064 諍う天使
冷たい床の感触を、シュレーは素足の足指で確かめた。
荘厳な白で満たされた大聖堂には、凍るような空気と、大勢の呼気に温められた熱気が、混ざり合わないまま絡み合っている。
大きく背中のあいた戦闘用の僧衣は、展翼するのに都合良く作られていた。普段は幾重にも僧衣に包まれている肌が、今は正神殿の冷気に冷やされ、粟立つようだ。
十四歳になっていた。
自分の年をことさらに数えたことはなかった。
神殿の者たちは、天使の肉体が何歳であるか、気にかけることはなかったし、自分を子供扱いしてくれる者もいなかったからだ。
毎日を這うように生き続け、気づくと今日になっていた。
与えられた戦斧を握り治し、シュレーは自分の冷えた指の動きをはかった。冷気に強ばる肌の下には、汗をかくような熱が籠もり始めていた。
遠巻きに円を描いて、純白の僧衣をまとった正神官たちが、壁のように居並び、こちらを見つめている。あるものは天秤の紋章を、その隣の者は、月と星の紋章を僧冠に帯びている。片方は味方の、もう片方は敵の。あるいは、その全てが敵だった。
同じように戦斧を握り、自分を見下ろして立っているノルティエ・デュアスを、シュレーは見つめた。死の天使の体躯は堂々としており、彼の鋼鉄のような目が見下ろす自分が、まだいかに幼く貧弱であるかを思い知らされる。
体温でぬるんだ床を嫌って、シュレーは半歩横へ足を移した。
それを見つめる死の天使は、微動だにしない。彼は天使の中でも一番の手練れで、その称号に相応しく、これまで数知れない死を与えてきた。哀れな運搬者(ヴィークル)たちに。
子供の敵う相手ではない。シュレーはそれを身をもって知っていた。
沈黙を破って、中性体(ユニ)たちの歌う声が低く響き始めた。天上から聞こえるような混声合唱が、大聖堂をゆっくりと満たしていく。
シュレーにとって、それはいつも葬送の歌だった。聖歌というには、あまりに禍々しく聞こえる。天使の復活を告げ、それを祝う歌だ。
神聖な一族の者たちの目が、あるいは翼が、この大聖堂で行われる儀式を静かに見守っている。聖歌に包まれ、血祭りにあげられる自分を、眺めにやってきた連中だ。
沈黙に焦れて、シュレーは震える熱い息を吐いた。呼気は白く凝って、薄もやのようにシュレーを包んだ。
「ヴォルグ」
向き合った天使に、シュレーは呼びかけた。それは一種の賭だった。
死の天使の中にはふたりの男がいる。
どちらの男も、自分を殺すために追ってくるが、それがヴォルグであればいいとシュレーは思った。
彼なら自分を、一撃で仕留めようとするからだ。
「……ヴォルグ」
戦斧をかまえ、シュレーは上目遣いに見上げたまま、もう一度だけ呼びかけた。
死の天使は無表情にこちらを見下ろした。
「はじめるか、アムリネス」
そう問われて、シュレーの呼吸は速くなった。呼びかけた名に、死の天使は答えなかった。
彼が握る武器の、鋭利に研がれた刃を、シュレーは見上げた。
死ぬものかと、内心に叫ぶ自分の声がこだました。その声は我知らず翼に乗り、大聖堂を埋め尽くす冷たい同胞たちのところへ、届いたかのようだった。
復活を。
聖歌がそれに、声高く答えた。
ただひとつ活路は、目の前にいる死の天使を殺すことだった。
復活の儀式は対戦の形式をとっている。これが戒律に倦んだ一族のための娯楽だからだ。
死ぬ天使は、どちらでも良かった。片方が死ねば、儀式は終わる。ここで死ぬのが自分でなくても、やつらは満足する。日ごろ崇めて手の届かない高みに座らせた天使が、血だまりに転落して悶え死ぬのを見られれば。
「ノルティエ・デュアス」
シュレーがその名で呼びかけると、天使は薄く笑った。
「今日は逃げるな」
犬歯を見せて、戦斧を構え、ノルティエ・デュアスは言った。
その姿は神聖だったが、獣(けだもの)の顔だとシュレーは思った。
刺突にも、撫斬ることもできる戦斧は、死の天使の得意とする武器で、長身の彼がその気で振るえば、一撃でシュレーの手足を断ち落とすこともできた。
避けなければ。
最初の一撃をまとにも食らえば、それで終わりだ。
天使はいつも足を狙ってきた。走れなくなれば、この場で嬲り殺されるだけだ。
床をつかむ足指に力をこめ、シュレーは死の天使の太刀筋を探ろうと、彼の顔を見つめた。
復活を。聖歌が轟きはじめた。
