第14話 運命

 「俺、好きな人ができた」

 「好きな奴ができたんだ」

 何の前触れもなく、二人は同時に告白した。

 「……」

 思わず見詰め合って……どちらも少なからずショックを受けているようだった。

 たまには出かけないかと、是俊は涼を誘い、二人は横浜へ遊びに来ていた。秋の日の、それは穏やかな一日だった。

 「そうか……」

 是俊の低い声が、店内のBGMをぬって聞こえた。涼は、わずかに俯いた。

 偶然立ち寄ったバーで、とりとめもない話をしていた二人。晴天の霹靂はどちらからということもなかった。是俊は、少しだけ視線を落とし、グラスを手の中で揺らした。

 こんなタイミングで、二人同時に切り出すなんて……是俊は下を向いて笑ってしまった。

 「家族って似るって言うけど、案外ほんとかもな」

 是俊の言葉に顔を上げ、涼も微笑した。

 二人に悲壮感はない。ただ、諦めとも寂寥感とも言えない静かな吐息がもれる。

 そうか、と是俊が繰り返した。

 「それで」

 是俊は透明な液体をわずかに飲み下すと、薄暗い照明の中の涼を見つめた。最近、以前よりも生き生きとしていたのは、好きな相手が出来たからだったのかと、ようやく理解した。

 「お前、どうしたいんだ?あ……いや、家のこととか、あるだろ?俺は別にこのままでもかまわないぞ」

 うん、と涼は小さな声で頷き

 「考えたんだけど、俺は、やっぱり出てくべきだと思う。是俊が、好きになったっていう人も、いい気持ちはしないだろうし……別に、誰かと一緒に暮らすつもりじゃないけど、一人暮らしできるくらい、貯金もあるから」

 涼がそこまで考えていたとは、是俊も思わなかった。いつの間にか成長した子を持つ親のような心境で、是俊は、そうかと笑う。

 「に、しても……簡単だな」

 「何が?」

 唐突に是俊は言う。涼はコロナのビンを手に、わずかに首を傾げた。

 「五年だぞ?」

 ああ、と涼。そうだね、と今度は涼が笑った。

 「五年も一緒に暮らして、お互いに好きな奴が出来たから別れるって……薄情だよな」

 是俊は、暗に自分を責めているのか、あるいは慰めているのか……。悲しげではないが、やはり一抹の寂しさは消しきれないようだった。

 「俺は」

 と涼が静かに口を開いた。是俊は、じっと涼を見つめる。

 「むしろ、五年も一緒にいたから……こんなに簡単なんだと思う。俺は、傷ついてないし、是俊だって」

 「ああ」

 それ以上の言葉は皆無だった。

 二人は見つめあい、無言で微笑み、それからそれぞれ飲み物をあけた。

 こんなに簡潔に別れ話が出来るとは、是俊も、それに涼も思っていなかっただろう。お互いが好きになったという相手のことにさえ触れなかった。

 何かが、終わるのかもしれない。是俊は、ふと思った。いや、正確には、そう、思わなくもない。けれど、何かが終わるというより、形が変わるだけのような気もした。これからもずっと、涼とは他人と呼べない関係が続いていくのではないだろうか。

 「是俊」

 「ん?」

 席を立つ時、涼が是俊を呼び止めた。

 「もう帰る?」

 「え?」

 「もう一軒、寄らない?昔、連れてきてくれた店、近くじゃなかったっけ?」

 「ああ。いいぜ」

 こんなに冷静でいられるのは、あるいは二人きりではないからかもしれない。涼は、そのことに是俊より少しだけ早く気付いて……無意識にもこんな時間を引き延ばそうとしているようだった。

 涼は久しぶりに見せる柔らかな微笑を是俊に向け、ゆっくりと席を立った。

 表に出ると、既に冬を予感させる冷たい風が吹いていた。昼の穏やかな暖かさを裏切る十月の夜風。涼は着ていたニットの襟元を片手で押えた。

 清々しいとは言いがたい。

 (当たり前だよな……)

 涼は何を思うのか、少し先を見て、黙々と傍らを歩いている。涼が切り出さなくても、今夜、是俊は別れ話をするつもりでいた。だから、本の少し予定が変わっただけだ。それなのに……理性とは別の場所で、心は揺れている。

 「是俊」

 暗い夜道を歩きながら、涼が是俊に顔を向ける。

 「何だか、寂しいなんて……俺が言ったら、笑う?」

 痛々しいほど澄んだ瞳。昔は、こんな表情の涼をよく見た。辛いことも苦しいことも全部一人で抱え込んで、誰にも迷惑をかけないように生きていた涼。それは、泣くのを必死に我慢している子供のような健気さと悲しさを見る者に与えた。

 「笑うかよ」

 涼の手をそっと握って……是俊は自分自身が悲しくならないように、明るく笑った。

 ずいぶん背が伸びていた。出会ってからずっと、本当にずっと……毎日顔を合わせて、毎日一番傍で見守っていた相手。涼にとって、自分はどんな存在だっただろう。

 こんなにも簡単に別れを決めたのは、あるいは間違いだったかも知れないと、是俊は突然悔恨の念に苛まれた。

 涼も、寂しいと言った。その言葉に、嘘はないだろう。互いに、別の相手を好きになっても、今と何も変わらない。今も、もう……恋愛感情はないのだから。わかっていて、気付かないふりを続けたのは二人だった。

