魔女の通路で「ラスト・シャーマン」を読んだ
私掠船柊
魔女の通路で「ラスト・シャーマン」を読んだ
日差しだけは暖かそうに。
地面の上を冷たい風が、やわらかくそよぎ、茶色の枯れ葉が地面の上を風にまかせて転がっていく。
色とりどり様々な駄菓子が並ぶ一軒の小さな店は、屋根も壁も簡素な造りで、木製のベンチが一つ店先にすえられている。風雨にさらされた名残は痛々しいのに、それは風格を供えたたたずまいにも見えた。
道に重々しく影を描き出している電柱からスズメが一羽、午後の光を受けながら降りてきた。ベンチの周りの地面で何かないかとクチバシでつつきながら跳ねまわる。もう一羽が降りてきたところで、人の影が迫り、スズメたちは驚き急ぎ、空にむかって羽ばたいていった。
中学生のマユミは、ベンチの埃もはらわず、そこに腰かける。口がへの字に曲がっている疲れた顔で、背中にしょっていたリュックを右かたわらに置いた。その反対側に、蓋をあけたミニカップメンと、手の平におさまるくらいのスナック菓子の透明な袋が二つ。
“ラーメン形スナック”と“梅ジャムせんべい”。
大きく口を開けて、あくびしたマユミは、一つにまとめた髪をさりげなくほどいていく。リュックのファスナーに手を伸ばした。空手の白い稽古着と緑色の帯など、影の中へ光が入ったことにより一部分だけ見える。今の目当てはそれにないらしい。彼女はリュックの奥へと手を入れる。束の間、眉間をよじらせた。ようやく引き戻した手に鏡がひかった。
髪を整えたのち、鏡をふたたびリュックへ仕舞う。それに替わって取り出したのはネコ耳のカチューシャ。
マユミは、ネコ耳の先端を指でなぞった後、頭にかぶった。次にリュックから黒いベルベットリボンをつまみ出す。首の後ろで小さな鎖のアジャスターを繋げたとき、首の前に付いている鈴が軽やかに鳴った。
鈴つきの黒いチョーカーは、ネコ耳に合わせたものらしい。
「人生には、やっぱり、これがないと……」
誰もいないところで思わせ振りにつぶやいたマユミは、プラスチックのフォークを手に、小さなカップメンをすすりはじめる。湯気のたつ中をふうふうと息を吹きつつスープも味わう。
一分もたたないうち、ラーメンを堪能する彼女の前へと、黒塗りの靴を履いている細い脚が歩みよってきた。芝居っけのある、しかもとにかく無条件で見ておくれと言わんばかりの、根拠のない威嚇を匂わせた歩み方である。
「……ん?」
不穏な人影に気づいたマユミは、喉で疑問をうなり、口を止めてその人物を仰ぎ見る。
下から上へ、次に上から下へと視線をなめらかに移動して、ふたたびネコ耳少女の視線は、見下してくる顔をじっと見返した。
マユミの正面に立つ女の子は、背中に小さなリュックをしょっている。髪はハーフアップを基本にまとめて、全体が黒い衣装で統一してある。短めのスカートから下に伸びる白い足は、二-ソックスの効果もあいまって、か弱そうに滑らかな輪郭を描いていた。しかし、耳の前にたれている長めの触角に挟まれた顔は、得たいの知れない、もくろみを潜めた冷笑である。切り揃えた前髪は、眉毛を隠しているので、目の形だけが余計に鮮やかだ。左の耳には、赤いサンゴの色でかがやくガラスドームのピアスがさがっている。
マユミが他に目を止めたところは、くびれを強調した細い腰に付けている、赤く幼げなコサージュと金属製のメダル。妖しく輝くメダルの表面は、二つの三角形が一つの頂点を合わせて対称に描かれていた。
衣装の細部にこだわりを見せる彼女の足は、マユミの目の前でしばしの間ピタリと動かない。やがて彼女は口をひらいた。
「ほほう、今日も邪神との修練は終わったのか?」
「オッス、滞りなく。愛華ちゃん。今日は何になってるんすか?」
「われは、第七階級のデーモンを従える復讐の女神、アバドン」
「今日もエンジン全開っすね……」
黒衣の少女がわざわざ低くした声で語るものは、日常の挨拶としては首をかしげたくなるところかもしれない。
それでもマユミは、なごやかな口調を返した。ネコ耳をつけた彼女の視線はまたカップメンに下がり、残っているスープを一口だけすする。そして顔を再びあげた。どこか世話がいもないという機嫌の顔である。
「ちょっくら隣に座ったらどうっすか? 愛華ちゃん」
口ばかりではなく、座ることをうながすために、マユミは右の傍らに置いてあるリュックを自分の反対側へ置き変える。それで行き場のなくなった二袋のスナック菓子を、膝の上に移動させた。
席となる場所をゆずられた黒衣の少女は、マユミに返す表情もなく座についた。
彼女の黒い衣装から、ただよう気配の匂いは、印象が強く残る。残りかたに歪さがあり、日常のどのような場所でも歯車が合いそうもない。
愛華は小さなリュックを背中にかけたままである。機嫌が斜めな表情でマユミを見つめる。
「ふ、そのような物を付けおって……」
意地の悪そうに、マユミの頭と首にある装飾物を指摘した愛華は、一服の間でそれらに視線を注ぐ。それから、唇をマユミの“本当の耳”によせ、息を吹き付けた。
「あう、くすぐったいっす! なにするんすか?」
「ふっ、つまらぬものを頭につけておるからだ」
首をふってくすぐったがるマユミを横目に、愛華は背中のリュックを膝の上に置き、中からネコ耳のカチューシャを取り出した。マユミをうかがいながら頭にかぶる。
耳をほじったマユミは隣の女の子を不思議に見た。
「愛華ちゃん、何で同じネコ耳を?」
「ふふ、感謝してよいぞ、われのささやかな、ご奉仕じゃ」
問われて見下す視点で答えた愛華は、リュックを再び背中にかけた。口を切り結んだが、落ち着かない息は聞こえる。次はマユミのミニカップメンをもつ手元へ視線を投げかける。
「ラーメンか……ところで邪神の下僕よ、まがまがしい闇の力を秘めた原典はすでに読んだか?」
「山田風太郎の小説っすか? まだ、『五輪書』が途中なんで」
「な、なんと、われよりも先にそのような、高度な魔導書を先に読んでいるとは、やはり邪神のしもべだけある」
「魔術とは関係ないっす。武術の本っす。それは誉めてるんすか?」
「それはもちろんのこと、尋ねよう。その本、読んだところで邪神の格闘術とはまた異なるのではないのか?」
「何を言うんすか。歴史に“牛殺し”と名を残すフルコンタクト空手の創始者大山倍達も、宮本武蔵を生涯の師と仰いでいたっす。武道を極めようとする者には、空手であろうと剣術であろうと、その間に垣根はないっす」
「その創始者、何か名言でも残していないか?」
「そうっすね。ある問答集で『空手は柔道より強いのでしょうか?』という質問があった」
「ほう、それで?」
「『強い』と簡潔明瞭に答えた」
黒衣装の少女からいろいろと尋ねられた末、マユミが返した、ただ一言の答えは、期待していた愛華の顔をさみしく固まらせた。ふたたび結んだ口の代わりに鼻から不満を込めたため息がもれる。