耳を聾するその歌声に、シュレーが気をとられた瞬間、戦いは、唐突に始まった。
床を薙ぐようなノルティエ・デュアスの一撃を、シュレーはよろめいてかわした。
避けきれず、わずかに切っ先を受けた脛から、背後にいた正神官の僧衣に赤い血が散った。痛みを感じる余裕はなかった。
復活を。聖歌が求めた。
のしかかるようなその歌声とともに、シュレーはノルティエ・デュアスの二撃目を戦斧で受け止めた。指が痺れるほどの重さだった。
「戦うつもりか」
争う刃越しに、死の天使は呆れたようにシュレーを見下ろした。重みでこちらが震えていても、むこうは平気で笑っている。
「誰が」
シュレーはうめいて答えた。
勝ち目などあるはずがない、まともに戦ったのでは。
渾身の力で、シュレーはノルティエ・デュアスの刃を脇へいなした。けたたましい音を立てて、戦斧の柄が擦れ合い、舞うように身を翻して、死の天使はシュレーの逃走を許した。
シュレーは武器を捨て、床を打つ戦斧の火花を残して、天使の横を走り抜けた。
正神官たちの幾重もの円陣を抜ければ、赤の塔へ続く通路に至ることができる。
「ご復活を」
押し通ろうと人垣にとりつくと、天秤の紋章を帯びた正神官が呼びかけてきた。
「猊下」
「ご復活を」
彼らはシュレーを阻みはしなかったが、道を空けもしない。白い絹をまとった大人たちの体を、シュレーは押しのけて進まなければならなかった。
のんびりと歩いてくるノルティエ・デュアスの足音が聞こえ、シュレーの呼吸は背後から一撃を浴びる恐怖に乱れ始めた。人垣の奥に、天秤の紋章をつけた大扉が見える。その向こうは赤の塔で、日々知り尽くした道筋が広がっている。
神殿の中に逃げ場などなかったが、見知った道には希望があるような気がした。
裸足の足音を鳴らして、シュレーは扉にたどりついた。
大人の背をはるかに越える大きさの扉を開こうと、体に力をこめると、傷口から足を伝っていた血で足元が滑った。
転びかけながら、シュレーはわずかに開いたその隙間から、塔内へと入り込んだ。
「逃げても無駄だ、足跡がついているぞ」
大聖堂から洩れてきた死の天使の声に、シュレーは走りながら舌打ちした。その通りだった。振り返ると、自分の血を踏んだ足が、白い床の上に点々と赤い足跡を残していた。
遅かれ早かれ簡単に追いつかれるだろう。足跡などなくても、ノルティエ・デュアスはシュレーの翼を走査して居場所を見つけることもできる。こちらには向こうが見えなくても、向こうにはこちらが見えているのだ。
「遊んでいるのか、アムリネス」
それを見せつけるような翼通信が、すぐそばにいるように話しかけてきた。
この城の中では、翼通信はありきたりの通信手段で、神殿種であれば誰でも簡単に使うことができた。天使ともなれば、その精度も高く、城内にいる誰にでも囁きかけることができたし、翼を介して相手の脳に侵入することもできる。
ここには隠しておける秘密などない。少なくとも自分の翼を制御できない者には。
今も、死の天使には、追われる恐怖に乱れるシュレーの心が、手に取るように見えているだろう。
「気が済むまで逃げるがいい。疲れ果てた頃に迎えにいってやろう」
勝ち目はない。塔の階段を駆け上がりながら、シュレーはそのことを反復した。
今まで一度として、逃げおおせたことはない。
それなのになぜ、自分はいつも逃げようとするのだろう。
往生際悪く逃げ回ったところで、やつらを喜ばせるだけ。どうせ殺されるなら、大聖堂で死んでもいいはずだ。結果は同じなのだから。
そう結論づけかける自分の考えを、シュレーは振り払おうとした。
お前は成長している、やつは年老いる。いつか予想もしなかったことが起きて、あの男を返り討ちにしてやることができるかもしれない。
諦めれば、それまでだ。
息を切らして、シュレーは果てしなく思えた螺旋階段を上りきった。最上階にあるのは、いつも寝起きしている自分の居室だった。
見慣れた部屋に駆け込み、シュレーは執務机の引き出しを開いた。そこには短剣を用意してあった。相手は戦斧の大振りで、懐には隙があるはずだ。そこへうまく飛び込めれば、あの白い喉を掻き切ってやれるはず。
「それはいい。やってみせろ」
不意に肉声で呼びかけられて、シュレーは悲鳴を上げた。
いつの間にか部屋にノルティエ・デュアスが立ち、抱くように戦斧を抱えていた。
「お前はなぜリフトを使わないんだ。使えないのか」
