062 受胎告知

 ひどく胸苦しい夢から、アルミナは目覚めた。

 手足がしびれ、頭の芯にはまだ鈍い痛みが脈打つように残っていたが、なにより苦痛だったのは、ひりつく喉の渇きだった。

 アルミナはあえぐような息をつき、そして咳き込んだ。

 薄暗い小部屋の寝台で、すぐそばについていた誰かが、アルミナの背を優しく起こし、口元に水の入った器をあてがってくれた。

 アルミナは、むさぼるようにそれを飲み、また咳き込んだ。壁のくぼみに置かれていた燭台の、火影が揺れた。

「……オルハ」

 涙ぐみ、かすんだ目のまま、アルミナは自分を助け起こしてくれた温かな腕によりすがった。白い袖に包まれた柔らかな腕に額をすり寄せて甘えると、ほの甘い肌のにおいがして、アルミナをほっとさせた。

「お腹が空いてはいませんか? もうお昼ですよ」

 髪を撫でるように、頭のうえに置かれた手に、アルミナははっとして目を開いた。問いかけてきた声は、アルミナが期待したものとは違っていた。

 がばっと身を起こし、アルミナは自分の脇に座っている白い衣の人物をあわてて見つめ直した。アイネだった。灯火ひとつの小さな部屋の中で、彼女の胸の赤い百合の刺繍だけが、鮮やかに浮かび上がって見えた。

「ア……アイネ様」

 無礼をわびようとしたアルミナの舌は、まだ眠っているようで、うまく言葉をつむげなかった。

「あなたがあまりにお苦しみだったので、白の塔へお返しするかと皆で話していたところでした」

 やんわりと微笑み、アイネは水差しから白い陶器の杯に水をもういちど満たして、アルミナに差し出した。アルミナは素直にそれを受け取り、こんどはゆっくりと飲んだ。

「オルハとは、誰ですか」

 椅子に腰かけた膝の上で、アイネは両手を長い袖のなかに隠した。姿勢をぴんと正して、かすかにうつむき、両手を袖の中で組み合わせる。ファムらしい美しい座り姿だった。

 しかしアイネの緑の瞳はきらきらと楽しげに輝き、アルミナの顔を見つめていた。ファムはみだりに微笑んではいけないのではなかったかしら。アルミナはそう思い返し、いつもうるさく小言を言っていた声を思い出した。

 オルハ……。

 自分の身近で、せわしなく立ち働き、ものを食べさせ、ふとんを着せかけてくれた。お腹が痛くなると、決まって擦り寄りたくなる相手だった。

 だが、アルミナには、それが誰なのか、わからなかった。

 もつれた糸のように、混乱している自分の記憶を、アルミナは切なく思った。

「オルハは……たぶん、わたくしの大切な人です」

「大切な人?」

 アイネは面白そうに、そう繰り返した。

「はい。……思い出せたので」

「そう」

 やんわりとうなずくアイネは、また優しい微笑みを浮かべていた。

「あなたは、思い出してはならない事を、思い出そうとなさっているのではないかしら?」

 困ったような、しかし、どこか楽しげでもあるアイネの口調に、アルミナは少し驚いた。

「忘れてしまえば、苦痛はないのですよ」

 事情を知っているふうな、アイネのたしなめぶりに、アルミナはなんと答えるべきなのか分からず、ただ薄く唇を開いただけで、黙り込んだ。

 しばらくの沈黙の間、アイネはずっと、急かすでもなく、やわらかな微笑を浮かべたままだった。

「この房に、あなたがいらした時、あなたは寝台に眠っていらして、下級神官が付き添っていました。……枕を持ってね」

 枕デゴザイマスヨ。

 夜ごとの悪夢にあらわれた、枕を持った神官の、青黒く疲れ果てた顔が、アルミナの脳裏によみがえった。

 オルハ……!