「ふーん……」
「なんすか?」
「それは邪神も読んでいるのか?」
「すでに」
「ほほう」
「いつも邪神と言ってるっすけど、カザカ先輩は普通の女子高生っす。空手は確かに強いけど、でも全国には、他にもっと強いのがいくらでもいるっすよ」
「な、なんと、あの邪神よりもさらなる、まがまがしきものがこの世に存在するのか?」
「なんか、相手にしてたら疲れてきたっす……」
愛華のこだわりを持つ話しへ、一つ一つ答えていたマユミの顔に、疲労の歪みが現れてしまった。そのまま、棄てるわけでもなさそうだが、マユミは空になったラーメンのカップを、白い指を歪ませて地面に置いた。
※
二杯目のカップラーメンに、マユミが取りかかったときである。
道の向こうからもう一人、女の子が店の前にいるマユミたちのところへ真っ直ぐに歩いてきた。
花の絽刺しが特徴の手さげバッグを肩にかけ、襟つきの上着はきちんと胸元のボタンを止めている。膝頭が隠れぎみのスカート、長くふわふわとしていて波も描いた髪、その髪の横には、五本のゴールドピンで五芒星を作ってとめてある。愛華とはまた別の手間をかけたまとまりだ。その彼女が上品な笑顔を振り撒きながら手をふってきた。それに応えてマユミが首を向けるなりチョーカーの鈴が呼鈴のごとく鳴る。
「おっすう、マユちゃん、あら、そのネコ耳とチョーカーかわいいわね。今日は日曜だから空手の稽古の帰りかしら?」
「オッス! 翔子さん、ま、とにかく、ここへ」
「あら、愛華ちゃん、元気にしているかしら? 今日は眼帯じゃなくてマユちゃんと同じネコ耳なのね?」
「これはこれは、気高き魔女……いや、翔子どの。いつもお花のように美しく」
「あら、ありがとう。でも、そんな目で見ないで、怖いわ」
「そ、それは気を付けます」
挨拶を交わして出た翔子の高くてしなやかな声は、なぜか愛華の言葉をつかえさせていた。愛華はスカートの裾を神経質に握ったり離したり、それはシワを作ってしまいそうなほどである。加えて左右の靴のかかとが交互に浮いたと思ったらふみなおす。
それはともかく、マユミは左隣に置いたばかりのリュックを膝の上に乗せようとした。つかの間、マユミの眉間に皺がよる。
「ううむ、どこに置こうか……」
スナック菓子との整理の仕方に戸惑い、ついにリュックの行き場は足下の地面となる。それで次に表れた女の子はマユミの左側に座った。
翔子の着こなしから流れてくる香りは、鼻腔に入り、さらに周囲の風景にも溶け込んでいく。見知らぬ人が通りすぎでもしたならば、ふと目を止めたくなるやわらかさである。
翔子は座るなりマユミの左腕に、自分の両の腕をからめて胸まで押し当ててきた。彼女の肩から下がるバッグもぶつかりそうな勢いがあった。
「マユちゃん、ひさかたぶりよね!」
「うん、昨日あってるけど。そのバッグいつもより何か入ってそうっす。お気に入りのコームの他に」
「あら、気づいた? わたしね、いま、編み物しているのよ」
「……ふうーん。どんなのっすか?」
「ふふ、教えない。何を編んでるか当ててごらんなさいよ」
「……彼氏のセーター……」
「は、ず、れ、マユちゃんのマフラーよ。あら、すぐに顔が赤くなっちゃって、照れ屋さんね」
「そ、そんなことないっす……」
「わたしが作るマフラーは嫌かしら?」
「……いや、そんなことないっす……」
「よかった。それなら編み物を続けますわね」
翔子の必要を超えた体の接し方ばかりではないらしい。マユミは頬を赤くしつづける。
おかまいなしな笑顔の翔子は気づいていないが、愛華の不愉快な視線がそそいでいる。
しかし、すでに翔子の関心の目は、マユミのラーメンに向かっていた。
「ね、ね、そのラーメンおいしそうね? わたしも食べてみたいわ。豚骨味はあるのかしら。ええっと……お財布、お財布、マユちゃん、買いに行ってくるから、バッグここに置いておくから見ていてね」
「あ、ならば、翔子どの、われも付き合う」
偶然かどうかは分からないが、求める物で、“両側の二人”は意見が一致し、立ち上がって駄菓子屋の中へ駆け込んでいった。
「バッグは、このままでいいか……二人とも、わたしの後につづかなくても……まあいいっすね」
マユミは一度自由を得たゆるい顔で、なげやりにつぶやいた。
※
ベンチに戻ってきた二人は座る位置もさっきと同じにして、マユミの両側でカップメンをすすりはじめる。
気にしない顔のマユミは、彼女らと調子を合わせたふうに次は“いかラーメン”の菓子袋を開けた。ところが、力の入れ方を間違えたらしく、スナック菓子の小さなビニール袋を、余計なところまでひっちゃぶいてしまった。
「あ! は……しまった」
マユミは片方の眉をよじらせて苦渋の声を震わす。気持ちよく開けた勢いで、危うく細かな中身が飛び散るところだった。
愛華は横目でからかいたがる笑顔がこぼれた。
「邪神の、元気だな、ふふ……」
「愛華ちゃんがそうやって見てくるからっすよ」
あざ笑れて返すマユミは、注意がそれてしまうほどの彼女の目に責任をなすりつけようとした。
二人に挟まれているマユミは、こぼさないようにスナック菓子を注意深くパリポリと食べる。二つ目のかたまりを手のひらに乗せた。口に運んで遠くの景色を気持ちよく眺めた。
「ううむ、このラーメンは、固すぎず柔らかすぎず、歯応えはしっかりと、しかもイカとラーメンの、何人もその存在を否定できない二重奏。絶妙なバランス、食感が最大限に生かされて、まさに職人芸っす」
満ち足りる声をあげたマユミは、三つ目、四つ目と、簡単にプログラムされたロボットのように同じ動作を繰り返す。そして袋の中には粉じょうの残りかす。最後は口を頭上に開けて、その残りかすの全てを袋から口の中へと落下させた。
“ひと作業”を終えた真ん中のネコ耳女の子は、鼻で深く呼吸した。
次にマユミは、行く当てもなくついに足元の地面に置かれてしまっていたリュックへ片手を伸ばした。その中からペットボトルを取り出す。プラスチックのキャップをひねり取り、中にまだ残っているミネラルウォーターを唇にあてがい、喉を鳴らして一口、二口と飲む。
「ぷっふぅー」
最後の仕上げとして、ペットボトルから口を離して息を吹き上げるマユミは、子どもの間で何世代も受け継がれてきた文化を堪能していた。
右隣に座る愛華は、ラーメンをすすり終えるところであった。マユミの食べ方に視線を注いでいるが、興味の方向は違う。
「我のトモガラよ。話はもどるが、本の感想をうかがいたい」
「またその話っすか? 後日に頼むっす」
「愛華ちゃん、マユちゃんに本を貸したの?」
「うむ……」
「愛華ちゃんのイチオシかしら?」
「うむ……、であるからして、トモガラよ聞くがよい、山田風太郎は、忍法を中心に漫画化したり映画になったのもあるのだが、それだけでなくとも」
「……今は『五輪書』が先っす」
