四文字の言葉

灯零

四文字の言葉

私には今年で二十になる孫がいる。

同居していた息子夫婦の儲けた男子であり、特に学問に秀でるわけでもなく一度運動をやらせてみれば右に出る者がそれなりに居るような、何処にでも居る平凡な子である。

所詮は青い大学生、口は悪いし反抗的でとても良く出来た孫とは言い難いが、それでも私にとっては何物にも変えられぬ唯一無二の存在であり、なかなかに愛おしく思っている。


彼が幼い頃は、丁度今時分に咲き誇る大輪の向日葵にも負けずとも劣らない純粋無垢な笑顔を浮かべ、入道雲が悠々と聳える真夏の蒼穹の如く澄んだ瞳をまだ見ぬ世界への好奇心で輝かせていた。

常に動いていないと死んでしまうのではないかと思われる程活発な子で、毎日山野を駆け巡っているせいで生傷が絶えず、消費した絆創膏で屑籠には小山ができていた。

少し大きくなり保育園に通い始めると悪知恵が働くようになり、それに有り余る若さと元気が相乗した結果かなりの悪童としてその名を馳せることになった。保育園に迎えに来た私のズボンを下ろす速さたるや韋駄天の如く、人前で何度も私に恥をかかせるその邪知暴虐ぶりにはどこぞの牧人でさえも沈んで行く太陽の十倍の速さで逃げ出してしまうことだろう。


私はよく彼を連れて、否、彼はよく私を振り回して様々な場所へと半ば強制的に赴かせた。彼は老体を労るという事を全く知らなかったが、のどかな田園風景の広がる田舎道を車を走らせ東奔西走した日々は、退職して暇を持て余していた私には丁度良い暇潰しにもなり、彼と過ごす時間は何物にも代え難い幸福なものとなった。

彼とは本当に様々な事をして過ごした。

自然に興味のあった彼を川や野原へ連れて行き釣りや虫取りをしていると、つい私まで父親と過ごした幼き日々を思い出して熱中してしまい、気がつけば日が傾いていることなどざらにあった。

なかなか帰ろうとしない彼を説得するには駄菓子の存在をちらつかせるのが最も効果的であることをこの時に知った。駄菓子はいつの時代でも子ども心を掴んでやまない物なのだ。

紙飛行機の作り方を教えてやった時は、子どもながらに一生懸命折り上げた皺くちゃな紙飛行機で、私の作った紙飛行機とよく飛距離を競ったりしたものだ。

彼は負けず嫌いで正々堂々とした競い合いを好む子だった。よって私が少しでも手を抜いて負けてやろうとすると小さな手で急所あたりに殴打の応酬を受けたが、かといって本気で戦うと私との圧倒的な力量差に不貞腐れてしまうという、非常に面倒なもとい可愛らしい性格の持ち主でもあった。

一度へそを曲げると長いことこの上なかったが、そういう時の為に常にズボンのポケットに飴玉を忍ばせていたので、それを口に含ませてやることで何とか事なきを得ていた。

小学校に上がると持ち前の明るさと社交的な性格から多くの友人が出来たようだった。

入学式では緊張のせいだろうか、いつもの威勢は何処へと思われる程大人しくなっていたが、少しすれば小さな身体に不釣り合いなまだ黒光りする大きいランドセルを背に、一緒に登校する友人達の元へ家を飛び出して行くようになった。

その姿を見送っていた私は、孫が学校でいじめられていないか、勉強には付いて行けているのか、誰かを傷付けたりしていないか、先生に迷惑を掛けていないかと言った具合に心配事や不安が拭えずそわそわと落ち着かなかった。

遠い昔に我が子達を見送っていた妻の気持ちが何と無しに分かった気がした。

子供の成長は実に早いものだか、孫ともなるとそれがより顕著に感じられるようで、彼は瞬きをする間もなく小学校を卒業し、中学、高校と進学していった。高校は、私がかつて教鞭を執った学校だった。

その間に、具体的には中学一年生の頃に、一つ喜ばしいことがあった。彼は私の息子と違い、音楽に興味を示したのだ。私はウクレレやアコースティックギターなど、弦楽器を少々嗜んでいるのだが、どうやら私がギターを弾いている姿が彼の目には新鮮で興味深く映ったようで、私のウクレレを勝手に持ち出しては、私を真似て掻き鳴らしたりしていた。

その姿は実に可愛いらしいもので、コードなんかを教えてやれば、昔の面影が残る本当に楽しそうな笑顔で、そのコードばかりを弾いていたものである。いつしかその笑顔を見るのが、私の楽しみであり喜びになっていた。


しかし、歳を経るに連れて孫の私に対する態度は昔のようなものではなく、どこか余所余所しいものになった。思春期真っ只中であったから、それも仕方のないことだと割り切っていたが、そこに反抗期というものが加わり、なかなかの相乗効果を発揮し始めたのである。

高校生にもなると段々と口が立つようになり、一つ素行を注意すれば十の屁理屈が飛んでくるという始末。

流石の私も堪忍袋の緒が切れるというもので、本気で怒鳴り散らしてしまったこともしばしばあった。そういうことがきっかけで、私と彼は同じ家に住んではいたが、口を聞くことがめっきり減っていった。


