063 虚ろなる祈りの記録者

 この乗り物ヴィークルには、ものを見る機能が備わっていなかった。生まれつき、視力に欠損があったのだ。

 そんな体に収まってみて初めて知ったが、盲目の者は、夢の中でも盲目のままだ。

 それは奇妙な夢だった。

 音、香り、気配、ぬくもり、手触り、そのようなものだけで構成された夢が、夜ごとに立ち現れる。

 盲目の娘が繰り返し見ていた夢は、いつも隣に立っている男のことだ。娘はその男のことを、ヴォルグと呼んでいた。

 頭ひとつぶん高い所からもれる彼の呼気、手袋をはめた指が杖を握りなおすときの衣擦れの音、かすかに感じられる彼の体臭……そのようなものは、目の見える者にとって、気づきもしないような些細な事ばかりだ。

 しかし娘はいつも、渇いた植物が水脈を求めて縦横に根を伸ばすように、とぎすました感覚をはりめぐらせ、そこにいる男の気配をつかみ取ろうとしていた。男のふとした所作が起こした空気の乱れが娘の頬にそよぐと、娘はその熱を帯びた感触をいつまでも憶えており、時折自分のなめらかな頬に指をやっては、何度も飽きもせず思い返していた。

 娘は恋をしていた。

 その想いは、娘に巣くう天使をじわじわと苦しめた。

 娘の体を奪い取ろうと、神経に寄り添い、脳への侵略をすすめるに連れ、娘の胸苦しい恋情が、より克明に押し寄せてくる。娘の手足を我がものとすれば、切なく鼓動する心臓の熱からも逃れようがない。

 男の顔を見てみたいと思うようになるのも、自然な成り行きだった。

 愛しい男に触れてみたいと願う勇気すらない、うぶな盲目の娘が、夢の中であってもいい、間近に彼と対峙すれば、どんなにか恥じらいおののくだろうかという、底意地の悪い期待からのことだ。

 娘の体に乗り換えて以来、暗幕がおりたきりの視界への腹立ちが、限界に達していたのもある。

 見たい、という、本能的な欲求から、天使は逃れられなかった。

 方法はあった。

 至極単純だ。あの男を見たことがある者から、その記憶を奪えばいいだけだ。

 誰でも良かった。目の見える者なら。

 しかし忌々しい戒律がある。天使とはいえ、理由もなく、同胞の記憶を奪い取るわけにはいかない。無闇に記憶を漁ると、脳に悪影響が出るおそれがあるからだ。やむをえぬ事情での忘却処理でもなければ、他人の脳に踏み込むことは許されていない。それは閉じられた城の中の社会を破綻させぬための道義モラルだった。

 だが見たい。なんとしても見たい。ほんの一目でもいい。

 動機を忘れ、天使はただ、その一心に取り憑かれた。

 その男の目と見つめ合って、狂おしく震えるのは娘の心臓なのか、自分の心臓なのか、もはや判然としない。

 そして、その日はやってきた。

 天使会議で、審問会が開かれたのだ。

 議題は、戻ってきたブラン・アムリネスのことだった。けだものの血を引いて生まれた汚らわしい小僧。それがあつかましく僧冠をかぶって、議場に立っているというだけでも怖気が立ったが、評決は評決だ。天使会議はその小僧を天使ブラン・アムリネスと認め、生かしておくことにした。

 あの男がもっともらしい演説を打ったからだ。もうこれ以上、無駄に天使を失うわけにはいかないと。

 小僧を生かしておいて、よくを覚醒させ、なんとしても転生胚を作らせるのだ。そうすれば新たな運搬者ヴィークルにブラン・アムリネスを移し替えることができる。

 理屈は通っているが、現実に可能とは思えなかった。

 小僧の中によくがあることは分かっていたが、それは休眠しているようだった。真冬のさなぎのように固く眠りこんでいる。

 無理もない。よくは神殿種の肉体に寄生しなければ、活性化しないように作られている。その仕様はもっともだ。転生して目覚めてみたら、犬畜生の体に囚われていたなど、あまりにおぞましいではないか。

 だが、ブラン・アムリネスは、人ではないものの体におさまってしまった。

 覚醒させるのは遺伝的に困難なのではないか?

