さかなの小骨―③
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僕はソファに座り直し、持っていた資料を机の上に置いた。
あやめさんは向かい側の椅子に座り、老眼鏡を外した。
二人の間にはガラステーブル、テーブルの上にはアンティークのカップに入れられた紅茶が、ゆったりと湯気を立てている。
「そろそろ話さなくてはいけない頃合いね」
あやめさんはそう言って少し微笑んだ。たぶんこれから悪い話になるのだろうが、彼女の笑顔を見ればそれほどでもないような気がしてくる。
だから僕も穏やかな気持ちであやめさんの言葉を聞くことができた。
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「もうわかったと思うけれど、この力は二つの選択肢の中で、常に正しい答えを導き出す力なの。それだけといえば、それだけかもしれないけれど、常に正解を得られるというのは驚異的な事」
「はい。僕もそう思います」
占い師をやってきた僕にはそれがよくわかる。確実な答えを導くことがいかに困難な事なのか。それどころか常識的には不可能だということが。
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「わたくしも長くこの占いを続けてきたけれど、その力の働きや仕組みは今もよくわかりません。あなたはどう? 一茶さん」
「僕もそうですね。分かるというだけで、理解できません」
あやめさんと僕だけがこの感覚を共有している。
そして二人ともがこう結論している。
能力の仕組みは分からない。でも結果は絶対。
そしてこれは人の領域を超える能力。
神の領域に属するような力だと。
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「わたくしはこれまで、自分自身で試しながらこの能力の使い方を学んできました。そして使っていく中で、この能力に代償があることを知りました。わたくしの場合は、こう、いろんな感覚が少しずつ失くなっていったの。じっさい今はほとんど味覚が感じられないし、匂いもほとんど分からなくなってしまったわ」
そういえばあやめさんはあんなに香りのいい紅茶を水のように飲んでいた。
熱いはずなのに普通に飲んでいた。
「だから、もう食事というものはぜんぜん楽しめないのよ。でもそういう感覚すらもうすっかり忘れてしまったわ」
あやめさんは何でもないことのようにそう言った。
僕は急にあやめさんという人が恐ろしく見えた。
その一瞬、なんとなくあやめさんが人間に見えなかった。
しかし、あやめさんが失ったのはそれだけではなかった。
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「それから、色も見分けられなくなったわね。それに耳もだいぶ遠くなったわ。まぁそれは年のせいもあるかもしれないけどね」
あやめさんはフフッと笑った。
そして自分の手のひらを少し見つめた。
そこにあった聖痕はもうない。
それは今は僕の手に受け継がれている。
「でもね、わたくしは後悔していません」
あやめさんはきっぱりとそう言った。
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僕は一つ気になっていたことを質問する。
「あの、あやめさんが力をもらった、っていうジプシーのおばあさんはどうだったんですか?」
「わたくしたちには、ゆっくりと話す時間がなかったの。だから、あの人のことはなにも分からないの。代償のこともなにも言われなかったしね。だから、分かるのはわたくし自身に起こったことだけ。だから、あなたの身になにが起こるのかは分からないの。わたくしと同じように感覚がなくなっていくのか、それとも全く違う代償を求められるのか」
あやめさんは立ち上がり、窓際に歩いていった。
そこには一枚の大きなガラス板が足下から天井まではめ込まれている。
そして静かに眼下を見下ろし、つぶやいた。
「ごめんなさいね……」
僕の位置からは、あやめさんが青空に浮いているように見える。
「……本当は、最初にそれを告げるべきだったのかもしれない。でもね……」
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「僕なら大丈夫ですよ」
僕はあやめさんの続けようとしていた言葉を遮る。
これ以上、あやめさんにつらい言葉を言わせたくなかったから。
僕にはあやめさんの心が分かっていた。
彼女なりに僕のためを思っていることが分かっていたから。
そして何より僕は最初からあやめさんを信用していたから。
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「たしかに、最近舌がしびれるようになりました。なんでだろうとは思っていたんです。でもこれで理由がわかりました。でもそれくらいです。特に困ったことはありません。少し気になる、というくらいです」