そんな矢先の出来事である。身体の異変を感じた私は医者に罹ってみたのだが、その日の内に入院させられることになってしまった。

原因は今や国民病と揶揄されている『悪性新生物』、すなわちガンであった。

病院生活とは全く以て退屈なもので、潤いのないものである。何日か毎に家族が顔を見せに来てくれていたが、彼らが帰ると、殺風景で薬品の匂いのする白い部屋に一人取り残される羽目になる。このときほど孤独を感じたことは無かっただろう。

それから順調に回復し、一度退院こそしたが、再び体調が悪化し、また入院することになった。抗がん剤と薬の副作用で肌も弱くなり、身体も徐々に動かしづらくなって行ったが、意識だけははっきりとしており、私にとってはそれが返って苦痛となった。排便も食事も他人に世話をしてもらわないと何一つ出来なくなって行く自分を見るのは、何とも切ないものであった。


そんな生活を続けて一年と半年、私は医者や看護師に見送られながら再び退院した。

それが、つい昨日の話である。

そして明日は孫の十七歳の誕生日であり、親族一同が皆帰ってくる日でもあるのだ。

この家に親族が全員揃うのはいつ以来だっただろう。

ふと昔日に思いを馳せる。

思えば、今までの人生はなかなか波瀾万丈なものだった。妻と何度離婚の危機に瀕したことだろうか。私のギャンブル癖が高じて何度泣かれたことだろうか。家族にも知人にも沢山の迷惑をかけてしまった。教師という仕事柄、関わって来た生徒は数知れず。その内の一体何人に恨まれていることだろうか。

冷房の効いた部屋で布団に身体を横たえて、そんなことを考えていた。


孫はというと、自力では身体を動かせない私の耳元で、私のウクレレを使って知らない歌を弾き語ってくれている。しかしこう聴いているとなかなか上達したものだ。Fコードに躓いていた者がなかなかどうしてここまで上手くなったものである。

それから何日かは、孫は度々私の耳元でウクレレを弾いてくれた。実に優しい響きだった。


****


それから月日は流れ、孫は今や大学生として私の前に座っている。今日で孫は二十歳だ。

あんなに小さかった子が、今では私より大きく、逞しくなって目の前にいる。それはなかなか感慨深いものだった。

不意に孫が口を開いた。


「あれからもう三年か」


そうか、もうそんなに経ってしまったか。月日が流れるのは本当に早いものである。


「十七の誕生日はじいちゃんのせいでホント最悪だったよ。多分、一生忘れらんない誕生日になる」


すまんな、私もまさかああなるとは思っていなかった。お前達には迷惑を掛けた。


「今まで…その…素直になれなくてごめん。正直に言うと、じいちゃんが日々弱って行く姿を見たくなかったんだ。だから、目を逸らした。お見舞いにも進んでは行こうとしなかった。それに、周りに心配されるのが好きで、悲劇のヒロインぶってたとこもあった。」


何だ、やけにしおらしい。お前らしくないじゃあないか。昔のお前はもっと威勢が良くて張合いがあったぞ。それに、そんなことは別に気にしてはいない。何度か来てくれていたではないか。それだけで十分だったよ。


「本当に後悔してる。最低だったよあの時の俺は」


ほう、後悔か。お前とは一番無縁そうな言葉が出てきたな。


「もっとじいちゃんと過ごしてたらよかった。話を聞いてあげたらよかった。時間が経つにつれてそんなことばっか頭に浮かんできて、あの時の意地張ってた自分をぶん殴ってやりたいくらいだよ。すれ違ってた日々をもう一度やり直したい。ギターのことだって聞きたいし、また釣りにでも行こう。俺の事待っててよ。だから…その…」


「大好きだよ、じいちゃん」


…何だか、少しこそばゆいな。あぁ、待っててやるさ。

何だ、お前も素直になれるんじゃあないか。私も後悔しているよ、お前と同じで意地っ張りだったからな。血は争えないということだ。もっとお前と話したかった。もっとお前と遊んでやりたかった。

しかし、たった四文字の言葉だけでこんなにも満たされるとはなあ。


「あー!…やっと言えた!本当は直接言いたかったんだけどなあ」


彼の表情は、先程の陰鬱なものではなく晴れ晴れとしたものに変わっていた。


「たった四文字の言葉なのに、何で今まで言えなかったのかな」


「タツー。そろそろ出るよー。」

「あ、ばあちゃんだ」

そう言い残して、孫は玄関の方へと駆けて行った。私はそれを、ただ静かに、穏やかに見送った。

「ちゃんとじいちゃんに手合わせた?」

「うん、言いたい事全部言ってやった!」

そんなやり取りが聞こえた後、かなりの大音声で孫が叫んだ。


「じゃあじいちゃん、また帰ってくるから!行ってきます!」



不思議と顔が綻ぶ。

ああ、いつでも帰っておいで。

その時はまた、お前の話を聞かせてくれ。

私もお前のことを-。



私には今年で二十になる孫がいる。

同居していた息子夫婦の儲けた男子であり、特に学問に秀でるわけでもなく一度運動をやらせてみれば右に出る者がそれなりに居るような、何処にでも居る平凡な子である。

所詮は青い大学生、口は悪いし反抗的でとても良く出来た孫とは言い難いが、それでも私にとっては何物にも変えられぬ唯一無二の存在であり、なかなかに愛おしく、いや、心から愛おしく思っている。


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