 なにげなく、意見を口にすると、隣に立っている男から、これまで感じたことのない種類の気配が立ち上った。あれは、そう……激怒だ。

 それを感じ取った盲目の娘が、どこか脳裏の奥深くで、身も世もなく狼狽えるのが感じられた。常日頃、願ってやまなかった男の視線を我が身の上に感じ、娘は哀れにも震えていた。

 しばしの息苦しい沈黙を破り、あの男は硬質な無表情によろわれた声で命じてきた。

よくの制御法を、あれの脳に直に教えてやるがいい。お前の専門だろう。ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ」

 命令される筋合いはないという反発は、彼の声の力強さに押し戻され、うやむやに消え去ってしまい、ああ好都合だという己の声が聞こえた。

 小僧は戒律を知らない。言葉も話せない。なにをしても誰も気付くまい。小僧は今も、床の円にそった真向かいの位置に立ち、私の隣にいるあの男を正面に見ているはず。屠殺場に引き出された羊のように。

「兄上のご希望では、仕方がありませんね」

 舌なめずりしたい気分を押し隠して、天使はそっけなく静かに答えた。答えながら、金襴で飾り立てられた重い僧衣の外套を引きはがすと、よく運搬者ヴィークルの背中の皮膚を突き破って性急に現れようとしていた。

 寄生種が体外に姿を現すのは危険をともなうことだった。運搬者ヴィークルの肉体に潜んでこそ、乾燥や飢えから身を守ることができる。

 だが通信の感度をあげるためには、生身を晒すのがもっとも効果的で、より良いのは相手の肉体に進入して接触を試みることだ。

 しかし天使は躊躇した。

 城内で生まれ育った神殿種ならまだしも、不衛生ではないのか。もし未知の雑菌に感染したら、我が身を守りきれるだろうか。恐ろしい。でも。

 見たい。

 一目でも。

 彼の顔を。

 私の隣に立っている、その姿を。

 結論を出したのが自分なのか、それとも盲目の娘か、どちらが寄生されているほうなのか、天使にはわからなかった。

 よくを見るのが初めてなのか、混血の小僧は全身から恐怖を発して逃げだそうとしていた。無茶苦茶に暴れる子供を取り押さえるのは難儀だったが、うつぶせに床に押しつけ、首筋から進入して延髄に触れると、殴りかかろうとしていた腕が制御を失ってぱたりと床に落ちた。神経系を乗っ取ってしまえば、運搬者ヴィークルの体など肉でできた人形のようなものだ。

 混乱と恐怖で激しい電流を放つ脳を探り、天使は視覚の記憶が蓄積されている場所から、求めるものを探し当てた。

 ヴォルグ。

 盲目の運搬者ヴィークルの脳が、急激に発熱した。

 鋭い表情をうかべた灰色の目を。

 彫りの深い顔立ちを。

 純白の手袋に覆われた大きな手を。

 せめて一目と渇望していた一瞬一瞬が、そこには無尽蔵に記憶されていた。

 無関係の記憶をふるい落とし、宝の山を掘り返すような気持ちで、天使はその甘美な記憶を飽かず貪り食った。これまで暗闇だった視界に、鮮やかな光景が蘇る。

 その眩しい光に、運搬者ヴィークルの赤い瞳をした目から、涙があふれた。いや、娘が泣いているのは、それだけが理由ではあるまい。

 子供の記憶のなかにいる長身の天使が、こちらを見つめている。その目は冷たかったが、たとえようもない陶酔が娘の心臓を切なく締め上げる。

 ヴォルグは暗い表情でただじっと子供を見下ろし、静かな声でなにごとか話した。彼がなんと言ったのか、天使にはわからなかった。子供にはヴォルグがなんと言ったのかわからず、それを記憶しておくこともできなかったのだろう。

