齟齬
小川しゅう
齟齬
『周りを見て』
駅のコンコース。忙しない人混みの中、ディスプレイに文字だけが映し出されている。
リクルートスーツに身を包んだ青年がふとそれに目を止めて立ち止まり、何気なく視線を辺りに向ける。
時計を見ながら小走りで急ぐ人。壁にもたれ書類に目を通しながら電話で話している人。コーヒーのカップを片手に颯爽と歩く人。
もう一度ディスプレイに目を向けると別の文字が表示されていた。
『ひとりじゃない』
ほんの少しだけ笑みを浮かべ溜息をつく。
そんな時、背後から肩を叩かれた。彼が振り向くと、そこにはくたびれたスーツ姿の男性が笑顔で立っている。
二人は笑顔でその場から遠ざかっていく。
腕時計を確認しながら少し緊張した面持ちの女性。彼女はバッグからスマートフォンを取り出し、画面を見ながら前髪の分け目を気にしている。そして耳に光る真新しいピアスを見て微笑んだ。スマートフォンをバッグにしまい、ふと反対側の壁に取り付けられたディスプレイに目をやる。
『周りを見て』
彼女はなんとなくその言葉に従う。
友達に手を振りながら近寄っていく高校生の女の子。ゆっくりとした足取りで手を繋ぎながら歩く老夫婦。腕を組みながら歩くカップル。
笑みが零れそうになり下を向く彼女に男性が走り寄る。派手ではないが清潔感のある服装の彼は申し訳なさそうに彼女に謝っている。少しだけ怒ったふりをしてから、彼女は笑顔になった。
彼と腕を組んで歩き出すとディスプレイの文字が変わっているのに気が付く。
『ひとりじゃない』
手の中のそれは何の反応も示さない。画面には既読の文字。背格好からして、おそらくは大学生くらいの年齢であろう彼は浮かない表情をしていた。
『周りを見て』
何気なく顔を上げた先のディスプレイにはそう表示されていた。
騒がしい足音、目まぐるしく変わる人の波、神経に触る笑い声。そのどれもが彼に不快感を与え、居心地の悪さを感じさせる。
もう一度スマートフォンを覗く。誰からも連絡はない。手持無沙汰な彼は気まぐれにメールソフトを起動してみる。最近はほとんど使うこともなくなった。受信履歴に並ぶのは『母』の文字。メッセージの問い合わせをしてみるが、新着はなかった。
唇を噛みながらホームに向かって歩き始める。
『ひとりじゃない』
ディスプレイの文字を見つめる彼の目に光はなく虚ろな表情だったが、スマートフォンを握りしめた右手だけが小さく震えていた。
人身事故の影響でごった返していた構内も既に落ち着きを取り戻し、帰宅ラッシュも過ぎた頃、一人のホームレスが人の少なくなったコンコースで座りながらパンを食べている。
『周りを見て』
ぼんやりとディスプレイを眺めていると横から猫の鳴き声が聞こえてきた。そこにはいつの間にか小さな黒猫がちょこんと座っている。
彼はパンの最後の一欠けらを猫の前に置いた。はじめにおいを嗅いでいた猫は安全だと思ったのかそれを口にする。一口で食べるのには少し大きすぎたようで、忙しなく口を動かしている猫の背中をひび割れた手で撫でつける。
少し経ち、腰を叩きながら彼はゆっくりと立ち上がり歩き始める。そしてその少し後を小さな猫がついていく。
猫を見つめて歩く中、もうディスプレイの言葉に関心はなかった。
齟齬 小川しゅう @syu_ogawa
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