第2章 カニを食べる
カニを食べる―①
「乗んないの?」
大きくドアを開いた豪華なリムジンの前。
彼女は試すような目つきで僕を見下ろしていた。
僕はツっ、とメガネをあげた。それから占いの道具を片づけはじめた。
なんとなく腹が決まったのだ。
👆
「置いてったら?」
彼女はそう言って、ろうそくの火を吹き消した。
「……ゼンブいらないって」
僕は立ち上がり、僕の小さな仕事場を見下ろす。
手作りのランプシェード、手書きの看板、ルーペにぼろぼろの本。
それを詰め込むためのボロボロの大きな革の鞄。
そして僕は知る。僕を取り巻くすべてにさよならを告げるときが来たのを。
僕は一度だけため息をつき、僕の道具たちに別れを告げる。
「サヨナラ」
僕の言葉を飲み込んで、リムジンのドアが柔らかく閉まる。
👆
僕の机と僕のイスと僕の鞄と、その他いろんなものをそっくりその場に残して、リムジンは走り出す。
そして僕はリムジンの腹の中にすっぽりと収まった。
天井こそ低いけれど、そこは豪華な宮殿のようだった。
ドアが閉められた瞬間、すべての世界から隔絶された。走っている感覚もなく、エンジンの音だけが低く、遠く、柔らかく響いてくる。
それこそクジラのおなかの中にでもいるようだった。
僕は起きながら夢を見ているようだった。
だがもちろんこれは夢なんかじゃない。
👆
「あたし黒崎エレイン。あなたを呼んでこいって、おばーちゃんに頼まれたの」
彼女『エレイン』は僕の向かい側に座り、ゆるく組んだ長い足を投げだしている。慣れた様子も彼女には当たり前のことなのだろう。
「これからどこへ行くんですか?」
「おばーちゃんのオフィス。ところであなた、名前は?」
年下の女の子にタメ口をきかれる居心地の悪さを感じつつも、僕はつい丁寧語で答えてしまう。
「小林一茶と言います」
👆
「イッサ、それって珍しい名前じゃない?」
「そうでしょうね。でも昔のハイクを読む人と同じ名前なんですよ。日本では結構有名な人なんです」
僕は自分の名前を名乗るたびに、だいたいこれと同じような説明をする。
変わった名を持つ者の宿命なのだ。
「へえ、そうなの」
彼女の返事は素っ気ない。そして会話もいきなり終わってしまった。
彼女はそれきり僕に興味を失ったらしく、タバコに火をつけ、窓の外を流れてゆく景色を見つめた。それは水面に映る光景のように、ゆがんで柔らかく揺れている。
僕もそれを眺め、同じようにタバコに火をつける。
👆
やがてリムジンは大きなガラス張りの高層ビルの前につき、ねぐらに帰るように地下駐車場に吸い込まれた。
がらんとした駐車場を回遊して、最下層の一番奥、高級外車がまばらに並ぶ一角に到着する。
「さ、着いたわよ」
エレインのあとに続いて僕は車を降りた。
👆
直通エレベーターで地下三階から地上四八階まで。
エレインと僕は特に会話も意志の疎通もなく、上がっていった。
チン、と柔らかい電子音で扉が開く。
「おばーちゃん、連れてきたよ」
予想と違い、そこには普通の部屋が広がっていた。いわゆる居間の部分。
床には繊細な模様の部厚いカーペットが敷かれ、大きなテーブルがあって、やたらと凝ったイスがあって、少し離れてソファが固まって、巨大なテレビがある。
それらが大きな部屋の中に余裕をもってさっぱりと並んでいる。
ただ部屋の中はかなり薄暗い。間接照明の光は柔らかいが、あまりに影が多い。
「お待ちしてましたよ」
その声は窓辺の影の中から聞こえてきた。
👆
東京の夜景をバックに、小さな人影がぼんやりと浮かび上がって見えた。
かなり小さくて細い人影。その人影はゆっくりとした動きで僕に体を向けた。
「こんにちは。少し驚いたでしょう? それとも予想していたかしら?」
人影はゆっくりと僕に近づいてくる。シャンデリアのほのかな明かりが、近づいてくる彼女に色彩を添えてゆく。
一目で高価だとわかる鮮やかな花柄のプリント地のスーツを着ている。かなりの高齢だが、美しい女性だった。
「初めまして、わたくしは黒崎あやめ。どうぞよろしくね」
そして彼女は肘まである真っ白な絹の手袋をはめていた。
👆
僕には最初の出会いの瞬間から、この黒崎あやめさんが運命の人になるという確信があった。それも僕の運命をまるっきりねじ曲げてしまう人だと直感した。
ちなみにこの直感は僕にとって二度目のこと。
最初の直感は僕に占いを教えてくれた先生と出会ったときだった。
👆
「あ、あの、初めまして、こちらこそよろしく、お願いします」
僕はあやめさんが差し出した手を握った。
一瞬その手の甲にキスとかした方がいいのかと考えてしまった。
あやめさんはじつに貴族的な感じのする人だった。背筋はピンと伸び、髪をきちんとセットし、こんな時間だというのに、化粧もバッチリだった。
それ以上に印象的なのは、その話し方と雰囲気だった。
僕はあまり人を信用しない性格だが、彼女は無条件に信用できた。
僕にとってこういう人は珍しい。
「僕は小林一茶といいます。その、うまくいえないですけど、僕はあなたを信用します」
👆
「とても素敵な挨拶ね。わたくしもあなたを信用しますよ。どうぞよろしく」
あやめさんはなごやかに笑った。それから僕にソファを勧めてくれて、自分はその向かい側の椅子に座った。
僕たちの間にはガラスのローテーブルがあり、その上にはこぶしほどの大きさの水晶玉があった。それはシャンデリアのかすかな光を吸い込んで、青白く輝いていた。
「あの、よろしくお願いします……その……」
またもや言葉はうまく出てこない。
それでもあやめさんはそれを無言の笑顔で迎え入れてくれた。
「一茶さん、聞きたいことがいろいろあるでしょう? でもまずは、まずはわたくしの話を聞いていただこうかしら」
そう前置きしてから、あやめさんは静かに話しはじめた……
~ つづく ~
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