第4章 水瓶のメダカ
水瓶のメダカ―①
初出社の日から二週間ほどが過ぎた。
僕に与えられた仕事というのは、あやめさんの朗読係だった。
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初出社の日のことはよく覚えている。
僕は新しいスーツを着て、新しい革靴を履いて、マックの運転するベンツの助手席から降りると、一般社員とは別の直通エレベーターでまっすぐ最上階に上がった。
そこは運命のあの日に訪れた、あやめさんの住む豪華なあの部屋だ。
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「おはよう、一茶さん」とあやめさん。
あやめさんはパリッとした薄紫色のスーツを着こなしていた。
「おはようございます。今日からよろしくお願いします」
と僕。精一杯の笑顔を浮かべて元気よく。
でもかなり緊張している。
ちょっと笑顔がずれてる感じがする。
「ちょっと緊張しているかしら? でもね緊張しなくて大丈夫よ。今、紅茶を淹れたところですから、まずは一緒に飲みながらお話をしましょう」
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それから僕たちは向かい合って座る。
あやめさんの淹れてくれた紅茶はすばらしい香りがした。甘くて深くていい香り。紅茶に感動するなんて、初めてのことだった。
でも、あやめさんは慣れた様子でカップに口を付けていた。香りを楽しむわけでもなく、淡々と水のように飲んでいる。
お金持ちというのはこういうものなのだろうか?
やはりお金持ちの世界のことはよくわからない。
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それはともかく、僕たちはたっぷり三十分ほどくつろいだ。
大きな窓いっぱいから日差しが入り、部屋は暖かく明るくて、ふかふかのソファはとても心地がいい。
なんとなくお茶の時間が終わると、あやめさんは机の上に七つの新聞と、A4に印刷された分厚い紙の束を並べた。
「さて、これがあなたにしていただきたいお仕事よ」
げっ。というのが正直な感想。
こういう書類仕事というのを、僕はやったことがなかったのだ。
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「大丈夫よ。驚かなくても」
と、あやめさんがぼくの心を読んだのか、よっぽど僕の表情が変化したのか、それは分からないけど、あやめさんは優しく微笑みかけてくれた。そのまなざしが柔らかくて、僕はすこしホッとする。
「一茶さんは、わたくしに新聞を読んでくださればいいの。こちらの紙には、海外の新聞を翻訳したものが印刷されています」
「あの……それだけでいいんですか?」
とはいえ、もの凄い量なのだが……
「ええ。それだけよ。最近はすっかり目が弱くなってしまってね」
うん。それなら出来そうだ。難しいことじゃない。
でもたったそれだけのことで、給料をもらってもいいものだろうか?
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「でも楽なお仕事じゃないのよ……」
そういうあやめさんは少し悪戯っぽく微笑んでいる。
「……だってすごい量でしょう?」
「ええ。そうですね」
「でもね、全部読むわけではないのよ。あなたはね、まず見出しを読むの。その中にわたくしが読みたい記事があったら、それを読んでくださればいいの。どう? それなら出来るかしら?」
「もちろんですよ。でも、逆に、ほんとにそれだけでいいんですか?」
「ええ。では契約成立ね?」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
「では、さっそく始めましょう」
あやめさんはちょっと背筋を伸ばし、膝の上に両手をそろえた。
なんとなくその仕草が可愛らしく見える。
それから僕は言われたとおりに、新聞のタイトルを次々と読み、あやめさんの指示のあった記事を読み上げていった。
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それが僕の仕事だった。
実際のところ、仕事のすべてだった。
だいたい朝の十時から十二時くらいまで、国内の新聞を読む。
投資会社だから、いくつかの株価もチェックする。
十二時からは一時間の休憩時間で、僕は一人か、迎えにくればマックと一緒に、近くの店でランチを食べる。
帰ってくると、今度は海外のニュース。分厚い紙束を抱え、のんびりとしたペースで、四時くらいまでにすべてに目を通す。
最後の紙をめくり終わったところで、仕事は終わる。
「はい。今日もごくろうさま」
あやめさんはにこやかに笑う。
そして僕も微笑み返す。
それからしばらく二人で巨大な窓に広がる夕暮れの景色を眺める。
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というペースで毎日が流れ出してゆく。
仕事が終わると、僕は直通エレベーターで一階に降り、ほかの社員がまだ働いている中、早々に帰り道につく。
陽はまだ高い。小学生が下校するような時間だ。
僕はのんびりと歩いてマンションに帰る。
途中でスーパーに寄って、晩飯の食材を買って帰る。
もちろん無駄な買い物はしないし、なるべく特売品を選んで買う。
お金はあったけれど、安いものを買う癖は全く抜けない。
まぁそういうものだ。
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でも一つだけ『贅沢』をしたことは告白しておこう。
僕はマックから預かったあのブラックカードで水がめを買った。
デパートで三万円もした。
そして水草とメダカを買った。
それは僕が生まれて初めて買ったペットだった。
水がめはキッチンにあるカウンターに置いた。
その水がめの中では、十匹あまりのメダカがゆっくりと泳いでいる。
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家に帰ると僕はまず彼らに餌をやる。
彼らが楽しそうに泳いでいるのをしばらく眺める。
それから僕はお気に入りのキッチンで、じっくり時間をかけて料理を作る。
ビーフシチューを煮込んだり、ロールキャベツ作ってみたり、ローストビーフに挑戦したり、これまであまり作れなかったものを作る。
そして時間をかけて一人でゆっくり食べる。
それからレンタルDVDの映画を一本か二本見る。僕はよくアニメ映画を見る。
それを見終わるとシャワーを浴びて、大きなベッドに横になる。
そして月明かりの反射する青い壁を見つめ、羊を数えて眠る。
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時々、夜中不意に目覚める。
そんな時はいつもこう思う。
僕はなんでこの部屋にいるんだろう?
なんなんだろう、この展開は?
こんな生活がずっと続けられるのかな?
「だったらいいんだけどな」
でも僕は覚悟している。
こんな楽な生活が続くわけがない。
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そして予感は的中する。
あやめさんの朗読係。僕の仕事はそれだけでは済まなかったのだ。
僕の占いもそうだったけど、悪い予感ほどよく当たる。
~ つづく ~
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