本の事にこだわる愛華へうるさそうに答えたマユミは、スナックラーメンの次に、“梅ジャムせんべい”の透き通った袋を手にする。封をやぶって一枚。薄い肌色の一枚に備え付けの梅ジャムを塗りつける。硬いものを軽やかにくだく音がなった。
「うーん、上品なウエハースの甘い香りに、甘酸っぱい梅の香りがからまって口の中で広がり、それがさらに食欲をそそるっす」
梅ジャムせんべいを味わうマユミの左側では翔子が、すでにラーメンを食べ終えてラムネ瓶の形をしたプラスチック製の青い容器の封を破っているところだった。次に栓をはずした。
「わたし、これがとっても好きなのよ」
その駄菓子に思いをのせた翔子は、直径が一センチほどの薄い空色に色づく粒を、一つだけ手のひらに落として口の中へ放り込む。頃合いをみて次にまた一つ。
「うふん、このラムネの清涼感ある味は、ほっぺが落ちそうよ。でもちょっと水分が欲しいわね」
飲み物を求めた翔子へ、マユミは自分のペットボトルを渡す。
「もしよければ、わたしのミネラルウォーターを」
「あら、ありがとう。うん、おいしい、マユちゃんの味がちょっとするわ」
ミネラルウォーターの“付加価値”をもって堪能する翔子を余所に、愛華のほっぺが不快に膨らんでいた。
「聞いておるのか、トモガラよ、武道家として」
「まだ言うんすか? これが答えっす!」
相変わらず興味の延長で同じ事を尋ねてきた愛華に、マユミは怒った顔を一瞬だけ見せた。そしてウエハースの一枚に、濃いピンク色のジャムを塗りつけ、もう一枚ではさみサンドイッチにする。それから愛華に目で合図して渡そうとした。その意志の伝え方が親しげではあるものの、どこか一点、細やかさに欠けてしまう。
だからか、愛華はとまどった目と共に口を尖らせて受け取ろうとしない。
斜めな顔の愛華に翔子は気づいた。
「愛華さん、せっかくのマユちゃんからのお裾分けですよ」
三人の中でもとりわけ服を上品に着こなす翔子は、年下をいさめるような強い口調で愛華に受けとるよう指示する。
戸惑う愛華の手がピクッと震えた。
「な、ならば、翔子どのがそこまですすめるのだから、いただくとしよう」
翔子の指示に従って、梅ジャムせんべいを恐る恐る受け取った愛華は、その肌色の円形をじっくり眺めてからのち、上下の歯でかみはじめた。表情は豹変し、幸せがこぼれたように目が大きくなる。いや、目そのものが零れ落ちてしまいそうである。
「あ、ああ、なんというか、この味わいが……我にとって……」
愛華が一人で喜びにわく、そのわずかの隙間、せんべいのかけらが彼女の黒い衣装にこぼれ落ちてしまった。愛華はあわてて拾い集め、それも口の中へ。
黒衣装の少女が狼狽する様子に、翔子は目で笑う。だがその笑みはすぐに絶えてもう一人へ顔を曇らせた。
「ねえ、マユちゃん、愛華ちゃんの本、全然読んでないの?」
「読んでるっす。一度に三冊渡してきたっす。だから、一冊はもう読んで」
「あら、そうなの? わたしは、いじわるしてるのかと思ってしまったわ。ちょっと不安になったの」
「違うっす。いろいろと読む順番があるっす」
翔子のいささかの気掛かりへ、マユミが小声で釈明を返してみせた。
翔子は二度、三度と首をたてにふったり目を閉じたりした。
髪につけたピンの五芒星が金色にきらめく。
相づちの間に笑顔は別の意味をあらわし、答えを求めて愛華へ視線が移った。
「あらあら? ということは愛華ちゃんは、マユちゃんをただ困らせているのかしら?」
「いやその、翔子どの、そのようなつもりはない」
「どうなの? そうなの? 愛華ちゃん?」
くどくつつく翔子の悪い笑顔は、首が妖怪のように伸びて、愛華の胸に仕舞ってあるものを強引にこじあけそうな雰囲気がある。
「うむ、そうかな、そうではない」
「本当?」
「うむ。ううん……」
翔子から真意をとがめ立てられた愛華は逃げ道なく、ついに縮こまって口を失う。
唇をとがらせたところを翔子は見逃していない。
「そう、それなら、愛華さん、あまり、やかましいのはよくありませんよ」
「は、はい。いや、しかしながら、この者は『五輪書』を読んでいると聞きにおよび」
「ふふふ、高度なものを求めているのかしら? それなら哲学の本でも読んでみたら?」
「『術士アブラメリンの聖なる魔術書』の第一書ならば」
「あら、そう?」
「翔子どのは何を読んでおられるのだ? それによってまがまがしき力をえて、世に偉大なる混沌と破壊をもたらしてくれるのか?」
「……そうねえ……」
「おお、もしや、教科書にちらっとお目見えしたことのある、ニーチェとか? カントとか? ルソーとか?」
「いえ、ホセ・オルテガにカール・シュミットかしらね」
「おお、それはそれは、われのあい知らぬことばかり、言葉もない………くっ。……と思わせたいのだろう。だが、く、く、くっ。かようなもの、われは、ブエルにガアプ、ムールムールをを召喚することにより、所詮は人間の浅知恵の塊でしかない哲学すらせしむることが可能なのじゃ」
「それ、今、そう言いたかったと思いついたっすね? 世間が聞き慣れた中二の病とは一味違うということっすか?」
「ち、違うわい! 我が世に生まれしときからの定めなのじゃ! それが自然に口から出たのじゃ!」
「とにかく、駄菓子屋で休んでいるのに、わざわざその話には興味ないっす」
「あらまあ、マユちゃん、何かもっと言いたそうな顔ね? なぜ? 教えて」
「そういうのは、人をバカにする手段っす。それより、理科を勉強していけば自然に道は見えてくるっす。そうっすね。カール・セーガンはもう読んだっす。ピーター・B・メダワーなんかを読んでみたいっす。あと、寺田寅彦も。いつわりのない真理の道をすすめば、自ずと見えてくるっす。それと、武道で日々の鍛え方を教えてくれるものが欲しいっす。武道を極めることは真理に通じるっす。鍛えぬかれた拳の一撃っす」
「まあ、武道をやっている方は怖いこと、ふふふ。ところで、わたしはこう思うのよ。───」
※
遠くから影が現れる。
会話に勤しむ女の子たち。一吹きの風が、駄菓子屋から離れた道の向こうで、土埃を立たせた。六つの足が、道の真ん中を丁寧とは言いがたい歩みで、駄菓子屋の前へと近づいてきた。他に往来する人はいない。
「おや、あそこに駄菓子屋があるぞ!」
突然、男子の大きな声が飛んできた。マユミたちは声を潜ませて、ちらっとその方向へ首を向ける。
十代前半に見える男の子らが三人、ベンチの女の子たちを目ざとく見つけたふうに笑う。彼らからただよう空気に友好的なものはない。
「へえー、この町のこんな所に駄菓子屋があるのか」
「でもなんか、だっせー」
「ここは俺たちの縄張りにはちょうどいいかも」
「おや、あそこに三人いるぞ」
「へえ、かわいいじゃん」
「女の子ばかりだ」
「あれだよ。百合ってやつじゃない?」
自分達の視点ばかりを口にする三人組は、駄菓子屋へ、十メートル、九メートルと接近していく。
