聞こえるかもしれないが、仕方なかった。あやめさんに変に希望を持たせるようなことをしたくなかったのだ。

 あやめさんは怒るだろうか?


「……そう。残念だけれど、仕方ないわね」


 あやめさんはフッとした吐息とともに何かを吹っ切り、それから笑ってくれた。

 ちっとも怒ってはいなかった。


 たぶん彼女は今後いろんなものを失うことになる。それがどれほどの大きさのものなのか僕には想像もつかない。


 それでも彼女は怒らなかった。 

 それには正直救われた。


   👆


「あの、できるだけ早く部屋を引き払いますので、それまで、少し待っていただきたいのですが」


 僕にとってはそれが目下もっかの最大の悩みだった。

 たぶん前のアパートは解約されているだろうし、新しいところを見つけるには時間もお金もかかるだろうから。


「あらあら。そんなに慌てなくても大丈夫。マンションはわたくしの名義になっていますからね。気にしなくていいのよ。そうよ、ずっと住んでたってかまわないのよ」


 それは嬉しい申し出なんだけれど、

「いえ、そういうわけにはいかないです」

 当たり前のこと。社会人として。


 それに僕はそんなにずうずうしくなれない。


   👆


「そう……残念だわ。せっかくいいお友達になれたと思ったのに。じゃあ、ひょっとして会社も辞めるつもりなの?」


 いや、それはそうでしょう。とは思ったが、あやめさんにはそういう発想がないらしい。どうも世間とずれてるのだ。


「はい。仕事もしないで給料をもらうわけにはいきません」


 これも当たり前。

 あやめさんはこの辺の都合というものをやっぱり理解していないようだけど。


   👆


「うーん。それは困ったわねぇ……」


 金持ちのおばあさまの気まぐれ、僕にはそうとれた。


 それとも僕に受け継がれたあの力をあきらめられないのだろうか?

 あやめさんに関してはそういう意図はなさそうだったが。


「……そうだわ、少しだけ待ってて!」

 あやめさんはピンと人差し指をたててデスクに戻り、受話器を取り上げた。


「光造さん? 少しお話したいことがあるの。部屋に上がってきていただける?」


   👆


 ちなみに光造さんというのは、クロサキカンパニーの社長だ。

 そしてマックの父親でもある。


 これまでも名前だけは聞いていたけれど、実際に会ったことはない。


 いったいどんな人なのだろう?


 それにしてもこんな展開になるとはまたもや予想外だった。


   👆


 エレベーターから現れた光造さんは、マックを一回り大きくしたような男だった。


 体格はどっしりとしていて背も高く、肌は浅黒く日焼けしている。歯は陶器のように白くて、薄くなってきた髪をビシッと後ろに撫でつけている。

 なんとなくラグビーでもやっていたような外見だ。


 かなりごつい感じなので、一見すると近寄りがたそうなのだが、その顔いっぱいにとても感じのいい笑い皺があった。


 まさにやりてのビジネスマンという感じ。


   👆


「お待たせしました会長。どうも初めまして。杉村光造です」


 光造さんはあやめさんに続いて、僕にまで頭を下げてくれた。

 僕はそれだけですっかり光造さんを信頼してしまった。


 偉ぶったところが全くない。

 前に働いていたコンビニの店長とはえらい違いだ。

 まさに人間の器が違う。


「初めまして。小林一茶です」


 僕も頭を下げた。少し目が合ったけれど、お互いにいい感触だと感じられた。


   👆


「さて会長、どういったご用件でしょう?」

「あなたにちょっと相談したいことがあるのよ。まずは座ってちょうだい。一茶さんあなたもね」


 光造さんと僕は向かい合って座った。そしてあやめさんは紅茶の支度をはじめ、僕と光造さんは会話もなくそれを待った。


 居間には柔らかな日差しがふりそそぎ、紅茶の優しい香りが立ちこめていた。

 やがて紅茶の準備が整うと、あやめさんはそれぞれのカップに紅茶を注ぎ、僕の隣に座った。


   👆


「あなたにも詳しく話すことは出来ないのだけれど、これまでわたくしがしてきた仕事が続けられなくなったの」

 あやめさんはいきなりそう切りだした。


 ちらりと光造さんを見る。

 光造さんがその瞬間に、奥歯をギュッと噛みしめるのが見えたが、変化はそれだけだった。


「最初からあなたには伝えてあったわね? ついにそのときが来たの」


「そうでしたか」

 光造さんはそう言ってうなずいた。


   👆


「今後はあまりリスクの高い戦略はとれなくなるわね。規模も縮小する必要があるかもしれない」

 とあやめさん。


「そうですね。ええ、分かりました。今後はあなたの力を頼らずにいく、そういうことですね」

 光造さんはすでに切り替えたのか、すぐに笑顔に戻っていた。


「ええ。できるかしら?」

「正直、これまでと全く同じようにはいかないでしょうが、うちは優秀なスタッフを集めていますからね」


「ではよろしくお願いしますね」

「かしこまりました」


 なんとこの件はそれで終わりだった。

 こっちが拍子抜けするくらいあっさりと。


   👆


「それからもう一つ」

 あやめさんは紅茶を飲みながら続けた。


「一茶さんがね、仕事をしないで給料をもらうわけにはいかない、って言うのよ」

 あやめさんは、まるで僕がわがままを言っているみたいにそう言った。


「あやめ会長。私には、彼がそう言う気持ちが分かりますが?」

 光造さんもちょっと困惑気味にそう返した。


「でもね、わたくしは彼を助けてあげたいのよ。せっかく知り合った友人としてね。それで何かいい方法はないかしらと思って」


「なるほど。そういうことですか。では、まずは私と二人で話し合ってみたほうがいいでしょうな。かまいませんか? 一茶さん」


「あ、はい。もちろんです」

 この場面でそれ以外の返答はできなかった。


「ではよろしくね、光造さん」

 そう言うあやめさんはなんだかすごく嬉しそうだった。


 あやめさんのそんな様子に、僕も光造さんも目をあわせ、無言で笑ってしまった。


 ~ つづく ~

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