 それでも、今は……やはり、少しだけ苦しい……。

 「寒いな」

 大通りに出て、二人はどちらからともなく手を離した。是俊の呟きに涼は黙って頷き、冷たく澄んだ夜の、小さな月を見上げた。

 静かな夜だった。


 静かな夜だった。如は目を通していた雑誌をテーブルに置いて、冷めたコーヒーを一口だけ飲んだ。

 夕方の出来事を、ずっと思い続けている。

 暗くなっていく、ガラスの向こうの街。

 狭い箱の中で、束の間交わした会話。

 なんだか、ずいぶん昔の、懐かしい思い出のようだった。

 ようやく、好きな人ができました。そう言った自分に、篠吹は笑ってくれた。

 「よかったね」

 温かく深みのある声が、耳に焼き付いている。

 二人きりのエレベーターで、如は思い切って篠吹に打ち明けた。相手が誰ということまでは勿論話さなかったけれど。打算も、なかったといえば嘘になる。何を期待していたのか、如自身にもわからなかった。是俊のことは、本当に好きだと思う。いつもクールで、気障なところも、それでいて、驚くほどの情熱を自分にだけ向けてくれるところも。一人の人間を、慈しみ、大切に育てることのできる、是俊はそういう人間だった。だから、涼の存在があったからこそ、如は、是俊を好きになった。

 自分は、本当に……自分のことしか考えられない人間だと、如は思った。それに引き換え、自分の周囲には優しい人間が多い。是俊も、それに、篠吹も。

 篠吹は、どうしていつもあんなに優しい顔ができるのだろう。自分にはない器の大きさを、如は篠吹に会うたびに痛感する。

 「どんな人?」

 篠吹は興味深そうにそう尋ねた。

 「優しい、人です」

 そんな風にしか答えられなかった自分に、篠吹はそれでも満足げに笑ってくれた。

 「それが一番だ」

 そんな目で……そんな優しい目で、自分を見ないで欲しい。笑いが、歪んでしまわないように、如は少しだけ視線を落とした。

 そうだ、と不意に篠吹が言った。

 「俺も、好きな人ができたよ。初めて飲みに行った時、話したこと、覚えてるかな?」

 はっとした。胸が、きりっと痛んだ。それでも、仮面のような微笑で、ええと応じた自分を、如は嫌った。

 「彼と……何て言えばいいのかな」

 篠吹は珍しく照れたような顔をして

 「今、仲良くさせてもらってる。自分でも、こんなことになるなんて、全く思ってなかったんだ。ただ如くんに話して、何かが変わったっていうか、ふっきれたって気がして」

 そう続けて笑った。

 「よかったですね……」

 他に、何が言えただろう。ありがとうと、応じた篠吹の顔を、最後は正視できなかった。

 エレベーターを下り、会社の正面入り口まで篠吹を見送ると

 「また飲みに行こう」

 そう笑顔で誘われた。

 ええと頷いた自分は、一体どんな顔をしていただろう。不安で潰れそうな胸を如は微笑で覆った。

 「それじゃあ」

 「はい。どうもありがとうございました」

 遠ざかる背中。 

 また記憶のように、篠吹は遠ざかっていく。

 つくづく、縁のない相手なのかもしれない。そう悟って、運命なんて呼べたら、少しは楽になるのだろうか。結局篠吹には二度振られてしまった。

 是俊が傍にいてくれてよかった。何度目になるのかそんなことを思いながら、如は着信を知らせるスマホを手に取った。

 「もしもし」

 「今いいか?」

 「いいよ」

 会社で話せなかった日は業務報告と称して毎晩電話がかかってくる。

 想像もしていなかった是俊の気遣いの細やかさや優しさに如はいつも救われる思いだった。楽しげな是俊の声を聞きながら、如はベッドにもたれて窓の外に目を向けた。澄み切った夜空に一際輝く星が目につく。これも運命だろうかと、如は思った。


 デスクの上で、スマホが震えた。

 そろそろ帰ろうかと思っていたところだったので、篠吹は伸びをし、画面に目をやった。

 メッセージは、涼からだった。

 いつも通り簡潔で短いのだろうなと思うと、自然と表情が緩む。こんなに幸せな時間を持つのは、一体いつ以来だったろう。

 涼は、自分を幸せにしてくる。恋愛にはありがちなことだ。恋を手に入れるまでの本の束の間、誰しもが味わうはずの至福の時間。自分もご多分にもれず、そんな時を手に入れたらしい。

 涼からのメールに目を通した篠吹は少しだけ驚いたような表情を浮かべ、それから心からの笑みを浮かべた。

 『今月中に家を出ます 部屋探さなきゃ』

 涼からのメッセージはいつも短い。それでもその素っ気なさが、涼の不器用さを思わせ、篠吹はさらに愛しさを募らせる。

 篠吹はパソコンの電源を落とし、席を立った。

 涼には、何と返そうか。

 誰もいない事務所を後にし外に出ると、静かな夜が満ちていた。


〈完〉

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バタフライ・モノクローム 西條寺 サイ @SaibySai

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