執務机ごしに、二人は向き合っていた。戦斧は机をはさんでいても、シュレーの体を薙ぐことのできるところにあった。だが短剣はこのままでは役に立たない。
「ヴォルグ……」
「呼んでも無駄だ」
天使はそう応じたが、シュレーはそれが無駄ではないことを知っていた。
天使の中にはふたりの男がいる。ひとりは目の前にいるこの男、もう一人は、自分のことを息子と信じている別の男だ。
彼は天使の中にいる亡霊のようなものだった。ノルティエ・デュアスの運搬者(ヴィークル)だ。
ヴォルグはシュレーに父だと名乗ったが、そんなはずはない。自分の父は唯一人、ヨアヒム・ティルマンという名の、もう死んだ男だ。
シュレーにとって重要なのは、ヴォルグを呼び出すことだった。呼びかけつづければ、彼は不意に現れることがある。
天使は厳かな足取りで執務机を回ってきた。シュレーはそれと同じ歩調で、天使を見つめたまま、逆に回り込んで距離を保とうとした。そしてシュレーは居室の扉がゆっくりと近づいてくるのを待った。塔の最上階に位置するこの部屋の出口は、そこにしかないからだ。
「誰もが通る道だ、アムリネス。お前だけが逃れられるはずがない」
諭すように、天使は言った。彼は復活の儀式のことを言っているのだった。
神聖神殿の天使は初め、運搬者(ヴィークル)の中で眠っている。それを呼び覚ますためには、運搬者(ヴィークル)に死と蘇りを繰り返させ、識域を明け渡させなければならない。翼(よく)が死んだ肉体の維持を代行する一時の間に、天使は少しずつ運搬者(ヴィークル)から奪っていく。記憶と、意識と、生き続けようとする意欲を。
死ぬものか、と、シュレーは自分に言い聞かせた。
以前は明らかだったその意志も、今では強く自分に言い聞かせねばならないような気がした。識域を全て明け渡して眠れば、もう苦しんで死ぬ必要もない。自分の一生はそこで終わりかもしれないが、それがなんだというのだ。
殺されるといつも、もう目覚めなければいいと祈った。もうこのまま永遠に死んで、蘇らない。恐ろしい目にもあわない。痛みもない。父や母がいったところへ、自分もいくことができる。そのほうがいい。
シュレーは汗で滑りかける短剣の柄を握り直した。
脳裏にいつの間にか、少女の顔が浮かんでいた。
アルミナ。
長い間、手紙の文字でしかなかった彼女のことを、シュレーは思った。
彼女が女(ファム)になったので、と、前触れもなく自分を連れに来た隊列に導かれて、アルミナの部屋を訪れたのは、数ヶ月前だった。
塔の小部屋で、彼女は優しく微笑み、夫である天使を待っていた。
まだ幼かったころに、訳も分からず結婚したときの彼女は、白い布に頭から爪先まですっぽりとくるまれた顔のない娘で、シュレーが憶えていたのは、握り合わせた彼女の小さな手が、心細げに震えていたことだけだ。
だが、あのとき部屋で待っていたのは、それとは全く別の、白い夜着の裾をもじもじと掴んで、控え目にこちらを見ている、華奢だが確かに女の形をした少女だ。
シュレーはそのとき女(ファム)を初めて見た。頼りなげなその姿は、シュレーの胸を締め付けた。
アルミナの大きな緑の目と見つめ合って、シュレーは彼女が待っているのが自分ではないことに、絶望をおぼえた。
猊下、と、手紙ではいつも、彼女は自分に呼びかける。彼女は天使と結婚したのだ。
もし、この汚らわしい運搬者(ヴィークル)が死んでも、彼女は泣かない。夫の転生を祝って、彼女も歌うだろう。
復活を。聖歌が翼を介して押し寄せてきた。皆が歌っている。
死の天使が歩を進め、どこか薄笑いを浮かべて距離を詰めた。それに応じて逃げながら、シュレーは自分の背後に扉があるのを感じた。
死ねば天使と入れ替わる。天使は彼女を抱くだろう。自分のこの腕で。はじめから我がものだったという顔をして。
不公平だ。
自分には、彼女と出会う機会さえないのに。
そう思うと、苦しかった。
逃げれば背中から斬られると、シュレーは思った。
そしてまた死に一歩近づく。
「ヴォルグ」
もう一度だけ、シュレーは呼びかけた。死の天使はおどけるように、首をかしげて見せた。
「私は転生を終えている。呼んでも無駄だ、アムリネス。逃げずにここで始末をつけろ。私を走らせるな」
シュレーは一歩、執務机から退いた。天使はまだ追う気配を見せなかった。