あやめさんは四角く切り取られた青空を見つめ、背中で僕の言葉を聞いている。
僕はあやめさんのピンと伸びた背筋をみて、脇でギュッと握られた両手を見て、なんとなく理解する。
つまりあやめさんは代償を払うことで、今の自分というものを手に入れた。
そこには強い決意があり、迷いはすでに消えている。
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それからあやめさんはテーブルに戻ってきた。
そして最後にこう告げた。
「わたしが導くのはここまで。あなたがこの占いを続けるかどうか。それはもちろんあなた自身が決めることです。代償を払うのはあなた自身なんだから、誰も強制はしません。もちろんわたくしもそうです」
僕は黙ってうなづく。
「ただ、こんな形であなたに力を渡したのは、わたくしがこの力を使って後悔しなかったということを、あなたに知っておいて欲しかったからなの。あなたがこの力を使って何をするのか、何をしないのか、それは全てあなたの自由よ」
僕はまた黙ってうなづく。
「あなた自身のことだから、ゆっくりと考えてみて」
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僕はまたもやうなづくことしかできなかった。
もちろんあやめさんの気持ちに答えたい気持ちはある。
知り合ったばかりだけど、エレインやマックのこともある。
それにクロサキカンパニーで働く人たち、かれらの家族のことも考えた。
「考えるまでもありません。これからもよろしくお願いいたします」
そう言えればみんなが喜ぶのは分かっていた。
関わったみんなのためになるのも分かっていた。
でも僕にはそれだけの覚悟がなかった。
それだけの決意もなかった。
今はまだ。
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その日の夕方、僕は家に帰り、帰る途中にデパートで買った黒毛和牛の挽き肉を使ってハンバーグを作った。
ソースは刻んだニンニクとタマネギをベースに、ワインと日本酒をブレンドした特製の醤油ソース。付け合わせはオーブンでじっくりと焼いた男爵イモとたっぷりのバター。飾りつけにはちょっと苦みのあるクレソン。
それは確かにものすごくおいしかった。
それから僕は食べたものの後片づけをしながら、自分がこういう生活を続けたいのかを考えた。
水瓶で泳ぐ十匹のメダカを眺める。
僕にもわずかだけど守るべきものができていた。
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「わたくしもね、この力を受け継いだとき、どうしていいか分からなくて、ずいぶんと回り道をしてしまったの。だからあなたには、同じような思いをさせたくないと思ってね」
帰り際にあやめさんはそう言っていた。
それはあやめさんなりの優しさなのだろう。
そう理解はできたけれど、やっぱり心がついてこなかった。
その代償があまりに大きすぎる気がしたからだ。
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「あやめさんには感謝しています」
その日の最後に、僕はあやめさんにそう告げた。
「ただ僕はまだ決心できません。なんていうか、心がうまくついてこないんです。たぶん突然だったから。少し考えさせてください」
僕は自分の言った言葉を思い出しながら、風呂に入った。
今日もアニメの映画を見たけれど内容はさっぱり頭に入ってこなかった。
気づいたときにはエンドロールが流れていたので、そのまま電気を消してベッドにもぐりこんだ。
「このまま続けると、僕はどうなるんだろう?」
「続けないなら、僕はどうするんだろう?」
心につかえたままの魚の小骨がまだ引っかかっていた。
僕は羊を数えて眠ろうとした。
でもその日は膨大な羊をカウントしただけで、まったく眠れなかった。
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その翌朝、僕はいつものようにスーツを着て、いつもと同じ時間に会社に行った。
公園沿いを歩いて五分、それから直通エレベーターで最上階にあがる。
あやめさんの部屋につくと、あやめさんが紅茶を淹れて待っていてくれた。
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「決心はついたかしら?」
「はい。僕なりによく考えたつもりです」
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さて、あなただったらどうしただろう?
~ 第5章 完 ~
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