第3章 羊をかぞえる
羊をかぞえる―①
その翌日の事である。
僕は昼頃になってようやく目を覚ました。
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僕はまず自分の両手を持ち上げて、手のひらを眺めた。
僕の手にはやはり赤いアザがくっきりと残っていた。
しかしその他は今までと違うところはなにもなかった。
「あやめさんとエレイン、そしてギフト」
記憶に刻むように口にする。
あやめさんが贈ってくれたというギフト。それが結局何だったのか分からなかった。特に感覚が鋭くなったとか、頭がさえ渡っているとか、力が湧いてくるだとか、感じられるような変化は何一つなかった。
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そういえばあやめさんに『秘書になりなさい』と言われて、返事をしたのを思い出す。うん。たしかに僕は返事をした。
そうだった。思い出した。
ということは、バイトもやめた方がいいのかな?
本当に辞めて大丈夫なんだろうか?
今の僕にはそっちの判断の方が問題だ。
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それで、とりあえずバイト先のコンビニに電話してみた。
ちょうど店長がいたので、シフトや引き継ぎなどの都合を聞いてみたのだが、答えは実にあっさりしたものだった。
「ああ、そんなの気にしなくていいよ」
たったそれだけ。
まぁ僕の存在価値なんてその程度なのだ。僕が大げさに考えすぎていただけだ。
僕の穴埋めなんていくらでもいるし、僕にできることは誰にだってできる。
それはなんだか悲しい気もするけれど、世の中も、世の中における僕という存在も、実際はそんなものなのだろう。
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結局のところ、僕は五分足らずで無職になってしまった。
ということで、午後からはずっとヒマができてしまった。
明日もあさっても何も予定がない。
ずっと続く日曜日。
それはそれで幸せなんだけど、こんな生活がいつまでも続くはずがない。
人間、働かなくては食べていけないのだ。
「さて、どうしたものかな?」
独り言をつぶやいてみてから、僕はヒゲを剃り、顔を洗い、出かける予定もないのに、とりあえずトーストを焼いて、目玉焼きとベーコンで昼食をすませた。
そうやって家事をしていると気分が落ち着いてきた。
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ついでに告白しておくと僕はいわゆる家事が大好きだ。
料理を作るのが好き。自分が作ったものを食べるのが好き。
残り物でおいしくできたりするとすごく幸せになれる。
もちろん買い物も好きだ。
皿洗いも、洗濯も好き。
畳んだり干したりする作業も僕にとっては創造的な活動だ。
掃除だって好き。掃除機のモーター音は、僕にとって音楽だ。
ついでに白状すると僕はエプロンのコレクターだ!
メンズのエプロンの種類は圧倒的に少ないのだが、見つけるたび手当たり次第に買ってきたせいで、今はではかなりの数を保有している。
たぶん洋服の倍はある。
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ついでに言うと、僕が家事を好きになったのは家庭環境のせいだ。
僕の父と母は共働きで、しかも僕は一人っ子だった。
まだ本当に小さかったときには、母方のおばあちゃんがいて、僕の面倒を見てくれていた。僕はそのおばあちゃんに家事のいっさいを習った。
そしてなにより家事の楽しさを!
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さらについでに言うと、父と母は僕が小学校五年生の時に離婚した。
それは当時の僕から見ても不思議な事じゃなかった。
二人はいつも働いていて、家に帰る時間もまちまちだし、それぞれが自分の仕事に夢中で、他のことにはあまり関心がないようだった。
二人がどうして結婚したのか? 僕にはその方がよっぽど不思議だった。
そんな二人がどうして僕を生んだのか?
それこそ二人にとっては子供の存在なんてデメリットしかなかったはずだ。
おそらく父と母はなにも考えていなかったのだと思う。
そう思わざるをえない。
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離婚した父が出ていくと、僕は母とおばあちゃんと三人で暮らすようになった。
あのころの僕はいつもおばあちゃんと台所にいて、料理ばかり作っていた。
しかし、僕が高校に入学した頃から、おばあちゃんがボケはじめた。理由は分からない。あっと言う間に症状が悪化し、三ヶ月ほどで老人ホームへと行ってしまった。
残された僕は母と二人で暮らすことになった。
そして当然のように僕がすべての家事をこなすことになった。
いわゆる専業主夫。正確には旦那さんではないけれど。
しかし、それはそれで悪くない生活だった。
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ついでに言うと、おばあちゃんはそれから三年ほどで亡くなった。
それは僕の大学入学を直前に控えた春休みの事だった。
僕はなんとか現役で都内の大学に合格していたのだが、そこで僕と母の家計は完全にパンクした。理由は単純。母が会社を辞めざるをえなくなったのだ。
そのとき、母は精神を病んでいた。会社の方でなにか揉め事があったらしい。強気な母は急に何もできない人になってしまった。
それでも最初は僕も大学に通い、アルバイトと両立しながら、さらに母の看病と家事をこなしていた。
大変な日々ではあったけれど、僕は淡々ととそれを続けた。
でもやっぱりすぐに破綻した。
その時の僕に必要なのは学力ではなく『金』だったのだ。
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そこで僕は大学生活に見切りをつけ、アルバイト生活に入った。
当時は景気もよかったから、アルバイトでも結構稼げたのだ。一日中働いていれば、それこそ新卒のサラリーマン並には稼げた。
しかも休みは自分で決められるし、嫌になったら辞められるしで、当時の僕にはうってつけだったのだ。
僕は母に食事をさせ、部屋の掃除をし、ベッドメイクをして、ゴミを出した。
考えてみれば、母が働いていたときよりも、そのときの僕の方がずっと働いていたかもしれない。
うん、あのころの僕はよく働いた。
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ついでに言うと……なんだかそれの繰り返しばかりだな。
僕の人生は『ついで』の連続なのかもしれない。
まぁいい。実際、僕の人生はそんなものだ。
それでも僕に文句はなかった。
僕は母と違って家事が好きだったし、少なくとも母は僕の料理をいつも残さず食べてくれた。
おいしいと言ってくれたことは一度もなかったけれど。
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こういう毎日を送っていると、だんだんと惰性が加速していくもので、気付いたときには三十歳になるまでの約十年間、アルバイト生活を続けてしまっていた。
未来の事を考える余裕なんてまったくなかった。
明日のこと、長くても月末までの未来と金のやりくりしか考えられなかった。
まさに貧乏ヒマなし。
だけど僕と母は幸福だった、と思う。
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ちなみに僕は今、三十三歳。フリーター生活は今も続いているが、昔と違って今は正社員になろうと努力していた。
まぁ結局のところ店長にはあっさりと切られてしまったが、あの態度から察するに最初から正社員にはなれなかったのかもしれない。
正社員の話は、僕の鼻先に吊られたニンジンだったのだろう。
人生はいつだって厳しい!
~ つづく ~
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