「グロリア様は、よその房からの持ち物を入れるのを、とても厭がっておいでだったけれど、その神官が、あなたはその枕でなければ眠れないのだと、あまりに強く言うものですから、結局こちらが折れたのです。白の塔の天使様も、あなたの健康のために必要だと、特別に許可なさったというのですもの……」

 くすり、とアイネはいかにも楽しそうに、かすかな笑い声をもらした。

「おかしな話ですわね。だってあなたは、あの時も、今も、あれとは別の枕で眠っておいでだったでしょう」

 手紙を届けるためだったのだ。

 オルハが最後にしてくれたことは、あの手紙の束を、アルミナの手元に残すことだった。

 アルミナはなぜか、自分の冷え切った指先が、ふとんの上で震え始めるのを感じた。

 枕の夢は、毎晩のように見た。その中にある手紙を見つけた夜までは、ずっと。夢の中にあらわれたオルハは、いやな臭いのする息をして、今にも倒れそうな様子だった。

 ──夢も、それきりでした。

 唐突に、エルシオネの打ち明け話が思い起こされた。

 ──最後の夜に、あの方はやっと楽になられて……夢も、それきりでした。

 アルミナの心臓は、どきどきと嫌な鼓動を打ち始めた。

「アイネ様、オルハは……その枕を届けた神官は、今どこにいるのでしょうか」

「わたくしには、わかりませんわ」

「どうすれば探せるのでしょうか」

「探し出して、どうするのですか?」

 柔和な声で、きっぱりと容赦のない返事を、アイネは返した。

 アルミナは絶句した。

「わたくしたちファムが、雑居房の外に出られるのは、礼拝の時だけです。行って戻るだけの一本道、あなたもご存じでしょう。わたくしたちは、ここに囚われているのです」

「……オルハが、元気にしているかだけでも、知りたいのです」

「では、祈りなさい」

 秘密めかした小声で、アイネが言った。微笑みに目を細めるアイネは、大部屋にいる少女たちのようだった。

「わたくしたちが大部屋で寝起きしていたころには、そう言ったものよ。一心に祈って眠れば、夢の中で相手と心が通じるのだと」

「本当なのでございますか?」

「さあ? でも、なにも手がないよりは、気持ちがらくですわ」

 苦笑するアイネの顔には、長い年月をかけて降り積もった、あきらめの色があった。雑居房に住むファムたちが皆、多かれ少なかれ持っている、この表情。

 アルミナは、自分の心に湧いた期待が、見る間にしぼんでいくのを感じた。

 ここで自分たちに許されているのは、刺繍と、空想だけなのだ。

「あら、まあ……そんな顔なさらないで」

 アルミナのふとんに、そっと手をそえて、アイネは済まなそうに励ました。

「本当に夢の中に相手が現れたという方も何人かいらしたのよ。でも、それが本当にその相手と話したのか、ただの夢なのか、確かめようがないでしょう? だって相手と会えないのですもの」

「確かめた方は一人もいらっしゃらないのですか?」

 もどかしく、アルミナが問いかけると、アイネは袖の中の手を組み替えるあいだ、少し考え込むふうなそぶりを見せた。

 やがて、うつむきがちに、アイネは口を開いた。

「私の知る限り、一人いらしたわ。ずいぶん昔ですけれども」

「その方のお話をお聞かせください」

 思わず身を乗り出して、アルミナは早口に求めていた。アイネが苦笑したので、アルミナは自分の不作法に気づいたが、事細かな戒律も、今はただひたすらに、もどかしいばかりだった。

「わたくしがまだ、あなたぐらいの年頃だった時の話です。夢に天使が現れると、彼女は話していました」

「天使が……?」

「ええ。毎夜、窓の外の暗闇から天使様が松明たいまつを掲げて現れるのですって。そして、一緒にお城を出ようと彼女を誘うのだとか」

 語って聞かせるアイネの口調は、その話を信じていないふうに聞こえた。

「よくある夢ですのよ。特に、あなたがたぐらいの年頃にはね。わたくしもずいぶん、窓を恨んだものです。あんなふうに外が見えなければ、ここに閉じこめられた暮らしも、もう少しは気が楽だったでしょうにね」