 ヴォルグは初めて、苛立った表情を見せた。やにわに彼は子供の腕をつかみ、恐れる子供を引きずって、窓のそばまで連れて行った。

 ……ここはどこなのだろう。正神殿の、塔のどれかのようだった。薄暗い部屋の窓は破られており、突風が絶え間なく吹き付けている。

 ヴォルグは逃れようとする子供の首根っこをつかみ、その半身を軽々と窓枠の向こうへと押し出した。枯れた地平線と、いくつもの尖塔や鐘楼が迫ってくるように真下に見える。転落の恐怖が、子供の記憶に、ねっとりと重い脂のように染み付いている。天地のひっくり返る感覚とともに、子供は視界にあるものをとらえ、悲鳴とも怒声ともつかない叫び声を、喉の限りに放った。

 はるか下に見える尖塔の先に、なにか大きなものが引っかかっている。人のように見えた。

 仰向けに両手足をだらりと垂らしたその姿は、壊れた人形のように力なく、奇妙な方向へねじ曲がっている。みぞおちの少し上あたりを、塔の避雷針が刺し貫いており、そのために絶命したものと思われた。おびただしい血が、赤い雨のように、白亜の塔を流れ落ちていくのが見える。

 子供は自分が宙づりになっていることを忘れたかのように、手足をばたつかせ、なにか叫び続けている。ヴィジュレには子供の話す言語は理解できなかったが、翼は言語を越えて、子供が言わんとする概念をつかみ取ってきた。

 父だ。

 父親。保護者。自分を守ってくれる唯一人の存在。それを失ったという事実を、なんとかして受け入れずにおこうと、子供の脳は狂乱していた。父さん父さんと、甘えるように子供は泣き叫び、塔から身を投げ出そうとする。

 力強い腕がそれを引き戻し、石造りの床に子供を転がした。部屋には古びた赤い絨毯が敷き詰められており、それには天秤の意匠が織り込まれていた。天使ブラン・アムリネスの紋章だ。

「あの男はお前の父親ではない」

 ヴォルグは灰色の目に、憎しみとも悲しみともつかない、険しい表情を浮かべ、ともすれば発作的に窓から身を投げようとする子供を押さえ込みながら、翼を使って話しかけてきた。子供は翼通信に恐れをなしたのか、それとも言われたことを否定したかったのか、ただ激しく首を横に振った。

「そんなに死にたければ、後を追って飛び降りてみるがいい。苦しんで死んだ挙げ句にお前は蘇る。お前は神殿種で……天使なのだからな」

 子供が見上げた視界にいるヴォルグは、突風にあおられて僧冠を失い、暗い顔にはすでに死んだもののように悪鬼の表情を浮かべている。

「思い出せ、ブラン・アムリネス。天使の記憶を取り戻すのだ。お前があの男の息子であるはずがない」

 叫ぶ子供を黙らせようとしてか、あるいは無意識にか、ヴォルグは子供の喉頸を締め上げていた。

「お前は、私がルサリアに授けた、私の子……私が、私がお前の父なのだ」

 くびり殺しかけているのに気付いたのか、ヴォルグは不意に子供を自由にした。子供は腰をぬかしたまま、窓辺まで床を這ってヴォルグから逃れた。子供はヴォルグを恐れ、そして憎んでいた。