もう一歩、さらに一歩、シュレーは短剣をかまえたまま後ずさった。天使が戦斧を構えるのが見えた。
あと一歩だけ。間合いをはかって、居室の絨毯の床に足をすべらせると、天使が動いた。
それを合図に、シュレーは走り出した。執務机に向かって。
重ねられていた書類を蹴散らして天板に飛び乗り、目の前にいる長身の天使に短剣をふりおろすと、ノルティエ・デュアスは驚いた顔でのけぞり、攻撃を受けようと戦斧を構え直した。
腕が白銀の長柄に防がれ、骨が折れそうな衝撃が返ったが、シュレーは攻撃を止める気はなかった。
短剣の切っ先が、死の天使の鎖骨のそばに埋まり、シュレーの顔に返り血が散った。
あと僅か、シュレーは天使の心臓を狙っていた。持てる限りの力で押し込もうとしたが、そのための機会はほんの一瞬だけだった。
天使は呪詛の声とともに、戦斧でシュレーの体をはじき飛ばした。研ぎ澄まされた刃がシュレーの胸を薙ぎ、肩から一閃する深い傷を与えた。
床に転がりおちながら、シュレーは悲鳴をこらえた。
傷は焼けるように熱かった。止めようもなく血があふれ出てきた。
苦痛に呻きながら這うように立ち上がり、シュレーは扉を目指して走った。
手の中にはまだ、死の天使の血を吸った短剣が握られていた。
「アムリネス」
叫ぶようなノルティエ・デュアスの声が、廊下を走るシュレーの背にも届いた。
傷は痛み、全力で走っているつもりでも、流れ去る通路の景色はどこかゆっくりとしている。喉が渇き、頭が朦朧とした。よろけながら、シュレーは自分が血の足跡を残していた階段に辿り着いた。
下の階へ逃れるしか行く先がない。
ヴォルグ。
言葉にならない声で、シュレーは亡霊に呼びかけた。
心臓をねらえと、あの男は教えた。
戦っても勝ち目はない。逃げ回れ。短剣で心臓をひと突きするだけなら、お前の力でもできる。好機を逃さず、痛みを恐れなければ。
父、ヨアヒム・ティルマンに連れられて、この神殿にやってきてからというもの、ヴォルグは自分にあらゆることを教えた。ここで通じる言葉を教え、神殿の教義を教え、天使らしく見える振る舞い方を教えた。
しかし彼が教えたものの中で、一番役に立ったのは、彼を殺すための方法だった。
武器を握らせ、ヴォルグは自分に戦い方を教えた。
弱い者は、ここでは無限に虐げられる。天使の復活を祈る声で、同胞たちは虐殺を正当化する。自分が殺されるのがいやなら、相手を殺すしかなかった。そうやって身代わりに死んでくれる者を作り、自分はもうすっかり転生を終えたふりをして、難を逃れる。
それがここでの生き方だ。
胸の傷は焼け付き、短剣を握る腕は、ずきずきと痛んだ。それでもシュレーは短剣を手放す気はなかった。自分はまだ生きており、もう一撃与える機会があれば、今度こそやり遂げられるかもしれない。
命を失うのはあの男で、自分は今夜も眠る。
また月が満ちたので。
夜になれば。
彼女の部屋に行くことができる。
乱れた息とともに階段を這い降りながら、シュレーは自分にはもう、そんな機会がないことを知っていた。胸の傷は出血がひどく、放っておいてもこのまま死ぬだろう。
動かずにじっとしているほうが、まだましと思われた。走り回っても、死を引き寄せるだけだ。
どこかに隠れて、失血死すれば、そのほうが楽なのではないかと、シュレーはぼんやりとし始めた頭で考えた。
それはひどく寒いかもしれないが、自分のこれまでの一生で、寒さに震えずにいたことなどあっただろうか。
追ってくる足音が、確実に近づいてくる。自分は死の天使を怒らせた。穏やかな死など与えられないだろう。
どこをどう逃げたか、シュレーには判然としなかった。
ふと見ると、目の前に小さな扉があった。もう走れない気がして、シュレーはその前に膝をついた。
扉を開けて、中で眠ってしまいたかった。
しかし小さな扉には不似合いに大きな錠前がかけられており、シュレーはその扉を開くことができない。
アルミナ、と、シュレーは意識の薄れた頭で、愛しいその名を呼んだ。自分がそれを声に出したか、それさえ分からなかった。
体が重く、シュレーは短剣を握ったままの手を床について、くずおれかける自分を支えた。
彼女と眠る、寝床は温かかった。
神殿の女だ、と自分に言い聞かせてみても、安心したふうに寝息をたてているアルミナの香りは甘く、自分は彼女を抱いて眠りたかった。
