水瓶のメダカ―②

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 それは初めて朗読をした日から二週間が過ぎ、三週間めが始まった月曜日のこと。


 僕が新聞の朗読をしている最中にマックが現れた。

 これは初めてのパターンだった。


「あら、光造さんはどうしたの?」

 それはあやめさんにとっても同じだったらしい。


「いえ、その、父から言われたもので、自分が代理で来ました」

 と、マック。

 少し緊張している様子。そして僕をチラッと見た。


「なるほどね。ってことなのかしらね、わたくしも光造さんも」


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 もちろんこの時の僕には、あやめさんの言葉の意味がさっぱり分からなかった。

 ただマックと、お互いに困惑した視線を交わしただけだった。


 そんな僕たちを、あやめさんは少し試すような計るような、そんな目で見ていた。

それもすごくうれしそうに。


 たぶん昔はいたずら好きな女の子だったんだろうな。

 その表情はとても生き生きしていて、あやめさんに一番よくなじんで見えた。


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「マックさん。書類は持っていらした?」


「はい、会長。ここにあります」

 マックはスーツの内ポケットから封筒を取り出した。


「開けてみて」

 マックは軽くうなずくと、横長の封筒の封を切り、中をちらりとのぞいてから、一枚の紙を取り出した。


「広げてみて」

 マックは二つ折りになった紙を開いた。


「読んでみて」

 そこに書かれていたのは、たった一行の言葉だった。


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『原油価格の高騰は十一月六日まで続くか?』


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 マックは書かれていたとおりに読んだ。


「内容は、これだけです……」


 マックは首を傾げた。困惑している、という様子。

 外人のように、その紙を持つ手をふわりと揺らした。


「いや、でも、こんなはずないです。父は三日も続けて会議して、さらに三日がかりでこの書類を仕上げていたんです。なのに、それがたった一言だけなんて。ありえないですよ。間違って入れたのかもしれない」


 と、あやめさんが静かに告げる。


「いいえ。それで正しいのよ。それがなの。今のわたくしたちにとって、この情報こそが一番重要なことだと、あなたのお父さんは判断したのよ」


 そう説明されてもマックは判然としない様子だった。


 もちろん僕にとってはなおさらだ。

 なんのことやら、さっぱり分からない。


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「さぁ、マックさん。あなたの仕事は終わったわ。部署に戻ってちょうだい……」


 あやめさんがそう言ったが、マックは少し迷っていた。


「……あなたにも聞きたいことがあるんでしょうけど、それがわたくしと光造さんとの間のルールなのよ。ずっとそうしてきた大事なルールなの。あなたたちはカナメになる簡潔な質問を用意してわたくしに渡す。そこまでが仕事なの」


 マックはまだ納得していないようだ。

 まぁそうだろう。あまりにも説明を端折りすぎている。もちろん僕にもさっぱり理解できなかった。


「いずれ分かるわ、マックさん」


 マックは黙って一礼すると部屋を出ていった。


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 マックがエレベーターに乗り込み、その扉が静かに閉まると、あやめさんは今度は僕の方を向いてこう言った。


「さぁ。ここからがの仕事よ」


 わたくしたち。


 あやめさんは確かに「たち」と言った。


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「さて、一茶さん。あなたはどう思う? ちょうど今日から一週間後。原油価格はまだ伸びていると思う?」

 あやめさんは僕にそう切り出した。


「その、すみません。僕にはまったくわかりません」

 もちろん分かるわけがない。

 第一、素人の僕にそれを聞くのが間違っている。


「だって一緒に新聞を読んだでしょう?」

「えーとですね。たしかに高騰は収まってきたみたいですけど、まだ上昇を続けているようだし、でもなんとなく暴落しそうな気配もあるし……やっぱり分かりません」

 僕は新聞記事のことを思い出しながら、なんとかそう答える。


「そうよね。いくら単純な質問でも、分かるわけがないわよね?」


 あやめさん、なにを言いだすんだろう?

 この話はどこに向かうんだろう?


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 そしてあやめさんは続けた。


「経済というのはね、いろんな人の心理状態が集まって大きな流れを作っているものなの。もちろん大きな力を持っている人もいるわ。でもね、それでもやっぱり多くの人の心理が全体の流れを左右するものなのよ」


「その、やっぱりよく分かりません。だって実感がないですし」

「たとえば、このまま原油高が続くと、生活が困るでしょ。暖房費だったり、電気代だったり、物価高になったり」


「新聞にもそう書いてありましたけど……でも決定するのは、もっと違う意志というか、もっと大きなものというか」

「そうね。でもそろそろ、みんながそう思っているはず。そういう思いが、大きな流れになって、経済とか価格というものを動かしてゆくの」


「はぁ。そういうものですか」


 そうは言ったが、スケールが大きすぎてまったくわからない。

 そもそも理解できる気がしない。


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 僕の困った表情にあやめさんはまたにっこりと微笑んで続けた。


「そこで、今日から一週間後、人々がどういう心理状態になっているか、そこを想像してみて?」

「やっぱり想像できませんよ。あんまりに情報が多いし、ばらばらだし、なんていうか、不確定な要素が多くて」


「そうね。でもあなたはそういうニュースにいろいろと目を通してきたでしょう?」

「それはそうかもしれませんけど、でも足りないくらいですよ。それに一週間以内になにか大きな事件が起こるかもしれないし」


「そうね。結局未来は分からない。誰にもね。でも?」


 まぁたしかにその通りだ。


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「分からないことが多くても、占うことは出来るでしょう? 実際にあなたも、そしてわたくしも、そういう状況で占いをしてきたはず」


 そう言ってあやめさんは僕の隣に座り、僕の両手をとった。

 そして両手をひっくり返し、手のひらのアザを僕に見えるようにした。


 ……そう呼ばれていた赤いたアザ。


 いよいよ僕の運命が大きく動きだそうとしていた。



 ~ つづく ~

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