 アイネが言っているのは、刺繍をするときに集まる広間の窓のことだろう。いつも年老いたファムが腰掛け、日がな一日、枯れた地平線を眺めている、あの大きな窓。

「でも、彼女の夢は本当になったのです。ある日、お城が火災に見舞われて、わたくしたちは一時的に房から避難しましたのよ。お城から逃げ出した時の、あの風の冷たかったこと……その、心地よかったことといったら」

 うっとりと懐かしそうに微笑みを浮かべるアイネの目は、とても優しかった。

「彼女はそのとき行方知れずになり、それきりお戻りになりませんでした。逃げ遅れたのだと、皆は言っていましたけど……」

 アイネは語るのをやめて、小部屋の外を、あの大きな窓を見つめるような仕草をした。寝台ひとつきりの、こぢんまりと清潔な小部屋の狭さを、アルミナは不意に感じ始めた。

「違うのですか?」

 秘密めかして、アイネはアルミナに答えた。

「彼女は逃げなかったのです。火の迫る房に隠れて、待っていたのよ」

「……天使様を、でございますか?」

 アルミナが言うと、アイネは小さく頷いた。

 見当もつかない話だった。火に取り巻かれて逃げずにいられるだろうか。誰かが迎えに来ると約束したとしても、それは夢の中でのことなのだ。そんなものを信じて、命をかけられるものなのだろうか。

 そう否定してから、アルミナはふと思った。もし、自分の夢の中にあの緑の目の少年が現れて、必ず迎えに行くから、火の中で待っていろと言えば、自分は彼が来るのを信じて、いつまでも待っているような気がする。それが自分にとって、たったひとつの希望であるなら。

 アイネは、しばらくじっと、アルミナがどんな顔をして話を聞くか、見守っているようだった。ただ黙って、話の続きを待っているアルミナに見つめられて、アイネは淡く、少女めいた微笑を浮かべた。

「彼女は本当に、天使様が迎えに来ると確信していました。一緒にお城を出ようと、逃げるわたくしたちを引き留めさえしました。でも、わたくしは炎を恐れて、皆と一緒に逃げてしまった……ですから、その後のことは、実は知らないのです」

 アルミナは、がっかりした。それでは、夢の中で外の人と話ができるという証拠にはならない。そうアイネを問いつめたかったけれど、それはあまりにも不作法なような気がして、アルミナは困り、唇を噛んでうつむいた。その姿に、アイネはくすくすと小さな笑い声を立てた。

「安心なさって。お話はこれで終わりではないのよ。彼女は死んではいなかったのです」

「では本当に迎えが来たのですね」

「火事のあとも、生きていたはず。だって、彼女のお腹にいた天使様が、ちゃんと戻っていらしたんですもの」

 予想していなかった話の向きに、アルミナは言葉を失った。

「その方は、聖母さまでいらしたのですか?」

 アイネは頷いた。

 天使が転生するための、新しい体を生み出す役目を負ったファムは、聖母と呼ばれて特別視されている。代々の聖母はファムの模範として、その名を永遠に記録されることになるのだ。

「彼女は、火事の前に、受胎告知を受けていたのです。ブラン・アムリネス猊下が転生なさるので、猊下のための聖母に選ばれましたの。胎内に天使の胚を授かって、受胎のための儀式も始まっていたのですよ。でも、彼女はそれがとても嫌だったようなの。どうしてかしらね、ファムにとっては最高の名誉なのに。彼女が松明を掲げた天使の夢を見るようになったのも、それからでしたのよ」

「ブラン・アムリネス猊下の、受胎告知……?」

「ええ。ですから彼女が毎夜夢に見る天使様というのは、ブラン・アムリネス猊下なのではないかと、わたくしたちは思っていたのです。だって、それなら、ありそうなことでしょう。自分の胎内にいらっしゃるのですから。でも、彼女は違うと言うの。別の天使様だと」