「なあ、おまえら、そこに座りたいからどけよ」
「聞こえないかな~」
「美味そうなの食べてるじゃん、俺たちにも分けてくれよ」
「口移しがいいな」
「ひゃっはー!」
不愉快な奇声をまぜて、次々と品のない言葉を浴びせてきた三人組は、すでに四メートル内の距離となった。
気色を害したマユミの目つきが変わる。
「翔子さん、愛華ちゃん、ここは、わたしにまかせるっす。このワルガキどもを……」
マユミは、体の芯から血が沸き上がる顔で、二人の友をその場に置き立ち上がろうとした。
ところが、マユミの膝に白いやわらかな手がのって彼女の動きを制したのである。
「マユちゃん、ちょっとまって」
手の主は翔子であった。
「すぐに暴力で解決するのはよくないわ。私が話し合いで」
「いや、翔子さんではマズイっす」
「大丈夫よ。そこで待っていなさい」
空手をたしなむマユミの代わりに、翔子はベンチから離れる。すでに二メートルほどまで来た三人組の前へとすすみでた。
翔子の顔に色よい笑みが表れる。
「お三方、なにか、ご用かしら? 私たち、人生のひとときを楽しんでいるところなの。よかったら、一服のお茶とともに仲良くお菓子を食べませんか? もっとも、わたしたちのひとときを巡らす、ささやかな女の子の花園へ、男子の入り込む余地はないかもしれませんけど」
「そこ、どいてくれないかなあ。お嬢様」
何も聞いてないふうの三人組は、翔子を囲んで立つ。
「俺ら疲れてんだよ」
一人が厳めしい顔で翔子をにらんだ。しかし、彼女の表情は穏やかで変わらぬままである。
「お疲れと言っている、あなた、お名前は?」
「俺、鮫橋」
「下のお名前は?」
「えへ? 亮太だけど、俺が気に入ったのかい?」
翔子は、尋ねてすぐに名を明かした男子からの質問には答えない。別の男子の風貌をとらえる。彼女は動物を観察でもしてるかのように見つめた。
「あなた、お名前は?」
「ああ、俺は明石順也」
「おいおい、俺の名前を教えてやるよ。徳川家康。すごいだろ。ぷっ」
「そうなの、あなたは運が良さそうね」
翔子の同じ質問へ、一人はバカにして歴史に出る有名人を名のった。彼女はただ笑みとともに文脈の不明な言葉を告げた。
それがかえって好奇心をくすぐられたらしい。三人も白い歯で返す。
「よく見ると、可愛い顔してるよね?」
「俺の彼女にならない?」
「ねえねえ、今日のパンツは何色?」
一人が、屈んで翔子の下半身を眺める。
「そうそう何色のパンツ?」
「ブラジャーはもうつけてるのかな?」
「あはははっ! 見たいなあ!」
別の一人が翔子の顔を息がかかるほどに覗き込んだ。
「かわいい顔で生意気なこと言うとストーカーしちゃうよ」
「そうそう、おれらに逆らうと怖いぞお」
「おれは、ぺったんこなガキは嫌だな~。巨乳のお姉さんじゃないと」
そして、一人が包囲された少女のスカートをめくった。
「あ、パンツが見えた」
「ふひひひっ! 見えた! 見えたあ!」
「恥ずかしそうにしちゃって、かわいい!」
三人組は一つのまとまった生き物、意思となり、享楽に酔う。
その渦中で、翔子の右眉がピクリとつり上がった。次の瞬間、彼女の顔は白般若のごとく目尻と口の端が吊り上がった。清楚な服装の少女は、地響きを立てて一歩だけ踏み出す。
土煙が爆発したように立ちのぼった。
「こらあ! 何をぬかしとるんじゃ! われ! オモテに出てドつかれたいんかあっ!!」
彼女の大きく裂けて開いた口から発せられる怒声は、大気が真っ二つに割れるように轟いた。
愛くるしくはえ揃っていたはずの歯は、改めて見るとノコギリ状となってギザギザに並んでいる。そのまま首に噛みついて骨ごと肉を引き裂きそうな迫力である。いや、すでに彼女の瞳に写る願望が作り出した光景の中では、三人の人間が無惨に噛みちぎられていた。小鳥のようなかよわさから豹変して、中生代の大型肉食恐竜ティラノサウルスを思わせる容姿となった。
青空に、無数の雲が現れ、濁流のように流れていく。太陽は輝きを失い。大地は屍のごとく不気味な色彩を帯びた。
変身した女の子のほえ声は、男の子たちの身体の芯まで震えさせた。彼女の踏みしめた足元から、地面は稲妻のようにひび割れ、男の子たちの回りに漆黒の影が枝をのばす。裂目が雷の音とともに広がり、にぶく赤く光っている奈落の底が見えた。小石や砂が溶岩の中へ落ちていく。
「ひ! ひいい!」
「ご、ごめんなさい!!」
「こ、殺されるう!」
かすれた悲鳴を上げた男の子たちは、一人が尻餅をつき、他の二人は真っ青になって二歩、三歩と後退りした。本能が先にたち、安上がりなプライドを脱ぎ捨てて、転ぶように来た方角へ走り去った。
「ま、まってくれよー!」
取り残された一人は地べたを必死に這いずった。
身をよじらせる男の子は、背後の気配を感じとり、ひっくり返った眼で翔子のいる方を振り返った。
目の前にある獲物をただ食らうばかりの獰猛な肉食マシーンとなった恐竜は、むきだしの本能にまかせて、首を鎌のように動かす。長い尻尾が波打ち大気をゆらす。鉤爪の巨大な足が一歩、また一歩と音をたてて地面を清めるように踏みしめてきた。
平坦で静かだった地面は、すでに大小無数に割れて、それぞれが無秩序に斜面を作る。
男の子は、すべり台となった一つの急傾斜な地面に死にそうな顔でしがみついていた。だが、裂けた大地の下では、溶岩を淀ませながら、地獄の底が口を大きく開けて子ども一人を引力の作用でもって待ち構えていた。溶岩の熱気で男子の眉毛は焦げそうである。
「ひいい。これはきっと幻覚だ! ……に、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ……でも怖いよ~~!!」
男の子は助けを求めて、混沌とした世界と巨大生物に背を向けて逃げようともがく。だが腰は抜けて足はばたつくだけで思うように働かない。両手は地面の土をかきむしるばかり。初めに笑顔で暴言を吐いていたときをみると、知性はどれほど備えているのかは分からないが、今はただ哺乳動物の本能にまかせて真っ直ぐに逃げようとあがくばかりである。
「ふふふ、何を怖がっているのかしら? ぼうや」
突然、気品に満ちた少女の声が、震えあがく男子の背中にかかった。
声の方向を男の子は、あぶら汗の吹き出た顔で振り返る。巨大な怪物などいない。地面も平らで静かである。
そこには一人の少女が目の前にさりげなく立っているだけだった。
「え? いま、恐竜がそこで暴れていて……」
「あはは、何を訳のわからない事をいってるの?」
「あれ? 俺、どうしたのかな?」
地面に尻を着けたまま不思議な顔で辺りを見回す男の子へ、女の子は、音もなく歩みよる。その右手に細い棒を握っていた。
「ねえ、わたし、編み物が好きなのよね」
「はえ?」
彼女のささやきは、男の子の首をかしげさせる。