死にたくないと思っている自分を、そのとき初めて感じたのだ。
僧衣を赤く染めた血が、汗のように床へ滴り落ちていた。
背後に立った足音の主を、シュレーはゆっくりと仰ぎ見た。
戦斧を提げた死の天使が、氷のような無表情で、そこにいた。
ノルティエ・デュアスの僧衣も、シュレーが与えた傷から流れ出た血で、やはり赤く濡れていた。あと少しだった。悔やむでもなく、シュレーはぼんやりと、そう考えた。
「どうした、もう逃げ場がないか」
静かな声で、死の天使は訊ねた。シュレーは頷いた。ここで行き止まりだった。
「お前の妻に、助けを求めてみたらどうだ」
天使の言葉に、シュレーは笑った。あまりに情けなかったからだ。
どうして無意識にこの袋小路へ逃げたのか。要するにそういうことだった。自分はあの何の力も持っていない少女に、救いを求めてやってきた。女の寝床へ逃げ込んだら、死の天使が見逃してくれるとでも思ったのか。ノルティエ・デュアスはそう言っている。
「ヴォルグ……出てきてくれ。こいつに殺されたくない」
もう立ち上がれない気がしたが、逃げるためには体が動いた。立ち上がった足元がふらついて、シュレーは自分の背より小さい小部屋の扉にもたれかかった。
彼女の部屋の戸を、血で汚してしまったなと、頭の隅でぼんやり考えている自分がいた。そんなふうに、迫る現実から逃避しはじめている意識を感じ、シュレーは無表情に自分を見つめる天使の顔を、観念して見上げた。
「もう死んだのですか、あなたの運搬者(ヴィークル)は」
「そうだ、弟よ」
静かに答えて、死の天使はシュレーの髪を鷲づかみにした。
なにをするつもりか、シュレーには分かっていた。ノルティエ・デュアスは、最後にはいつも同じことをする。
「目障りな耳だ」
硬く冷え切った戦斧の刃が、自分の耳に触れるのをシュレーは感じたが、抵抗する気力がなかった。
どうせいつものこと。そう思ったが、その瞬間には予想外に悲鳴が喉にあふれた。
鋭く研がれた刃が、シュレーの右耳を切り落とした。
とっさに傷口を覆おうとして、シュレーは思わず短剣を取り落とした。
「何故お前のような汚らわしいものが生まれたのか、私には理解できない」
髪を掴んだまま、ノルティエ・デュアスは間近にシュレーの顔をのぞき込んだ。
「なぜ人と獣の間に子が生まれるのだ? お前の母親が、それほどふしだらな淫売だったということか?」
天使は罵っているのではなかった。いつもこの男は同じことを訊ねる。
たぶん、不思議でたまらないのだろう。
父と母は愛し合っていた。たったそれだけのことが、この男には理解できないのだ。
「あなたよりヨアヒム・ティルマンを選んだ母を誇りに思う」
シュレーが答えると、天使は壮絶な微笑を浮かべた。
「頭のおかしい女だったのだ」
「おかしいのは、あなたのほうだ」
教えてやると、天使は唇のはしをあげて笑い、提げていた戦斧の柄でシュレーの顎を殴った。気絶しそうな目眩が襲い、微笑する死の天使の白い犬歯が見えた。
狼のようだと、シュレーは思った。ほんとうは、こいつらこそが獣(けだもの)で、ここは獣の城なのではないか。
死の天使が自分を憎んでいることを、シュレーはいつも感じていた。彼は同胞に乞われれば、どんな天使でも殺した。相手が憎いからではない。それが彼の役目だからだ。
それなのに、自分を追い立てるときの死の天使の顔に、いつも憎しみがあるのをシュレーは感じた。
なぜ憎まれるのか、良く分からない。彼が折々に言うように、自分が大陸の民との混血で、それが汚らわしいからか。
だがいつも、ノルティエ・デュアスは母のことを口にする。彼を裏切り、獣(けだもの)に体を許した女のことを。その息子である自分のことを。
しかし、それを憎むことができるのは、天使でなく、ヴォルグではないのか。母を愛したのは、ヴォルグのほうなのだから。
「惜しかったな、今日は」
喉もとの傷を示して、ノルティエ・デュアスはシュレーを労うように言った。
「お前はなかなか骨がある。いずれは私と互角に戦えるようになるかもしれぬ。お前がそれまで生きていられればだが。シュレー・ライラル」
残った左耳に秘密めかして語りかけ、天使はそこに刃を触れさせた。
「悲鳴をあげろ。やつらが聞きたいのは、結局それだ」
シュレーは歯を食いしばって苦痛に耐えた。
アルミナが聞いているのではないかと思った。
