広介と明里
風々ふう子
第1話
好きと言われて広介は不思議な感慨に包まれた。生まれてから十九年、人に恋愛的な告白などされたことがなかった彼に、「好き」という言葉がこの世界の日常で使われる言語であることが、極めて不自然な感じがした。街中で知らない異国語を耳にした時と同じような耳障りで、そしてその異国語がまさか自分に向けられているという驚きを伴い、「好き」という言葉に含まれる意味は大分後からやってきた。
「それで」
何を考えるでもなく、広介の口からそう漏れた。声の質はひどく頼りなかった。
「それで?」
明里は何か済まなそうな顔をして鸚鵡返しに返答した。明里は広介の通う大学の同じ学部で同じサークルに所属する子で、彼女とは一年の時分から親交があった。
「あ、だから、その」
広介はどもりながら言葉を紡ぐ。
「だから、その? なんだかわたしちょっと恥ずかしくなってきた」
明里は前髪の先に手をやりながらそう言った。
上手く言葉が出ず情けない自分に、広介は明里に対する申し訳ない気持ちでいっぱいになった。明里は伏し目がちに頬を赤く染めている。この今の状況がどういう意味を持っているのか、広介の中で徐々に世界の普遍と繋がっていった。つまり、女性が男性に告白している、そういうことなのだ、と彼はようやく理解した。いや、おそらく初めから分かってはいたのだが、もしこれが当初の自分の解釈、つまり告白である、ということと違う意味を持っていたとしたら、恥ずかしい勘違いを起こしてしまう、そういう現代青年のひ弱な危機回避能力が、彼を逆の解釈に強引に持って行ってしまっていたのである。
「つまり、僕のことが、好きってことだね」
確認するように広介は言った。「広介のことが好き」と明里から言われての返答として、それはあまりにも不自然である。本来男女間における「好き」という言葉に告白的な要素以外のものは混入する余地はないはずだが、それでも広介は確認せずにはいられなかった。
ここが他に誰もいない河川敷の草叢であること、美しい夕陽で世界が満たされていること、柔らかくそよぐ風が明里の髪を綺麗にさらっていること。それらの全てが、この最低限の身動きしかせず、緊張してどもりがちな広介との不和をもたらしていた。この場所や状況に唯一似つかわしくない彼に告白してしまった明里は、いたたまれない気持ちになったのか、身をよじらせてそっぽを向いた。
広介は矢張りきょとんとした目を据えただけ、ただ明里の方を向いていた。
「で、それで?」
広介は言った。明里は目を見張った。なぜ私はこの男に告白してしまったのだろう、と言わんばかりに彼女は顔を真っ赤にした。かっかと色づくその頬の赤色がおそらく怒りの感情であることを、流石の彼も悟った。彼は自分の言葉を反省すると同時に、好きと言われた時に対する答えが何であるのかを真剣に考えた。が、矢張り彼には全く難しい話だった。
「付き合って」ならば、はい、か、いいえ、で答えられる。しかし「好き」と言われたら、それはただの一方的なお告げでしかないのだから答えられないじゃないか、と彼は考えた。
普通の男なら「嫌い」と言われた場合、「俺も嫌い」と言う、同じ要領で、「好き」と言われた時も「俺も好き」と言うべきだと知っている。
しかしこと広介に関しては、「嫌い」と言われた場合、成る程と理解して無言のまま対象から去って行く、そういうような性格なのだ。それ故に「好き」と言われた時の対処の仕方が彼にはよく分からない。
それでも広介は自分流の類推と対比をして答えを編んだ。僕は「嫌い」と言われたら無言で去る人間だ、それなら同じ要領で逆のことをすれば良いんじゃないか。そう思いつくと、彼は明里の方に近付き、肩を抱いて、唇に軽く接吻した。二秒ほどの短い接吻で、彼はその時だけは普通の青年と同様の幸福感に満たされた。広介が唇をつっと離すと、明里の目には涙が溜まっていた。
「最低だと思う。いきなりは、流石に、最低だと思う。広介の今の行動が積極性からじゃなくて、ただ突飛な行動に出てしまっただけだということは、わたしは知っているけれど、やっぱり広介は最低な人だと思う。わたし、キスしたこと、なかったのに」
明里はカーディガンを引き千切らんばかりに強く掴んで、自分の身体を抱きながら言った。しかし三度繰り返された「最低」という言葉は、接吻によって鷹揚な心地を手に入れた広介には果たして届かなかった。
「ごめん、ちょっとどうすれば良いかわからなくて。でも、明里の唇、やわっかくて、良かったよ」
広介の頬に平手が飛んだ。和太鼓のような綺麗に澄んだ音が響いた。彼は困惑して首を傾げながら、赤く腫れた頬をさすった。
「で、僕はどうしたらいいのかな」
広介がそう言うと、明里は深く溜息をついて、しかし不思議と何か安心するように脱力した。あの唐突な接吻が、次第に彼のミステリアスな固有性を象徴しているような気がしてきたのだった。広介はやっぱり少し変わっている男だから仕方ない、そういう告白前とはまた別な好意にも同情にも似た感情が彼女の中で芽生え始めた。接吻の感触が唇にむくむくと蘇ってくるようで、頬にさす赤色はまた恋愛的なむず痒いものに戻った。もう一度キスしたい、彼女はそうとまで思った。意識的にそう思うと、彼女は自分に照れ隠しするように意味も無くくるりと一周回った。そして誘うように上目遣いで広介の目を見て言った。
「やっぱり広介のことなんか嫌いだよー」
明里は意地悪な笑みを浮かべてそう言った。小動物のじゃれ合いにも似た、何かとても純粋な感じを与える笑顔だった。
「そっか」
広介は一言そう呟くと、踵を返し、無言のまま、明里のそばから離れて行った。二分もしないうちに、河川敷から広介の存在は消えた。遠くで犬が吠えた。
明里は茫然自失という体で立ち尽くし、その目と頬からは全ての色が失われていた。
広介と明里 風々ふう子 @Fusenkazura5565
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