第4章 水瓶のメダカ

水瓶のメダカ―①

 初出社の日から二週間ほどが過ぎた。

 僕に与えられた仕事というのは、あやめさんの朗読係だった。


   👆


 初出社の日のことはよく覚えている。


 僕は新しいスーツを着て、新しい革靴を履いて、マックの運転するベンツの助手席から降りると、一般社員とは別の直通エレベーターでまっすぐ最上階に上がった。


 そこは運命のあの日に訪れた、あやめさんの住む豪華なあの部屋だ。


   👆


「おはよう、一茶さん」とあやめさん。

 あやめさんはパリッとした薄紫色のスーツを着こなしていた。


「おはようございます。今日からよろしくお願いします」

 と僕。精一杯の笑顔を浮かべて元気よく。


 でもかなり緊張している。

 ちょっと笑顔がずれてる感じがする。


「ちょっと緊張しているかしら? でもね緊張しなくて大丈夫よ。今、紅茶を淹れたところですから、まずは一緒に飲みながらお話をしましょう」


   👆


 それから僕たちは向かい合って座る。


 あやめさんの淹れてくれた紅茶はすばらしい香りがした。甘くて深くていい香り。紅茶に感動するなんて、初めてのことだった。


 でも、あやめさんは慣れた様子でカップに口を付けていた。香りを楽しむわけでもなく、淡々と水のように飲んでいる。


 お金持ちというのはこういうものなのだろうか?

 やはりお金持ちの世界のことはよくわからない。


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 それはともかく、僕たちはたっぷり三十分ほどくつろいだ。


 大きな窓いっぱいから日差しが入り、部屋は暖かく明るくて、ふかふかのソファはとても心地がいい。


 なんとなくお茶の時間が終わると、あやめさんは机の上に七つの新聞と、A4に印刷された分厚い紙の束を並べた。


「さて、これがあなたにしていただきたいお仕事よ」


 げっ。というのが正直な感想。

 こういう書類仕事というのを、僕はやったことがなかったのだ。


   👆


「大丈夫よ。驚かなくても」


 と、あやめさんがぼくの心を読んだのか、よっぽど僕の表情が変化したのか、それは分からないけど、あやめさんは優しく微笑みかけてくれた。そのまなざしが柔らかくて、僕はすこしホッとする。


「一茶さんは、わたくしに新聞を読んでくださればいいの。こちらの紙には、海外の新聞を翻訳したものが印刷されています」


「あの……それだけでいいんですか?」

 とはいえ、もの凄い量なのだが……


「ええ。それだけよ。最近はすっかり目が弱くなってしまってね」


 うん。それなら出来そうだ。難しいことじゃない。


 でもたったそれだけのことで、給料をもらってもいいものだろうか?


  👆


「でも楽なお仕事じゃないのよ……」

 そういうあやめさんは少し悪戯っぽく微笑んでいる。

「……だってすごい量でしょう?」


「ええ。そうですね」

「でもね、全部読むわけではないのよ。あなたはね、まず見出しを読むの。その中にわたくしが読みたい記事があったら、それを読んでくださればいいの。どう? それなら出来るかしら?」


「もちろんですよ。でも、逆に、ほんとにそれだけでいいんですか?」

「ええ。では契約成立ね?」


「はい。こちらこそよろしくお願いします」

「では、さっそく始めましょう」


 あやめさんはちょっと背筋を伸ばし、膝の上に両手をそろえた。

 なんとなくその仕草が可愛らしく見える。


 それから僕は言われたとおりに、新聞のタイトルを次々と読み、あやめさんの指示のあった記事を読み上げていった。


   👆


 それが僕の仕事だった。

 実際のところ、仕事のすべてだった。


 だいたい朝の十時から十二時くらいまで、国内の新聞を読む。

 投資会社だから、いくつかの株価もチェックする。


 十二時からは一時間の休憩時間で、僕は一人か、迎えにくればマックと一緒に、近くの店でランチを食べる。


 帰ってくると、今度は海外のニュース。分厚い紙束を抱え、のんびりとしたペースで、四時くらいまでにすべてに目を通す。


 最後の紙をめくり終わったところで、仕事は終わる。


「はい。今日もごくろうさま」

 あやめさんはにこやかに笑う。

 そして僕も微笑み返す。


 それからしばらく二人で巨大な窓に広がる夕暮れの景色を眺める。


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 というペースで毎日が流れ出してゆく。


 仕事が終わると、僕は直通エレベーターで一階に降り、ほかの社員がまだ働いている中、早々に帰り道につく。


 陽はまだ高い。小学生が下校するような時間だ。

 僕はのんびりと歩いてマンションに帰る。


 途中でスーパーに寄って、晩飯の食材を買って帰る。

 もちろん無駄な買い物はしないし、なるべく特売品を選んで買う。


 お金はあったけれど、安いものを買う癖は全く抜けない。

 まぁそういうものだ。

 

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 でも一つだけ『贅沢』をしたことは告白しておこう。


 僕はマックから預かったあのブラックカードでを買った。


 デパートで三万円もした。

 そして水草とメダカを買った。


 それは僕が生まれて初めて買ったペットだった。


 水がめはキッチンにあるカウンターに置いた。


 その水がめの中では、十匹あまりのメダカがゆっくりと泳いでいる。

 

   👆


 家に帰ると僕はまず彼らに餌をやる。

 彼らが楽しそうに泳いでいるのをしばらく眺める。


 それから僕はお気に入りのキッチンで、じっくり時間をかけて料理を作る。

 ビーフシチューを煮込んだり、ロールキャベツ作ってみたり、ローストビーフに挑戦したり、これまであまり作れなかったものを作る。


 そして時間をかけて一人でゆっくり食べる。

 それからレンタルDVDの映画を一本か二本見る。僕はよくアニメ映画を見る。


 それを見終わるとシャワーを浴びて、大きなベッドに横になる。

 そして月明かりの反射する青い壁を見つめ、羊を数えて眠る。


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 時々、夜中不意に目覚める。


 そんな時はいつもこう思う。


 僕はなんでこの部屋にいるんだろう?

 なんなんだろう、この展開は?

 こんな生活がずっと続けられるのかな?


「だったらいいんだけどな」


 でも僕は覚悟している。

 こんな楽な生活が続くわけがない。


   👆


 そして予感は的中する。


 あやめさんの朗読係。僕の仕事はそれだけでは済まなかったのだ。


 僕の占いもそうだったけど、悪い予感ほどよく当たる。


 ~ つづく ~

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