「どなたなのでございますか?」

「ノルティエ・デュアス猊下よ」

 さらりとアイネが答えた名は、アルミナに正体のわからない衝撃を与えた。

「彼女は恋をしていたのかもしれないわね。猊下は儀式のために、毎夜彼女の部屋に通っていらした。だけどそれも受胎すれば終わりになるはずのこと、彼女はつらかったのでしょう」

「わたくし……あの方は嫌いです」

 闇に浮かぶ仮面のような乾いた無表情。その冷たい灰色の目が、射るように見つめている。無用のものを見る目で。

「まあ。そんなことを、おっしゃるものではないわ。ノルティエ・デュアス猊下は、お優しいお方よ。それに、あなたに命を授けてくださった方でしょう」

 苦笑して言うアイネの言葉の意味が、アルミナには分からなかった。困惑するアルミナを見て、アイネは不思議そうな真顔になった。

「アルミナ様、ご自分の顔をごらんになったことがないのね。あなたのお顔は、ノルティエ・デュアス猊下そっくりよ。きっとあなたの母君は、猊下のおたねをいただいたのですわ」

 優しく諭すようなアイネの声は、アルミナの耳から染みこんで、頭の奥深くで鋭い針のような痛みを呼び起こした。

 気づくと、アルミナは自分の顔を両手で覆い隠していた。

 日々の身支度のときの水面や、夜のガラス窓にうつる自分の顔を見たことはあったが、それをしげしげと見つめたことなどなかった。自分がどんな姿をしているか、考えたくなかったのだ。

 ただ、漠然と、自分はよほど醜い顔をしているのだろうと思っていた。

 なぜって、あの方は初めて会った時、とても驚いて、わたくしの顔から目を背けた。わたくしは恥ずかしくて、あの方の前では、うつむいてばかり。

「まあ、どうなさったの、アルミナ様」

 アイネが戸惑う声でなだめ、済まなさそうにアルミナのふとんを軽く叩いた。

「ごめんなさい。容姿のことをあれこれ言うなんて、不作法でしたわね。でも、悪い意味ではございませんのよ。あなたは、可愛らしいお顔をなさっておいでよ。それに天使様のお姿に似ているなんて、とても光栄なことではなくて?」

 アルミナは無意識に首を振って、アイネの言葉を拒んでいた。

 耳の奥がじんじんと腫れ上がったように痛んだ。指の間から水がこぼれ落ちるように、堰を切った記憶が、アルミナの脳裏に呼び戻されてきた。

 いつかオルハも、泣いているアルミナを、同じ言葉でなだめてくれた。

 アルミナ様は可愛らしいお顔をなさっておいでですよ。──様がお帰りになったのは、きっと別の訳があったのでございますよ。アルミナ様の旦那様は天使様なのですもの、お忙しいのです。

 アルミナは脳裏に満たされてくる喪われていた記憶の中の声に、顔を覆ったまま目を開いた。

 ブラン・アムリネス猊下がお帰りになったのは、きっと別の訳があったのでございますよ。

 オルハは、あのとき、彼のことをブラン・アムリネス猊下と呼んでいた。

 天使だったのだ。

 そう。

 天使だった!

 アルミナは顔を覆った手を、ゆっくりとおろした。

 頭の奥で、強く脈打つ激しい頭痛がしたが、アルミナはそれに耐えることができた。数々の大切な思い出を閉じこめ封印した鎖が、蘇ろうとする記憶の奔流に、今にも引きちぎられようとしているのが分かった。

 あと少し、あと少しで、あの方との思い出に手が届く。

 過去を封じ込めようと、生き物のように蠢き絡みつく鎖を、アルミナは必死で掻き分けた。

 あの夜、あの方は初めてやってきた。わたくしの部屋に。手紙の人。何度も繰り返し読んだ、丁寧な文字。わたくしに初潮が訪れたので。ファムの務めを果たすことができる。オルハはいつもより念入りに髪を梳いてくれた。扉が開く。白い服の少年が、緊張した面持ちでそこに立っている。わたくしは、会えたのが嬉しくて、こらえきれずに彼に微笑みかけたのだったわ。

 けれども猊下は、わたくしの顔をごらんになって、ひどく驚かれた。

 わたくしが醜かったから?