「お前は天使にならねばならぬ。ほかにお前の生き残る道はないのだ」

 疲れ果てたように、ヴォルグは床に膝をつき、純白の手袋に包まれた両手で、顔を覆った。

「ここで生きるのは簡単ではない。だが私が、守ってやる……お前の母親のぶんまで」

 深い息をつき、ヴォルグはゆっくりと顔をあげた。

 苦しみに曇った、しかし、愛しい者を見つめる目で────

「ヴィジュレ」

 厳しい叱責に似た声で名を呼ばれ、ヴィジュレは我に返った。天使会議が、自分を見下ろしている。

 格闘のため僧衣は乱れ、僧冠は傾き、乱れた髪の間から汗のしずくが流れ落ちようとしていた。脆弱な娘の心臓が、悲鳴を上げ始めている。

 あの目。あの目で、どうしてあの人は、あの目で私を見つめてはくれないの。もしも、ほんの一目、私を愛しく見つめてくれたなら、私はそのために百万回死んでもいいのに。

 ヴィジュレはうめいて、左胸を押さえた。冗談ではなく、嫉妬が娘の心臓を止めそうだった。

「ヴィジュレ、呼吸をさせているか」

 ヴォルグの声が、非難する気配で自分を呼んでいる。

 あいも変わらない、鋼鉄のように無表情な声だ。

 く、とヴィジュレは抑えきれない笑い声を絞り出した。

 守ってやる、か。言われてみれば、そうかもしれぬ。率先して小僧をつものの、結局のところ、首の皮一枚で命をつないでやるのは、いつもこいつじゃなかったか。

 自分の呼吸の音を聞きながら、ヴィジュレは翼を子供の脳から撤退させ、よろめく足で数歩離れた。住み慣れた深い深い忌々しい闇が、ふたたび天使の視界を覆いつくした。

 小僧の神経系に進入してどれくらい経っていたのだろう。五分、十分か、それ以上か。

 延髄から先を遮断しておいて、呼吸中枢の代行をするのを忘れてしまった。

「兄上。私としたことが、うっかりしていましたよ……でもこれで、手間が省けたじゃないですか」

 顔を伝い落ちる、汗とも涙ともつかないものを拭い、天使はこみ上げる笑いをこらえた。なんという姿だ。鼻水を垂らし、惚れた男の一瞥に喘ぐ有様を晒そうとは。

 だが後悔はない。これで娘の腹も決まったろう。男の些細な立ち居振る舞いに心をときめかすのは、しょせん生娘のお遊戯でしかなく、そうして浮かれていたところで、この男が自分を愛するはずがない。彼の愛を受けるのは、塔に閉じこめられ、刺繍針を動かすしか能のないファムたちだ。

「ブラン・アムリネスのよくが生きていれば、蘇生するはず……しないのなら、転生胚を作れる見込みはないということです」

 思わず張り上げた声に、答える者はいなかった。息の詰まるような沈黙だけが、議場を満たす。それが同意を意味しているのか、どうか、知りたくもなかったが、議論したところで無意味なことだけは、はっきりしていた。

 子供はすでに、死んでいるのだから。

「哀れな我らが同胞、ブラン・アムリネスを救うために、してやれる事はひとつだけです。運搬者ヴィークルを殺し、蘇生してきたらまた殺す、そうして翼の覚醒を促してやるしかない。そうでしょう兄上、今ここで話し合うべき問題は、それを一体誰がやるかです」

 自分の声だけが、上ずった笑いに彩られて議場の丸天井にこだまするのを、サフリア・ヴィジュレは聞いた。次にこの沈黙を破るであろう声を、天使は内心舌なめずりして待った。

「……私がやろう」

 すぐ隣で、静かに断言したその声に、ヴィジュレは思わず微笑んだ。ヴォルグの声だった。

 そうだろう。やるがいい。灰色の死の天使ノルティエ・デュアス。それでこそ背負った名に相応しいというもの。

 愛する者を繰り返し手にかける苦痛を舐めるがいい。苦しめてやる。苦しめてやる。私を愛さない、あなたがいけないのよ。

 チッチッ、と微かに金属質な鳴き声のようなものを、ヴィジュレの翼がとらえた。運搬者ヴィークルの死を引き金として目覚めたブラン・アムリネスの翼が、蘇生を開始する気配だった。

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