忽然と、男子の右目に、わずか数ミリの間隔で尖ったものが突き出された。少女は細い木の棒を水平に握っている。彼女の手首が不用意に震えただけで、棒の先端が、彼の歪んだ心でにごった瞳に穴を開けてしまいそうである。
「この編み棒、お気に入りなの。それで良くみてちょうだいこの先を」
少女の声に従い、男子は恐る恐る編み棒の先端を見つめた。棒を握る指先にも目が移る。女の子の爪は、怒気をふくむ笑みを浮かべた唇と似て、その薄いピンク色はガラスのような冷たい光沢をみせていた。
「うふ、そうよ。これは私専用の特別製で先端をとても鋭くしてあるの。あなたのような不良を見ると、この編み棒でその目玉を串刺しにしてみたくなっちゃうの」
「う、うそだろ?」
「だって、あなた方が始めたのよ。あ、それに、わたしのご機嫌を今さらとろうとしても無駄なことよ。たとえ、あなたが心を入れかえて、これから善人として振る舞い、百の善いことを行ったとしても、私達三人への一回の侮辱は許さないわ。ところで、あそこに私のお友だちが二人いるのだけど、一人は黒魔術の専門家よ。見てわかるわよね? かわいい黒い服の女の子。そうそう分かった? それでいま思い付いたのだけれど、あなたの目玉をいただけないかしら? 私のお友だち、儀式に使いたいらしいの。いけないかしら?」
「や、やだ、やめてくれ」
彼は肩ではげしく呼吸する。少女は冷酷な目で上から直視していた。
うるわしい女の髪の細い一束が、その無情な目顔の中で艶やかに下がる。
「ほら見てみて、彼女、手の平をこちらにかざしているわよ。もう呪文を唱えて、儀式の準備をはじめているのよ。ねえ、お願い、あなたの目玉をちょうだい。できれば舌と心臓も。普通は黒い雌鳥で十分なのだけれど、あなたのような世に害をなすだけのクズは、悪魔の召還に使う生け贄にするしか使い道はないの。ねえ、いいでしょ? 編み棒の先端をよく見てちょうだい。綺麗に尖っているでしょ? だからはじめは痛みを感じないのよ。ううん、少し痛いのを我慢すればいいのだから。ねえ、ちょうだいよ!」
「こ、殺される! 女子こわいよー!! だ、誰か助けて! お、お母さあん!!」
その場にいるはずのない母親に助けを求める男の子の、はいているズボンに液体がしみだしてきた。
声もからして彼は、ようやく立ち上がる。失禁していることも忘れて仲間のあとを追ってよたよたと逃げていった。彼の恐怖感から染みでた体液の匂いだけが空気の中に漂い残っている。
「ふっ……なんて痛ましいことかしら、エヌ・ピー・シーのままでいればよかったのよ……愚民ども」
翔子は三人組が逃げ去った先を見やり、ひと仕事終えたふうに独り言を口に出した。
※
赤サンゴ色のピアスが小刻みに振動している。
「な、なんてことに……なってるんすかね。ねえ、愛華ちゃん。ん、愛華ちゃん?」
「あっ。あわわ! まるでミカエルと闘ったドラゴンのようだ。なんてことじゃ、どうかわれに災いのとばっちりが降りかからないことを願う。ガクガク、ブルブル、アワアワ……」
マユミが心配する隣で、黒い衣装の女の子は、戦々兢々と怯えた声をあげていた。彼女は声に合わせて、自分の顔の前で両の手の平をひろげていた。翔子が今にも男の子を残忍な方法で襲わんとした怒りの余りが、いくつもの小石となって、投げつけてくるのではないかと、恐ろしさのあまり広げた手で防ぐしぐさを取っていた。
マユミも、唖然として成り行きを見ていたのだが、身体は自然体に着座し、何がやってきても対処するべく隙のないたたずまいとしていた。
もちろん、マユミと愛華の前で目に写るものの姿自体は、はじめから変わらぬしなやかな姿の少女である。男の子たちが逃げ去った道も何事も変わっていない。もっとも二人の前で見せたばかりの気迫は、許容をはるかに超えたものであるのかもしれないが。
とにかく、愛華の唇は震えて小刻みな波をうっていた。マユミが彼女の肩を手でささえる。
「ダメっす。愛華ちゃん、ここはあまり怖がりすぎると、すでに収まるところが裏目にでるっす」
「で、できることなら、翼があれば、ここから飛んで逃げていきたい……」
「魔法を使えば、翼を生やすことができるのでは?」
「いや、飛んでみたところで、翔子どのの矢に射ぬかれてしまうわ!」
「それは、実現できるものなら、ぜひとも拝見したいっす」
「バカなことを言うな!」
「いえ、理科を学ぶ者のささやかな探求心っす」
「科学者は冷酷なのだな」
「そう言っておきながら、わたしに近づいてるんすね?」
「好きだから近づいておるのではないぞ。トモガラの知識に興味が少々……あって」
「わたしは、好きで理科を勉強してるだけの中学生っす」
「……邪神の下僕だけに」
「そこへ話がいくんすか? 今、ちょっとこめかみがピクッとなったけど、それで気がすむのならどうぞ。話は戻るけど、愛華ちゃんにとって翔子さんはそれほど恐ろしい人なんすか? とにかくそのビクビクしているのは良くないっす」
「あ、あいわかった」
「初めに見せた威厳ある科白はどこに隠れたんすか?」
「そ、そうだな。われは……」
トゲのある判断をめぐらせたあげく、マユミに諭された愛華は、姿勢をただした上で表情はできる限り平常心に努める。しかし、頬のこわばりは正直に出てしまっていた。
そこへ翔子がすました顔で戻ってきた。お手洗いから事を済ませた足取りにも似ている。ところが、ベンチに腰を下ろしたとたん、あざとく怯えた顔をつくった。
「男って恐いわね。もう少しでわたし襲われるところでしたわ。あら、いやだ、編み棒がもうちょっとで赤色に穢れるところでしたわ。ふむ、汚れていないわね。バッグにしまっておかないと」
たんたんと編み棒をしまう清楚な服装の少女へ、愛華は青い顔のまま唇が動いた。
「な、なんたる邪悪な、翔子どの、まさに血によって支配するルーマニアのクシザシ公。暗黒の誉れ!」
「なにか言ったかしら?」
「愛華ちゃん! 言葉に気を付けるっす」
「ゴホン! 失礼、いま、舌がもつれたのじゃ。一つ尋ねたいことがある。あやつらの怖がり方が異常だったのだが、もしや、幻惑魔法でも使ったのか?」
「なんのことかしら? わたしはただ強く注意しただけですのよ」
「いや、それなら、それで……翔子どのは頼りがいがある」
「あら、褒めているのかしら?」
「もちろん!」
翔子のどこかとぼけた語り口を前に、そうするしかないと思ったのかもしれない。二人は息をピッタリあわせて事なきを得ようと大きな声で称えた。
とは言うものの、翔子の振る舞いを見届けてしまった二人は、借りてきた猫のようだった。
座を共に、四つのネコ耳がそろって立つ。
翔子は、両手を胸のところまで持ち上げ、親指は親指に、人さし指は人さし指にと、左右の指先をそれぞれ合わせて三角形の屋根を作る。細い顎を引いておごそかさを紡ぎだしてみせた。