 そうかもしれない。

 でも、もしかしたら。

 わたくしが、あの、死の天使ノルティエ・デュアスにそっくりだったから。

 その考えは、小さな鍵のように、アルミナの閉じられた記憶にかちりとはまった。

 アルミナは思い出した。塔の小部屋で見た光景を。部屋に押し入ってきた、三人の天使のことを。

 あの灰色の目の天使は、オルハを廃棄処分にすると言っていた。廃棄処分に。

「アイネ様……」

 髪の間から、冷や汗がアルミナの額に流れ落ちてきた。

「廃棄処分とは、なんなのでしょうか」

「まあ。急になにをおっしゃるの」

 アイネが微かに眉をひそめるのが分かった。しかしアルミナはもう躊躇しなかった。

「教えてください。オルハは廃棄処分されるのだそうです」

 アイネは唇を開いたが、すぐには声にならず、しばしの思案ののち、ゆっくりと答えた。

「……それは、おめでたいことですよ。中性体ユニたちは、ひどい怪我や病気になったり、年老いたりすると、天寿を待つことなく、転生することができるのです。来世には、オムか、ファムに生まれ変わることができるかもしれないでしょう」

 つい先刻、昔語りをしていた時とはまるで違う、強ばった大人の顔で、アイネは話していた。

「オルハは元気でした。そんなに年もとっていませんでした。なのに、なぜでございますか」

「では……それは、何か特別のご褒美ではないかしら」

「死ぬことがですか」

 口に出してしまうと、それは動かしがたい事実だった。アルミナは自分の手をきつく握り合わせていた。

 オルハが死んでしまう。

 枕を持って夢に現れた。最後に見たのは、いつだったかしら。

 手紙を入れた枕を、持ってきてくれたのがオルハだったと、わたくしは知らなかった。なのに毎夜、それを夢に見た。

 あれはただの夢ではなかった。オルハがわたくしに、教えてくれていたのだわ。

「わたくしは、オルハのところに行かなければいけません。アイネ様、どうかこの房からわたくしを出してください」

 寝台から降りようとするアルミナを、アイネが驚いて押しとどめた。

「お待ちなさい。ここから出ることはできないのよ。それはあなたも、よくご存じのはずでしょう」

「お願いでございます」

 アルミナはアイネの白い袖を握りしめ、心の底から懇願した。どんなに頼んだところで、アイネが房の扉を開けられないことは、アルミナにも分かっていた。彼女も自分も等しく、ここに閉じこめられている。しかし誰かに出してくれと頼むほかに、アルミナには出来ることがなかった。

「どうか、お願いでございます」

「アルミナ様、あなたはここで生きていかなければいけません」

 アイネの声は、すでに命令だった。だがその声は静かで、深い悲しみを含んでいた。

「オルハを助けたいのです」

「その中性体ユニは今生の役目を終えたのです。来世の幸運を祈って送り出してあげなさい。それがたしなみというものですよ」

「そんな……」

 おかしいわ。それが正しいわけがない。

 そう叫びたかったが、アルミナは言葉を呑み込んだ。

 与えられた決め事と、記された戒律を読んで納得していたことの諸々を、それを目の前の現実とした今、少しも納得することができない。

 なぜ、歌を歌ってはいけないの。

 なぜ、あの方と毎日会うことができないの。

 なぜ、オルハが死ぬのを喜ばなくてはいけないの。

 なぜ、こんなところに閉じこめられているの。

 なぜ、と、いったい誰に問えばいいの。

「アルミナ様、どうか許してちょうだい。珍しいお話を聞けば、あなたの心も少しは紛れるのではないかと思ったのです。落ち着いて、もう少しお眠りになってはどうかしら。お苦しいのでしたら、白の塔の正神官様にお越しいただきましょうか? それとも何か他に、わたくしにできることがあるかしら」