無意味なやせ我慢だった。
どうせ全塔がこの有様を知っている。
シュレーは翼(よく)の制御ができず、喉から洩れる声は殺せても、翼通信が勝手に伝える悲鳴はどうにもできなかった。
僅かな糸筋に群がるように、全塔の翼がからみあい、天使が絶命するまでの断末魔の声を、細大漏らさず舐めつくそうとしていた。
弱い者、抵抗できない者が虐げられても、彼らはまるで意に介さず、その有様を喜んだ。この種族はもう腐りきっていて、先がないのだとシュレーは思った。
神聖な白で装っていても、その中身は手の施しようがないほど腐乱している。この古い城が、崩れずに立っているのが不思議になるほどに。
彼女がその一人ではないといいと、シュレーは願った。もしこの扉を開けて、中を見たとき、あの娘がほくそえみながら自分の悲鳴を聞いていたら、どうすればいいのか。
「苦しいか」
血に染まった戦斧の刃を見せて、ノルティエ・デュアスは訊ねた。
「苦しい……」
朦朧と、しかし正直にシュレーは答えた。虚勢を張ろうという気は、もうしなかった。
「これでお前も少しは人の子らしく見える」
ノルティエ・デュアスは満足げにそう言った。
戦斧の切っ先を、天使が自分の鳩尾(みぞおち)にあてがうのを、シュレーはぼんやりと見た。どうして腹なんだ。どうしていつもこいつは、意地が悪いんだ。
刃が自分を小部屋の扉に縫い止めるのを眺めても、シュレーは聞こえる悲鳴が他人のもののように思えた。耳がよく聞こえないからだろうか。それとも、もう死にかけているのだろうか。
虐殺される自分を、シュレーはどこか別の、体の外側から見下ろしているような気がした。
この城に来てからというもの、そういうことは、よくあった。ひどくつらいことがあると、肉体から抜け出して、自分の身に起こる惨たらしい出来事を、他人事のように外側から見つめている。
痛みは痛みとして、感じているはずだが、それを無視しているのだ。なぜそんなことができるようになったのか。時折考えてみるが、どうでもいいことだった。
そうでもしなければ正気でいられないだろう。
シュレーの足にはもう立っている力がなかったが、腹を貫通した戦斧のせいで、床に倒れることもできなかった。
ハルペグ・オルロイか……と、シュレーはぼんやり考えた。あれは父の弟で、自分の叔父なのだという。
父が長子で、部族の継承者だったというのなら、その長子である自分には、父の部族を継承する権利があるのではないかな。
この獣(けだもの)の城を出て、べつの獣(けだもの)のいる城へ行ってみるのも、いいのではないか。どんなところでも、ここよりひどい場所なんて、あるはずがない。
薄暗い廊下のすみで、膝を抱えてぼんやりと、目の前でゆるゆる殺されていく自分を眺めながら、シュレーはそんなことを考えていた。
父と母が過ごし、母が自分を身ごもった場所へ行ってみるのも、いいのではないか。そこなら、ここより寒くないのではないか。流れ出た血から湯気がたつような、この寒い城よりはずっと、温暖な南の地なのだから。
ノルティエ・デュアスが、床に転がっていた短剣を拾い上げた。
彼がそれを、なにに使うのか、見ているのがつらくなり、シュレーは目を伏せた。
どうでもいいことだ、痛みも、死も。耐えるしかない。ただ黙って、耐えるしかないのだ。
ふと気がつくと、自分の隣にもうひとり、誰かが座っていた。
顔を向けてそちらを見ると、その姿は大人のようにも、子供のようにも見えた。金色の巻き毛をしており、その髪は長かったり短かったりした。泣いているようにも、微笑んでいるようにも見える。シュレーは目を細めて、その顔をよく見ようとした。
「トルレッキオというんです」
囁くような微かな声で、その人物はシュレーに教えた。
「その場所はトルレッキオというんです」
ぼんやりとしているシュレーを諭すように、その声はゆっくりと何度も同じことを言った。
シュレーは首をかしげた。
「あなたはブラン・アムリネスか?」
もうじき死ぬ自分と入れ替わろうとしている天使なのではないかと思ったのだ。
「僕はあなたの友達です」
ぽかんとして、シュレーはそう言う者の顔を見た。
自分には友達などいない。そんなものが、自分にもいたらいいのかもしれないが。
「復活おめでとう、アムリネス」