恐ろしい目にあって怯えているという、わざとらしい姿勢をとる翔子の周辺は、空気が装飾されて淡い色のシャボン玉や小さな星々がきらめく。すでに、男の子たちへ見せた別の鬼気せまる表情は微塵もない。
駄菓子の匂いの間をぬって、花の香りが舞う。
マユミは喉でごくりと唾を飲む。
「翔子さん、一言いいっすか?」
「なんですの?」
「さっきのお言葉、実に凛々しかった、けど、ここは……駄菓子屋のオモテっす」
「あら……」
愛華を戒めたはずのマユミが、自分から思慮なき一言をかけてしまった。わざわざ指摘する必要もない言葉は、翔子とはマユミの反対側に座る愛華を刺激させて、細い足を震わせてしまう。
「どうかされて? 愛華ちゃん、顔色悪いわよ。もうあの三人どこかへ行ってしまいましたのに」
「い、いや、うん、助かった。あらためて、礼をいう」
「礼などいりませんわ。そうね、でも礼を言う代わりに、逃げて行ったあの人達の、爪か毛髪があればなお良いのだけれども、でもこれでいいわね、道に残した足跡があるでしょ? 愛華ちゃん、あなたの魔術で足跡に釘を刺していただけないかしら?」
「そ、それは。あいにく、棺桶の釘は在庫にないもので……」
「あら、それは残念。でも、いいわ、三人のうち、二人の名前は分かったから、愛華ちゃん、あとでお願いしますわね」
「われの魔術により、あやつらへ呪いをかけよというのか? 準備として道具をそろえねばならいし。考えさせてくれないだろうか?」
「無理にとは言わないわ。どちらにせよ、あの三人はもはや、呪詛から逃げ延びることはできないもの。ところで、愛華ちゃんは今日は何の役かしら?」
「え? そ、そうだな。われは………地獄の最高四君主の一人、レビヤタン」
「ルシファーのお友だちということね。どうしたの愛華ちゃん、なにを目をそわそわさせているの? ねえ、マユちゃん、愛華ちゃんまだ震えているのよ」
「う、うん、きっと普段の翔子ちゃんとはまた違う妖しい美しさが見られたからっす」
「あら、それはありがとう。ああ、そうそうお二人さん、今の騒ぎで忘れてしまうところでしたわ。お話しの続き」
「われも思い出した。そろそろ、仲間から譲り受けることになっている羊皮紙とインクの確認をせねば……では」
愛華は、理由を口にするなり、背にかかるリュックのハネスを掴んで立ち上がろうとした。
「まだ、いいじゃないの、愛華ちゃん」
やはり、翔子に呼び止められて愛華の頬がこわばる。
「でも。われは……」
「愛華ちゃん、もしかして、わたしを避けているの?」
「いえ、そんなことは」
「ふふ、わかっているわよ。避けているのでしょう? 顔に書いてあるわ。わたしが恐ろしい魔女だと」
「そ、そんな……」
「翔子さん、愛華ちゃんをそこまで追い詰めなくとも……」
「嘘よ、ウソ。まだしばらくここに座っていなさいな」
「……し、しかり……」
止まった愛華の腰は結局しぶしぶとベンチに収まった。
※
このとき、駄菓子屋の前を通りすぎれば、少女の淀みない独り言がひとつだけ耳に入るかもしれない。
「………。いくつか読んではいるけれど、でもね。マユちゃんの言うとおりかもしれないわね。哲学を基礎から勉強して身につけている人なんて、世の中に、百人のうち一人いれば多いほうよ。自分のそのときの気分に合わせた詭弁を口にして対話の相手を煙にまいたり、別のところでは口のうまい偽者に騙されて、耳に入った気持ちのよい言葉を丸暗記して、自分が大物になったと錯覚している人は山のようにいるけどね。それで、そういう輩に騙されたままついて行って、同じ種類の人間と群れて、変なルールを作って、気づいたら墓場に誘い込まれて戻れないなんていうのが関の山かしら。笑ってしまいますわね。………」
傾聴している二人は、アクビが出かかっている。
愛華はおとなしく、触角となって下がっている自分の髪を指先でもてあそぶ。次はあくびが出そうなところを我慢しながら、スカートの裾にできたシワを直しはじめた。
マユミは、まぶた重く、手を握ったり開いたりして正しい正拳突きのにぎり方を確認したり、稽古で作った“拳ダコ”の肌触りをたしかめていた。
二人ともどこかぎこちない。
合間に見せる翔子の、遠くを平坦に眺めている目とともに、観念をもてあそび続ける内容は、そこはかとなく授業の一片となって眠気を誘い、二人の耳へと流れ落ちていく。
ただ声なく聞き続ける二人に、翔子はやっと気づいて首をかしげた。
「あら、興味ないかしら?」
「……いえいえ」「うん」「勉強になりました」「なったっす……」
哲学の青空講義を中断して尋ねる翔子に、二人のネコ耳女の子は、それぞれの言葉を雑に組み合わせた調子の返事でごまかした。
そのわざとらしさが逆撫でてしまったらしく、翔子は肩をすくめてしまった。
「くどい言い方だったかしら、だってそれが現実よ」
「上級生の翔子さんはいつもながら心が乾いているっす。だからラムネっすか?」
「あら、ちょっとうまいこと言っているように聞こえたわね。ではご褒美に。はい、どうぞ。マユちゃん、ラムネを召し上がれ」
むき出された不満に対して、洒落を返したそのご褒美にと、マユミの手の中へラムネの玉が三粒、涙のように落ちる。
「遠慮しないでマユちゃん。それだと足りないわね、もっと食べる?」
「いや、これで充分っす」
もらったラムネの錠剤を一個、口に放り込んだマユミは、結んだ口の中で噛まずに転がしてみる。
噛んで砕いてまた一つ。
ラムネの瓶を持つ翔子の手は、そのまま次に愛華の前へと伸びていく。
「愛華ちゃんもよかったら。あ、でもどうしようかしら……」
ところが、翔子の手は、すすめかけた途端に迷って、引いた。
愛華は、触角をいじっていた手を止めて受け取ろうとしたところだった。翔子の気まぐれに見えた態度に、気持ちがゆさぶられて目蓋をまばたきする。
傍らにラムネ瓶を置いた翔子は、手がそわそわと、買いそろえた駄菓子の中を何やら探し求めて動く。一つの透明な容器に納められた駄菓子に手が止まった。口の端に笑みをたたえた翔子はビニール袋の封を破って手のひらに置き、愛華の前に差し出した。
「愛華ちゃん、今日はわたしとお話ししてくれた駄賃よ。これ、よかったらどうぞ」
容器の中に、直径四センチほどの茶色いドーナツが四つ並んでいる。
それをすすめられた愛華は一つだけつまんだ。茶色の表面は砂糖がまぶされて細かくきらめいている。翔子の微笑に目を配らせながら上下の歯でくわえた。口の中で奥歯がゆるやかに動き噛み砕いていく。それから愛華に歓喜の表情が生まれた。
「おお! ほのかな芳ばしさが口の中に広がり、なにゆえ、この上品な風味が作られているのか」
「うふ、愛華ちゃん。その顔、かわいい」
愛華の満たされた反応に、翔子は白い歯で応えた。ところが即座に含みを潜ませて口がひらく。
「よければ残りのドーナツもどうぞ。だから本のことだけど、マユちゃんを待ってあげてね。だめかしら?」
「うーむ、これは美味しいからのう……やむを得ぬか」
