最終話「あとあじ」
「はあい」
わたしは玄関まで行って、ドアを開けた。
逆光になって立っている背の高いくしゃくしゃの髪の男の人は、わたしのだいすきな声で言った。
「ただいま」
ドアの向こうには昨日死んだおにいちゃんが立っていたので、わたしは思わず「きゃっ」と声を出してしまった。
「驚かしてごめん、芽衣。」
おにいちゃんの表情は逆光でよく見えないけれど、その声を聞くだけで、わたしは天にも昇る気持ちだ。
「おにいちゃん生きていたの?」
「ううん。おにいちゃんは昨日死んだよ。芽衣を悲しませてしまって本当に悪かったと思ってる…。」
おにいちゃんの優しい声はここにあるのに。さっき飲んだ紅茶の味が、すごくつめたくって悲しい。
「じゃあどうしておにいちゃんはここにいるの?」
「芽衣にお別れの挨拶をしに来たんだよ。」
おにいちゃんはそう言うと、しゃがみこんで、そのとき初めてちゃんと顔を見せてくれた。おにいちゃんの白い肌はいつもよりちょっと青っぽいけれど、その笑顔はすごく優しくて、わたしは気が付くと涙をぽろぽろこぼしていた。
「おにいちゃんのばか、おにいちゃんのばか、おにいちゃんのばか…」
「ごめん、芽衣…」
おにいちゃんとわたしは血がつながっていない。おにいちゃんはわたしが三歳のときにわたしのおとうさんとおかあさんに引き取られた。そのときおにいちゃんは十歳だった。
おにいちゃんのおとうさんとおかあさんは、いつもおにいちゃんを殴ったり蹴ったりしていたらしい。だからおにいちゃんは誰にも心を開かない人になってしまった。
わたし以外の人には。
おにいちゃんはわたしを愛していた。わたしもおにいちゃんのことを愛していた。
そして、昨日おにいちゃんが死んだ。
自殺だった。
「わたしだけ残して、一人でいっちゃうなんてひどいよ」
涙はどんどん溢れる。我が家の玄関の床はこんなにつめたかったっけ。
おにいちゃんはなにも言わないで、わたしの頭をぽんぽん撫でた。おにいちゃんの手の感触は、生きているときと何も変わらなかった。まるで、おにいちゃんが死んだというのは嘘だったみたいに。
あたりは薄暗い、夕日の色。
「ごめんね。芽衣にはしあわせになってもらいたかったんだ。おにいちゃんがいない方が、芽衣はしあわせなんだって、気づいたから。」
自分勝手だ。
でも、おにいちゃんが決めたことに怒ることはできなかった。
「わたしも、おにいちゃんに何もしてあげられなくてごめんね…。」
「芽衣が謝ることないんだよ。悪いのは全部おにいちゃんなんだから。」
おにいちゃんは眉毛を八の字にして、困ったときにする笑い方でわたしを見た。
「ねえ、おにいちゃん。最期のときのことを聞きたいな」
「うん、いいよ…」
おにいちゃんは優しい表情をして顔を近づけてくると、わたしの唇につめたい唇をあててきた。
紅茶の味がする。おにいちゃんが、昨日飲んでた紅茶の味。
「おにいちゃんはね、紅茶におくすりをいっぱいいれて死んだんだよ」
「紅茶?」
「そう。最期は甘くておいしいものが飲みたかったから。机の上にあったでしょ?紅茶」
口の中で、さっきの紅茶のキスの味がした。なんだかすごく眠たくなっていることに気が付いた。
「机の上の紅茶なら、さっき飲んだよ。つめたかったけれど、すごく甘くておいしかった。さっきしたキスの味がしたよ。」
わたしがそう言うと、おにいちゃんは急に表情が暗くなって、死んだ魚の目みたいに、百年前のビー玉みたいに、目の光がなくなった。
おにいちゃんはさっき逆光で真っ黒になっていたときとおなじように黒くなって、気が付くと、わたしの全身も真っ黒だった。
「あれは、飲んじゃいけなかったんだよ…。あれは、お前の飲むものじゃないんだよ…。」
「おにい…ちゃん?」
おにいちゃんは真っ黒な姿をして、ぼそぼそとつぶやいた。
夕焼け色の玄関に、黒い影が二つ。
「でも…よかったのかな。これで芽衣とずっと一緒にいられるもんな。」
「おにいちゃんとずっと一緒にいられるの!?」
「うん。これからはずっとずっと一緒だよ。」
真っ黒になったおにいちゃんの表情は見えなかったけれど、笑顔でいるのはちゃんとわかった。
わたしは真っ黒なおにいちゃんに抱きつくと、おにいちゃんも優しくわたしをぎゅうっとした。
リビングの机の上に、紅茶はさびしくつめたく残っていた。
紅茶 はかせ @hakase417
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