満足げにそう告げて、死の天使はシュレーの顎をそらせ、まだ無傷だった喉頸をあらわにさせた。血に濡れた短剣を、ノルティエ・デュアスはそこへ押し当てた。それを見て、シュレーは、今日の死の天使は優しいのだなと思った。彼が自分の首を一閃して、とどめを刺したからだった。
血が流れた。とてもたくさん。
「私はもう、あなたと入れ替わらないといけないのか」
横にいる巻き毛の天使に、シュレーは訊ねた。天使は落胆したように力なく、首を横に振ってみせた。
「あなたは誰とも入れ替わる必要なんかありません」
「そうだろうか。では、死ぬまえにもう一度だけ、彼女の顔を見てもいいだろうか」
遠慮しながら訊ねてみたが、天使はしばらく、なにも答えず、ただじっと悲しげにこちらを見ていた。
「トルレッキオへ行きなさい、シュレー。この城を出て」
優しく命じて、天使は立ち上がった。
彼はやはりブラン・アムリネスなのではないかと、シュレーは思った。
じっと佇んでいる不明確な後ろ姿は神々しかったし、立ち去るノルティエ・デュアスの姿を、親しい者のように見送っている。
「そこへ行って、私はなにをすればいいのだろう」
ここへ捨てていかれるのだと思って、シュレーは天使の後ろ姿に呼びかけた。
「それはあなたが自分で決めるのです。したいことをすればいいのです。皆がそうして生きているように」
振り向きもせず、金髪の天使は答えた。
人が、したいことをして生きているとは、シュレーは天使に言われて初めて知った。その事実に呆然としながら、シュレーは立ち去ろうとする天使を、ぽつねんと見送った。
「でも、私には、したいことは何もない」
心細くなって、シュレーは天使を引き留めようと、すがりつくような質問をした。
「さっき言っていた事ではだめなのですか。死ぬ前にもう一度彼女の顔を見たいと、あなたは言いました」
微かに振り向き、天使はどこか厳しい響きのする声で、答えを返した。
アルミナ。
自分の死体がぐったりと架かっている小さな扉を、シュレーは振り返った。
あの扉を開けて、ほんの一目、ちらりと垣間見るだけでもいいのだ。
それが一生をかけるような事なのか。たったそれだけのことに、自分は一生をかけなければいけないのか。
シュレーはうなだれた。
それでもよかった。
彼女が自分のことを愛していて、その隣で毎日眠れたら、そのために死んでもよかった。
「行きなさい」
厳しく促す声で、天使が言い残した。
急激な展翼で、自分の体が扉から引き剥がされるのを感じ、シュレーは乖離していた肉体へと引き戻された。そこは激痛の渦で、戻りたくなかった。
運搬者(ヴィークル)の死により活性化した翼(よく)が、壊滅した肉体を立て直そうと、青白い光を放ちながら、全身を駆けめぐっている。
あまりの苦しみに、シュレーは悲鳴をあげたかったが、自分の肉体はまだ死んでいた。再び呼吸が始まるまで、身悶えることすらできずに、自分の血のなかに頽(くずお)れているしかない。
どこへでも行く、とシュレーは誓った。
この凍えるような闇から抜け出て、温かい場所で眠れるのなら、どんなことでもやってみせる。
小さな風音をたてて、最初の息が吸い込まれた。気道に残されていた血を、シュレーは身をよじって吐いた。たった今、この世に生まれ出たような気がした。
死の布が取り払われ、白熱した視界に、シュレーは顔を覆った。
「どうかしましたか?」
のんきそうな声で問いかけられ、シュレーはすぐ隣を歩いている少年の顔を見下ろした。
長い金色の巻き毛を背中に垂らし、緑色の制服を身につけた姿で、彼は自分と目を合わせながら、どこか踊るような足取りで通路を歩いている。
誰だったろうか。
シュレーはぼんやりとして、歩きながら額に手をやった。
「まだ飛んでますね、鳥」
促されて、窓の外に目を向けると、小さな白い鳥の群れが、矢のような勢いで飛んでいるのが見えた。
ア・ユ・ルヴァン。行って戻るものという意味の名前だ。手紙でアルミナに教えるために調べたその名前を、シュレーは今も憶えていた。彼女の寝室の窓辺に巣をかけたという、あの白い鳥は、もう飛び立ったのだろうか。
アルミナは今、どこにいるのだろう。
自分はいま、どこにいるのだ。
今は、いつだ。あれから何日たったのだ。
ひどい苦痛と疲労の残滓に襲われて、シュレーはまた床にくずおれたい気がした。
終わったのだろうか。復活の儀式は。自分また蘇ったのだろうか。合唱する声は、どこへ消えたのだろうか。
