四日市ぜんそくの話をする女子小学生の話

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第1話

 来年の事を言うと鬼が笑うなんてよく言うけれど、だったら数十年後の話をしているあの子の事は、いったい誰が笑うのだろう。


 そんな小さな疑問を抱きながら、私はこの街の未来を熱く語る彼女の話を聞いていた。学校から帰る道すがら、彼女は毎日楽しそうに、この街の話をしてくれるのだ。一ヶ月前に東京から引っ越してきた私にとって、それは毎日の楽しみでもあった。


「三重県四日市市よっかいちしはいずれ絶対、日本一の街になる。私はそう確信しているんだよ」


 嬉しそうに話すその表情を見ていると、不思議な事に本当にそうなる気がして来る。本当に不思議だ。


 小学六年生の二学期。複雑な時期にここ四日市へと転向してきた私は、慣れない土地の雰囲気と、そして前の学校でのトラウマに塞ぎ込んでいた。そんな私に声を掛けてくれたのがこの子、市先清華いちさきすみかだった。


 長い黒髪が本当に綺麗で、同級生とは思えないぐらい美人の女の子。初対面ではそんな、近寄りがたい印象を抱いた。今ではだいぶ違うけど。


「でも四日市って、あんまり有名じゃないよなぁ……」


 清華が悩ましそうに唸る。


「うーん。確かに、何も思いつかないかも」


「はいじゃあ樹里、四日市と言われて最初に思い浮かぶもの!」


 そんな清華は歩きながら、私にビシッと指を指して言う。


「……何も思いつかない」


「頑張って考えてくれ! 殺すぞ!」


「……うーん。四日市ぜんそく?」


「禁止! 四日市ぜんそくだけは禁止! 殺すぞ!」


 禁止された。


「だって、四日市って聞いて思い付くのってそのぐらいだし……」


「マイナスイメージ過ぎる! ダメダメ!殺すぞ!」


「ねぇ、言葉の最後に『殺すぞ』って付けるのやめない?」


「分かった。殺すぞ」


「分かってないし……」


 四日市のイメージ。実際かなり難題だ。引っ越す前は三重県なんてどこにあるかすら知らなかったのだ。ましてや四日市と言われても「あ、教科書で見た事ある」としか思わない。しかも四大公害病の欄でだ。


 ちなみに今の四日市はと言うと、普通に空気は綺麗だ。


「でも、確かに樹里の言う事ももっともなんだよなぁ……。四日市ぜんそくのイメージを消すのは必要だよなぁ」


 清華は澄んだ空を仰いでうーんと唸る。そんな清華の隣を、私は同じ歩調で歩く。考え事をしている清華は、少し歩くテンポが遅くなる。だから私も、少しだけ歩くのを遅くした。


 そうしてしばらくしていると、清華は「妙案が思い付いたぞ」と言う顔でこちらを振り向いた。


「そうだ……やっぱりこういうのはアレだろう。ゆるキャラを作るのが良い気がするぞ」


「ふなっしーみたいな?」


「そうだ。船橋市みたいな何処にあるかも何があるかも分からないザコい場所が有名になったのは、ひとえにゆるキャラのおかげだろう?」


「異常に口が悪いよ清華ちゃん?」


 ちなみに船橋市は千葉だから、残念ながら三重より栄えている。そんな事実は伝えることなく、ひとまず胸に収めた。あっ、胸が苦しい。これ、四日市ぜんそくかも知れない。絶対違う。


「という訳でゆるキャラの案! はい樹里!」


 清華はビシッ! と私を指差す。そう、何故か案を出すのは毎日毎回私なのだ。


「……『よっかいちー』」


「安易なパクリを感じるぞ」


「決めゼリフは『亜硫酸ガスぶしゃー!』」


「公害のイメージ!」


「じゃあ『体に良い亜硫酸ガスぶしゃー!』」


「体に良い亜硫酸ガスは無いから」


「『みんな吸ってるよ? はい亜硫酸ガスぶしゃー!』」


「ドラッグを勧めてくる悪い先輩みたいに言われても困る」


 結局全て、全力でボツを食らった。


「あとはそうだな、隣県の奈良だとせんとくんとか居るな。キモカワイイみたいな」


「じゃあ、喘息ぜんそくとかどう?」


「払拭!」


「漢字二文字で怒らないでよ……」


 そもそもゆるキャラで一発当てようだなんて考えは、ふなっしーが流行った当時各地方自治体に蔓延した。そしてほぼ全てが目立つことなく消えたらしい。浅はかとしか言いようがない。


「て言うか清華ちゃんって本当、この街が好きだよね」


「おう、私の四日市愛は凄いんだぞ。生まれてくる時『オギャー』って言わずに『ヨッカイチー』って言いながら生まれてきたもん」


「絶対嘘だ」


 あまりのくだらなさに、思わず笑ってしまった。


 楽しい。


 気づくとそんな感情が、胸いっぱいに広がっていた。他愛ない、中身のない会話なのに、それがいつまでも続いて欲しい。そんな不思議な感覚が、私の心を捉えて離さなかった。


 私はふと、四日市の空を見上げた。真っ青で綺麗で、それは東京の空となにも変わらなかった。そうして気づくと、東京での学校生活が脳裏によぎっていた。


 そこには、私の居場所は無かった。理由は確か、友達の誕生日会に出られなかった事が原因だったと思う。


 しかし気づくと、私はイジメに遭っていた。文房具を隠されて失くす度、母に物を大切にしろと怒られていた。だけどイジメられてるなんて言い出せなくて、その度その度母に謝った。そうして自分の部屋で一人になると、毎日苦しくて悔しくて泣いていた。


 その時の胸の苦しさは、今でもはっきりと思い出せる。


「…………里?」


「……えっ?」


 ふと視線を戻すと、清華が私の顔を覗き込んでていた。


「樹里、なんだか表情が暗いけれど……大丈夫か?」


「うん……なんだか少し苦しくなっちゃって。もしかすると四日市ぜんそくかも知れない……」


「だ! か! ら! 四日市ぜんそくはもう無いの!」


 怒ったように言う清華の顔は、だけれど確かに優しく笑っていた。





 清華の考えているような、何十年後の未来の話なんて、私には考えられないし、予想も全く出来ない。


 だけど、少なくとも。


 清華の隣で笑っているのが、何十年後も私であれば良いな。


 出来るなら、この街でずっと。


 私はそう思いながら、清華の隣を歩いた。頭上には相変わらず、澄んだ空が広がっていた。


 私は思い切り深呼吸をする。


 気づくと胸の息苦しさは、すっかり全部消えていた。

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