二つ目のドーナツをほおばる愛華は、耳に入ってきたものが積もって重くなり、首を左、右と交互に傾け軽くしたがる。
それで落着した翔子は、あらためてマユミに身をよせる。しかし、はじめからくっつくほどの隣だから、少しばかりでも腰を浮かせて座り直したものなら、互いの太ももを密着させたと言ってもいい仕草である。その翔子が意中を覗き込むかのような振る舞いで、マユミの顔に眉間をよせてきた。
「あら、マユちゃん、梅ジャムがついているわよ」
行儀のことで注意した翔子は、バッグからハンカチを一枚、それとないしぐさで出して、マユミの口の周りを拭きはじめた。
「あ、おかまいなく。……ふ、っす」
「女の子はいつも綺麗にしていないとね」
顔についた梅ジャムを拭き取ってもらっているマユミに戸惑いの表情が浮かぶ。といっても頬は赤らめているから恥ずかしいことは確かなのだろう。
二人のやりとりを見た愛華は、ドーナツを掴む手を止めて複雑な眼差しとなった。
「邪心の下僕よ。われも喉をうるおしたい」
「ごめん、もう残りはないっす」
「くっ……」
愛華は、ミネラルウォーターを求めたが、マユミの翔子に対するとは違う、取り付く島がない返事に、怒った口の結びでドーナツを咀嚼する。
頭に付けているネコ耳も、どことなく萎れた形にみえた。
※
ハンカチを折り畳んだ翔子は、手を一旦、清らかなしぐさで膝にそろえる。そこで何かを思い出した目を宿した。
「そうそう、本の話といえば、あのね、マユちゃん、わたしのお姉さまが、また小説の本を買ってきたの。勧められたのをわたしも読んだのよ。それで、お姉さまとレモンゼリーを食べながらその物語について話し合ったの」
「ほほう、翔子さんの姉上といえば、二人いるっすね?」
「マユちゃんはしばらく会ってないかしら? 高校生の方の姉よ。それで、そこでボンヤリしていないで、愛華ちゃん! お姉さまによろしく言っておくわね」
マユミへ、本のことについて話を始めた翔子は、姉のことに触れたところで、愛華にそれとなくふった。
愛華の顔が拘束具で自由を失ったように固まる。
「ギクッ!」
愛華は心臓が口から飛び出るような裏返ったうめき声で返してしまった。
翔子も、彼女の顔色が変わった様子に眉をしかめた。
「そんな顔しないの。お姉さまは愛華ちゃんを高く評価しているのよ」
「それは、頭が下がりまする」
「ということで、話を元にもどすと、ね、この本よ」
「……われに、さきほど本で注意したのは、この伏線か? ………」
「何か言ったかしら?」
「いや、何も……」
愛華をなだめすませた翔子は、興味を示しつつあるマユミに、バッグから本を一冊出してみせる。
マユミは翔子の五芒星に組み合わせたゴールドピンをなにげに一瞥していたが、その視線が差し出された本の表紙に移った。
「……ふむ……表紙が綺麗な緑色……」
「みてみて、わたしのお姉さんはこういうの集めるのが好きなの。それですぐにお小遣いがなくなってしまうの。この前も“文学フリマ”へ足を運んで買い集めて、衝動買いが多いのね。わたしからお小遣いは貸さないわよ。だって、キリがないもの」
姉との出来事を甦らせた翔子は、表紙の色に着目したマユミのタイミングに合わせて本を手渡した。
ほとんど二人の身体はくっついているようなものだった。翔子の眼はすぐ近くにあり、呼吸の微妙な変化も、声にかわって意中を伝えてきているように聞こえる。マユミは思わず本を見つめたまま唇をかむ。
片ひじが触れあう拍子に、二人の髪もまつわりそうになる。
すると、手のあいた翔子は、五芒星のゴールドピンを外す。バッグからコームと鏡を取りだし、ふんわりと緩やかに波のかかった髪の片側をすきはじめた。そしてゴールドピンを、決めた位置で星の形にあらためて作り直す。
隣の化粧をちらっと見たマユミも、ネコ耳を痒そうにかいてみた。それから、受け取った本の装丁を疑りぶかげに眺めた。
マユミの手にある一冊の本は、緑色を背景として、白い装束に身をつつむ巫女らしき人物が表紙に描かれていた。
「タイトルはラスト……『ラスト・シャーマン』、立派な装丁っすね。けれど、これ同人本っすか?」
「その言い方はちょっと引っ掛かるわね。同人といったらよく知りもしない人達は薄い本と揶揄するけど、そればかりじゃないのよ」
「そこまでのことは言ってないっす」
「そうかしら?」
「そうでございますっす」
「うふ、なにその返事、かわいらしい」
マユミの、眉根をしかめつつの品定めから発した言葉が、気に入らないと嗜めた翔子。ところが、おどけた返事が来たものだから翔子はどこかくすぐられた笑顔へと誘われる。
微笑む翔子にマユミは調子を合わせない。けれど、その彼女の流れにまかせてページだけはめくり始める。学校の授業で指示されるまま参考書をめくる手つきに似ている。
「それで、どんなお話っすか?」
要点を聞いたマユミは、翔子の微妙な一つ一つの表情が何かを言い含めているのではないかと、横目でチラチラとうかがう。そうしながら、開いた本のページをめくる手が、これから耳に入るかもしれないところでいくつか止まる。
「大昔の日本が舞台っすか?」
「邪馬台国は知っているでしょ?」
「うむ、歴史で習ったけど。卑弥呼が女王さまっすか?」
「そうそう、知ってるじゃない。そこでお行儀よくしてる愛華ちゃんは?」
ふいに翔子から愛華へ質問が飛んだ。
「われは、知らない。古代の日本については」
「あらまあ。歴史で習わなかったの?」
「われは西洋に限る魔術を、そして妖術にも興味があるのだ」
「あ、そうだよね。愛華ちゃんは真面目だものね。ところで、今日は何になっているの?」
「え? あ? ええっと……『失楽園』の半人半魚の悪魔ダゴンだ」
「あら、すごいわ。ラヴクラフトの魔神ダゴン?」
「そうそう」
「元は古代ペリシテの豊穣神ね?」
「そうだな。では、われはそろそろこの辺で……。グリモワールの『ソロモン王の鍵』と『黒い大ガラス』を読み直さねば……それに魔法円の作成方法を……」
「あら、愛華ちゃんは、ひょっとしてもうお疲れかしら?」
「うむ、この前、九日間の準備をもって儀式をとり行ったが。いや、われがマスターではない。……思う通りにはいかなかった」
「それは、残念すね。何の儀式っすか?」
「それは教えられんわ」
「万が一、魔術が実現したら、わたしは理科の勉強をやめて愛華ちゃんの弟子になるっす」
「むむっ。挑発しおって。ああ、思い出した。あと手書き写本の作業もやりとげていなかった。では失礼するぞ」
翔子とマユミから、あれやこれやと尋ねられた愛華は、気まずい空気を身中から発して、帰るためにそろりと腰を浮かせた。
「まだいいでしょう? 愛華ちゃん? 急ぐこともないわ」
「だが、しかし……」
「大方の人間は、気分と妄想を寄せ集めただけの三流オカルト本ですませているのよ。あなたのように真摯に魔術書や魔導書を読んでいる人はそうそういないわよ。だから、ね? 愛華ちゃん」