白い鳥のけたたましい囀りだけが耳につき、しきりにアルミナの部屋の扉のことが思い出されてくる。
彼女はいま、誰と眠っているのだろうか。
「レイラス殿下が、食事に来てくれるようになって、本当に嬉しいです」
隣を歩いている少年は、言葉のとおり、本当に嬉しそうに話している。
天使に似ている。シュレーはぼんやりと、そう思い出した。
トルレッキオへ行けと、天使は命じていた。そこから先は、自分で決めろと。
シュレーは自分の耳に手をやって、小さな輪の耳飾りをした耳朶に触れた。耳はそこにあった。
ふと、頭にかかっていた霧が晴れるように、意識がはっきりした。
「シェル・マイオス・エントゥリオ」
きゅうにその名を思い出したことに驚き、シュレーは思わず声に出して呼びかけた。隣を歩いていたシェルが、ぽかんとした。
「なんですか?」
「なんでもない」
渋面になって、シュレーは答え、廊下を歩く足を速めた。
識域がおかしかった。明らかに知っているはずの事柄が思い出せず、抜け落ちている気がする。
復活したせいだ。そういえば最近また死んでいたような気がする。
毒死だった。模擬戦闘の時だ。
シュレーは記憶を確かめるために、ひとつひとつの出来事を注意深く思い返してみた。
自分は一度死んで、翼(よく)に蘇らされた。そのときに、どこかが天使と入れ替わったはずだ。
ブラン・アムリネスは、シュレーの中でいつも完全に沈黙していた。彼が姿を見せるのは、蘇生する間のほんの一時だけだ。
天使はシュレーに記憶を与えることもない代わりに、識域を乗っ取ろうともしていなかった。何度、復活を繰り返しても、天使はただシュレーを死の淵からすくい上げるだけだ。
それでも天使は、どこかで自分と繋がっていなければならないらしい。寄生種なのだから、それもそうだろう。
あの巻き毛の天使が行儀よく身をひそめた場所にある記憶は、いつも失われた。その領域は回を重ねるごとに大きくなっている気がする。蘇った後しばらくは、記憶が錯綜し、意識がとぎれることがあった。天使が身の置き所を決めかねて、のたうっているのだろう。
アルミナの顔を、シュレーは思い出してみた。
静かに微笑んで佇んでいる華奢な彼女の姿は、まだ記憶の中に残されていた。
シュレーはそれに深く安堵した。
それさえ憶えていられるなら、天使がなにを食らおうと、文句はなかった。
「レイラスがどうしたって」
不思議そうに自分を見ているシェルに、シュレーは話を向けた。詮索されたくなかったからだ。
なぜ自分が彼と歩いているのか、まったく思い出せなかったが、たぶん学寮の居室に迎えにきて、自分を他の仲間のところへ連れて行こうというのだろう。外は朝のようだし、朝食に行くのかもしれなかった。
「え。だから、レイラス殿下が僕をごはんに迎えに来てくれたんですよ。なんだか、にこにこしてて、今まで意地悪だったのが嘘みたいなんですよ。僕を迎えに来たのは、猊下がそうしろって言うから、って殿下は話してました」
説明して、シェルは感謝しているふうな顔を、シュレーのほうに向けた。
まったく記憶にない話だった。
シュレーは淡く微笑み返してやった。
「それはよかった」
たどり着いた食堂の扉に、シェルはうれしそうに飛びついて、重たそうに開いた。
中には、黒い床が広がっており、いくつもある食卓の一番奥の席に、制服を着た二人連れが座っていた。
シェルは楽しげな早足で、彼らのほうへ近づいていき、料理の並べられた食卓についた。
椅子は四つあった。
シュレーはゆっくりとシェルを追い、食卓のそばに立った。
猫のような目をした、ひどく綺麗な黒髪の少年が、じっと物言いたげに自分を見上げた。
シュレーは何も答えず、ただその視線を受け止め、彼の顔が帯びている獣の相を眺めた。美しいが、それは獣の顔だった。
「人に使いっ走りをさせといて、自分は寝坊かい。さすがに猊下はいいご身分だね」
憎まれ口をきく彼を、シュレーは見下ろした。
「おはようレイラス」
「シュレー、お前まだ具合が悪いんじゃないのか」
向かいの席に座っていた、浅黒い肌の少年が、青い目でこちらを見て、心配げに言った。
ずいぶん優しい獣だな。
「もうなんともない」
シュレーは彼に、笑って嘘をついた。
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