セロハンテープ

はぐれっこ

第1話

 たまねぎの匂いがする。

ぼんやりとした思考回路の中でハンバーグやカレーライスを頭に浮かべては煙たくなって消してゆく。誰か電車の中で昼ご飯でも頬張っているのだろうか。昼下がりの電車はすいていて、がたんごとん、というありきたりな効果音と共に視界に入るものや人が同じ方向に傾いていく。私は電車が嫌いだが通学に使うこの路線だけは、高いところを走っていて家々が眼下にのったり過ぎていくところが好きだった。秋晴れ。10月8日。生理を間近に待つ重い腹を抱えた立花梢を乗せた四角い塊は、大学の5限に向かって一直線に走る。乗っている人たちはみな疲れた顔をしていて私のような若者は他におらず、ふと自分のシワ一つない手の甲を見つめる。そうだ。21歳なんて、まだ若い。


ネットで知り合った男と寝ている女子大生はこの狭い島国にどれだけいるのだろう。きっとそれを数えることなんて、赤いスカートを履く女の数を数えることと同じくらい困難だ。ごまんといる。なのになぜ悪いことのように隠す文化がこの国には根付いているのか。現代は若者のSNS依存が取り沙汰され、無知な人間が被害を被る事件も多発していると聞く。きちんと相手を見定めない故にそうなる。私のように自分より立場の低い男を漁っていればそんなリスクも簡単に免れるのだから、やり様だと思う。こんな未来を親世代の人間がかつて同じくらいの年齢だった頃、想像しただろうか。目に見えない相手と指一つで繋がり相手の素性も本名も知らないまま体をまさぐられることの快感を。


「美穂、そんな毎日連絡してんの苦にならないの?」

授業が終わって私が荷物をまとめている間も、もちろんその前の授業中もスマホを食い入るように見つめ凄まじい頻度で文字を打つ隣の友人を見やり、尋ねる。少しふっくらとした体型をしていて恐らく本人もそれを気にしているのだろう、いつもふんわりしたロングスカートをはいている。周囲の他の人達は既に帰り支度を終え、教室にはもう5、6人しか残っていない。

「苦というよりもう寧ろ連絡来ないと何してんの?って苛々するよ」

「返さなきゃいけないのうぜーってならないの?」

「来ないとうぜーってなるよ」

埒が空かないことを知り、会話している間もスマホから目を離さない友人を横目にふぅん、と喉で相槌を打った。

もう5限という拘束から解放されたこの時間、既に外は夜のカーテンを纏っている。特に秋に足を踏み入れたこの時期はぐっと闇が濃くなるような気がする。講義が終わった時に外が暗いとなんだか損をした気持ちになる。一番窓際に座っていた私は、窓から二人肩を並べるといっぱいになってしまうような狭い歩道を私達のようなペアやグループが歩いていくのをなんとなく見やった。大学と言えど都心の真ん中にあるこのキャンパスはさほど広くなく、所謂「夢の大学キャンパスライフ」として誰もが想像するようなあんな場所はここにはない。といっても大学で青春を揚々と過ごすつもりもなかった私にとってはどうでもいいのだけど。強いて言うのなら近くに別の大学が多くあること、新宿渋谷池袋にもすぐに出られるこの立地は、夜に繰り出すには非常にありがたくはあった。

教室を出てエレベーターを待っている間に、漸くスマホから目を離した美穂は唐突に彼氏とのセックスの話を始める。

「でも普通に妊娠とか怖いじゃん。だからあたし手ちゃんと洗ってって言うんだよね」

最近前髪を伸ばし始めた美穂は、少しうざったそうに首を斜めに振る。私と比べてキーの高い声が、誰もいない校舎のホールに響いた。女子大ではセックスの話も生理の話も臆することなくどこでもできるところが割と気に入っている。

「コンドーム付ける時に手洗った方がいいなんて思ったことないな。潔癖じゃねそれ」

「いや潔癖とかじゃないけどさ怖くない?なんかの間違いでさ」

そっかぁ怖いかなぁと小さく呟きながら自分が一番最近寝た男を思う。彼は私を彼女として大切にしていた。私にとって彼は彼氏としても人間としてもそんなに大切ではなかった。格好いい訳でもなく、身長も普通で、まあ東大落ちの慶應生だし頭はよかった。お洒落だし優しいし紳士だしのんびり屋だし一緒にいて楽だし、好きだった、とは思う。でも、それだけ。私は就活も忙しくなるし、やりたいこともあるし、体調が最近あまりよくなくて思いやれる自信がないとかそれらしい理由をでっちあげて彼と会わない自分を選んだ。この貴重な年齢を一人の男に注ぎ続けるほどの熱意も愛情も私にはまだなかった。付き合ってくれと言われずにあのまま日が暮れてからしか会わない関係のままだったら、今頃まだ彼と会っていただろうか。美穂の話を聞きながら左手で器用にゴムをつける姿を思い出す。あの手にもし精子がついていたら妊娠していたのか。なんだか違う世界線での心配のような気がした。

「美穂、彼と結婚すんの?」

美穂はなんか今日ちょっと寒いね、と呟いてから

「うん、したいなぁ。これ逃したらもうできなそうだし」

とさりげない様子を装って言う。でも、女なら分かる。結婚するのかしないのか、したいのかしたくないのか、そこを答えることは女にとって案外勇気と力のいることなのだ。この年齢になると夢物語だけで全てを語るほど無知ではない。

「梢は?こないだ別れた彼、結婚したいとか思わなかったの?」

「思わなかった」

「へぇなんで?」

美穂は、腹の底を疑う余地なく本当になんで?って思っていることが垣間見えるから、好きだ。

「恋愛はしてたいと思うけど、結婚、したくないんだ。男は信用できないから」


男は信用できない、とそれとなく何度も言葉にしてきた。それを聞いた友達のリアクションは様々で、「必ずどこかにその価値観を覆してくれる彼がいるよ」と慰める人もいれば、「分かる、私も~」と本当かどうか怪しい同感をくれる人もいる。男は信用できない。被害者ぶったようなその台詞は、それでも私をここまで守り続けてきてくれた。一人の男に縛られないそれらしい理由にもなるし、一人を謳歌する言い訳にもなる。そうやって上手く立ち回ってきたし、そういう立ち位置でなんら不便せずに生きてきた。私は一人の方が楽だし男で遊んでいる程度の方が性に合っているのだと思う。

最寄りの駅に着いて自転車置き場への道を歩くと、いかに都心と違った環境に自分が住んでいるのかよく分かる。こういう落ち着いた場所の方が好きなのに、夜のネオンの中に馴染んでいると落ち着くのは病気なのだろうか。自転車置き場のおじさんが誰にともなく、でも私以外いないので多分私に「おかえりい~」と間の抜けた声で呼びかける。暗闇で見えないだろうが、口角を意識的に上げて「ただいま」と返した。

人間にはいつかは裏切られるものだと思っているし、裏切られるくらいならば先に裏切った方が幸せなのだというポリシーを、曲げるつもりはない。だったらなんで彼氏を作るのと聞いた友を思う。武装だよ、と思いながら、でも、信じたいんだろうねと他人事のように笑った自分は、どんな顔をしていただろうか。

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