007 過ぎ行く方にかへる浪 【東有】
昔、ある男が京都にいるのがつらくなり、東国に赴いたが、伊勢と尾張の間の海面を舟で渡っていると、浪がとても白く立つのを見て、
去って行く方角がとても恋しいのに、そちらのほうへ帰って行く浪がうらやましい。
と詠んだ。
【定家本】
むかしをとこ有けり。京にありわびてあづまにいきけるに、いせおはりのあはひのうみのつらをゆくに、なみのいとしろくたつをみて、
いとゞしく すぎゆく方の 恋しきに うらやましくも かへるなみかな
となんよめりける。
【朱雀院塗籠本】
昔男ありけり。京にありわびて。あづまへゆきけるに。伊勢おはりのあはひの海づらをゆくに。なみのいとしろくたちかへるを見て。おもふ事なきならねば。おとこ。
いとゝしく過行かたの戀しきにうらやましくもかへる浪哉
【真名本】
昔、男ありけり。
と読めりける。
【解説】
『朱雀』「おもふ事なきならねば。おとこ。」後から追加されたか。
第7話が第6話の続きだとすれば、男は女をさらって逃げたが連れ戻されて、傷心のあまり東国へ放浪の旅へ出かけた、と解釈される。おそらくこのように配置されているのは当時からそのような解釈があったからだと思うのだが、たぶん違うと思う。
第6段の続きだと考えれば、ここに出てくる男は、藤原高子に失恋した男と同じだと思うだろう。
業平は確かに53歳で相模国の権守となっているので、実際に、東下りはしたかもしれないが、この年高子は36歳で全然計算が合わない。高子が入内した年、業平は右馬頭になっている。つまりは貴人を身辺警護する武官だが、京都を離れられるわけがない。
第6段と第7段は全然脈絡の無い別の話だと考えてよい。また、この第7段から第15段までは密接な関係がある。『伊勢物語』には京都にいられなくなり、妻を養うにも困って、妻を尼にして東へ下る男の話がいくらも出てくるのだが、私はこの男は紀有常であったろうと考えている。続く第16段はまさにこの有常について語られたものなのである。
紀有常は実際あちこちいろんな地方に赴任している。業平は晩年、藤原氏の有力者である国経や時平との関係も悪くなく、蔵人頭という朝廷の要職にもついている。業平がほんとうに地方に下ったのかどうかも疑わしい。ある程度地位があれば代官を派遣することもできるからだ。
東下りで、東海道筋の伊勢と尾張のあはひと言えば、七里の渡しというのがあり、桑名から熱田までが海路となっている。ここは伊勢湾に長良川、木曽川、揖斐川などの大河が流れ込んでいて、まともな陸路がないためだろう。
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