「ならば、しかり……」
腰を浮かしかけたところで、愛華は翔子の願いに従う。ふたたび、しぶしぶと座につく。
「翔子さん、それ以上、愛華ちゃんの病を刺激しないようにするっす」
「ふふふ、そうね、愛華ちゃん、あとでどんなコレクションを足したのか教えてちょうだいな。悪魔や黒魔術のこともたっぷり聞かせてね。そうそう、例えばね、悪魔アスタロトは、古代フェニキアの女神アスタルテがモデルなんだけど、キリスト教は、他の宗教の神を次々に悪魔へと作り替えてきたのは何故かしらとか。あ、それでなのだけれど、愛華ちゃん。あなたの魔術で一神教の起源を調べてくれないかしら?」
「え、ええっと。われは……」
「翔子さん、話がそれてから長いっす」
「あら、ごめんなさい。マユちゃんに怒られちゃった。魔術に関しては優秀な愛華ちゃん、そこでじっとしていなさいな」
「うん、いや、われはいまだ、根なし草ゆえ」
「あらま、謙遜しちゃって、ふふ」
「もう悪魔ごっこはそこまでにするっす。おなかいっぱいっす」
「そうね、このくらいにしましょうか」
翔子は放浪とした話しの憩いに、またラムネをほおばった。
愛華は所在なさげに地面を見おろす。やはり、我慢できなく、そろりと立ち上がる。
「お二人とも、わたしは、ちょっと店で“干しアンズ”を買ってくる。あれは、水飴とハチミツが絡まってうまい。甘酸っぱくて、初恋の味がする」
「ええ!? 初恋の味っすか?」
「まあ、相手は誰かしら?」
「あ、しまった……いや、ものの例えじゃ!」
二人に問われた愛華は、顔を赤らめた。急いで自分のリュックを背にかけたまま、駄菓子屋の中へ入っていく。このとき、彼女は、金属の光沢がにぶく輝くペンダントを握り、ベンチで緑色の本に話題を注ぐ二人へ、ちらっと嫉妬心をたぎらせた視線を注いだ。
「くっ、二人とも“仲良し結界”でわれを邪険にしおって。……今に見ておれ。く、くっ……」
ついでに聴こえない独り言が出たものの、翔子とマユミはそれに気づかない。
『ラスト・シャーマン』の話題がすすむ。
「………。でね、邪馬台国が舞台で月読という皇子が、壹与という巫女とのめくるめくつむがれる愛。でも動きはじめた古代日本の時代に翻弄され、トルストイの『戦争と平和』をも思わせる、哀しくはかないラブストーリー……」
「好きな登場人物は?」
「お姫様のように美しい月読さまも好きだけど、でもね、わたしは悪そうで本当はやさしい覇夜斗さまにひかれるのよね」
「声はどんな感じっすか?」
「そうね、江戸時代末期、鬼と闘う新撰組のお話があるのよね。想像すると、新撰組の土方さまに似ているかしら?」
「ふむ……」
翔子の火照った口調で、マユミの表情の一片に、くすぐられた好奇心が浮かんできた。
「できることなら、わたし、覇夜斗さまと一緒に映画を観てお食事したいわ。でも、わたし中学生だから、子ども扱いで相手にされないかも。そう思うとちょっと寂しいわ」
「手作りのお弁当はどうっすか?」
「あら、それは良い考えね。覇夜斗さまの好物は何かしら? 蓋を開いたときに、ご飯の上の心を込めたハートが見えても分かるかしら? タコ形のウィンナーは驚かれてしまうかしら? あ、それより、覇夜斗さまの朝食をつくって差し上げるのもいいかも。私がキッチンで朝食を作っていると覇夜斗さまが目を覚ますのね。それで、わたしは驚いてしまって思わず本音の感覚が出てしまうの。大人びた声で『あ、覇夜斗……起きたのね』って彼をせつなそうに見つめるの。でもあっ、いけない。そんな距離の近づいた言葉はいけないわってすぐに気づいて『出雲の国王さま、おはようございます』って改めて中学生らしくかわいい挨拶をするの」
「お腹いっぱいになりそうな願い事っすね。ところで翔子さん、この前のオムライスは、卵がふんわり実においしかったっす。うん? あっ!」
翔子の話を半ば機械的に聞き流していたマユミの、ページをめくる手が、突然に止まった。目は一点を見つめて大きく開いた。本を持つ手は不自然に力がこもっていく。
「あ、この人は?」
「ああ、月読さまね。マユちゃん、何を驚いているの?」
「こ、これは、クリスマス・パーティーのときの、あの人……」
「マユちゃん、顔色が変わったわよ」
「い、いや世間はちょっとばかり狭いかなっと、でもどうやって……」
表情を変えたマユミを翔子はいささか気にかけた。
そのとき、マユミの前に人影が現れ、足音なくたたずむ。禍々しい影も映し出していた。
マユミの正面に立つ女の子は、背中に小さなリュックをしょっている。髪はハーフアップを基本にまとめて、全体が黒い衣装で統一してある。短めのスカートから下に伸びる白い足は、二-ソックスの効果もあいまって、か弱そうに滑らかな輪郭を描いていた。しかし、耳の前にたれている長めの触角に挟まれた顔は、得たいの知れない、もくろみを潜めた冷笑である。切り揃えた前髪は、眉毛を隠しているので、目の形だけが余計に鮮やかだ。左の耳には、赤いサンゴの色でかがやくガラスドームのピアスがさがっている。
マユミが他に目を止めたところは、くびれを強調した細い腰に付けている、赤く幼げなコサージュと金属製のメダル。妖しく輝くメダルの表面は、二つの三角形が一つの頂点を合わせて対称に描かれていた。
ただ初めに会ったときと違うのは、頭にネコ耳、白い細やかな片方の手に駄菓子、もう片方の手は、本を閉じようとしたマユミの手に被せてきた。
彼女は、心のすべてを邪悪なものに売り払ってしまったような笑みをマユミに向ける。
「ふふふ、邪神の下僕よ……」
「え、あ、話に霧中になったもんすから、仲間はずれにしたわけじゃないっす。愛華ちゃんの話も……、え、なんすか? 今聞こえなかったっす。もう一度」
聞き取れなかったマユミが要求すると、駄菓子を手にする黒衣装の少女が、うすく鮮やかな唇を耳によせた。
「命拾いしたくば、……エロエム、エッサイム……我は求め訴えたり……」
突然に現れた愛華のささやきにまず反応したのは、翔子である。
「あら、まあ、うふ」
翔子はふたたび両手を胸の前に持ち上げて、指先をそれぞれ合わせて三角形をつくり、面白がる気持ちを示す。
だが、マユミの顔は翔子とは違ってみるみる血の気が引いていく。それに合わせて、ネコ耳は神経をはりつめたようにピンと立った。
「え? ええ!? にゃに~!?」
女子中学生の悲鳴とも聞こえる裏返った声は、そよいだ冷たい風に乗り、チョーカーの鈴が軽やかな音色を奏でた。
のちに、駄菓子屋のあるこの道は、『魔女の通路』と呼ばれるようになった。
─おわり─
魔女の通路で「ラスト・シャーマン」を読んだ 私掠船柊 @violet-planet
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