 寝台の中にアルミナを押し込め、アイネは悲痛な早口で畳みかけてくる。まるで寝台から一歩でも降りれば、アルミナが死んでしまうかのような慌てようだった。

「もういちど火をつけてみてはいけませんか」

 アルミナが思いつくまま口にした問いかけに、アイネはぎょっとして身を離した。

「なにをおっしゃるの」

「ここが火事になれば、外へ出られるのではないのですか」

 アルミナは、壁にある小さな灯火をじっと見つめていた。炎は頼りなくちらちらと揺れている。

「出られはしません。わたくしたちは確かに、お城の外へ避難しました。けれど、そこは水も食べ物もない荒野で、わたくしたちが生きていけるような場所ではないのよ。結局わたくしたちは、自ら望んでこの房へ戻りました。ここしか生きられる場所はないのです」

「でも……ブラン・アムリネス猊下の聖母さまは、お城を出られたのでしょう。たったいま、アイネ様がそう話してくださいました」

「ルサリア様は……! 結局、亡くなったのです」

 アイネは、絞り出す小声でそれを告げ、肩を落とした。

「逃げ出したけれど、外では生きていけずに、戻っていらしたのです。お城の外で苦しんで、老婆のように老いやつれて亡くなったのよ」

「嘘です。まるでお会いになったようにお話しになる」

「会いました。彼女の最期の希望だったから。わたくしと、グロリア様と……わたくしたち三人は、大部屋では親友だったのです。ノルティエ・デュアス猊下が、特別なお計らいで、わたくしたちを会わせてくださったのよ」

「……猊下は、なぜお城にいらしたのですか。約束の天使ではなかったのですか?」

 アルミナは、ふと気づいたその疑問に、いやな寒気を感じた。

「猊下は火災のときに、ひどい火傷を負われて、数日後に亡くなられたの」

 伏し目がちに話すアイネの無表情な顔に、灯火の作る暗い陰影が揺れている。

「ルサリア様を救い出したのは、大陸の民だったのです。猊下は彼女がもう房にいないことをご存じなくて、いつまでも探していらしたのではないかしら。ルサリア様は、そのまま大陸の民にかどわかされて、天使の胚もろとも、行方知れずに……戻った時には、彼女は子供を連れていたけれど、それはノルティエ・デュアス猊下のおたねではありませんでした。彼女は大陸の民に犯されたのです」

 アイネは、ひどく汚らわしく恐ろしいもののように、大陸の民という呼び名を口にしていた。アルミナには、その気持ちが良く分からなかった。神聖一族が牧している、大陸を耕すための様々な民。それをアルミナは自分の目で見たことがなかった。

「彼女の愚かな夢のために、ブラン・アムリネス猊下は永遠に失われてしまったのです。わたくしは、あの火の中から、無理にでも彼女を連れて逃げるべきでした」

「ブラン・アムリネス猊下は失われてなどいません。今もいらっしゃいます」

「あの方は、純血の神殿種ではありません。ノルティエ・デュアス猊下は、決してお信じにならなかったけれど。おいたわしいこと、猊下はかねてから、ルサリア様を妻にと求めていらしたのです。その彼女が純潔を失ったなどと、到底お信じになれなかったのでしょう。公用語も解さなかったあの子を、ご自身の血を受けた子と信じて、誰の目にも赤の塔の天使と映るようにと、お手ずから厳しく養育なさいました。それでも、ブラン・アムリネス猊下の翼は目覚めることなく、赤の塔は主となる天使を失ったのです。それが、定められた義務から逃れようとした、愚かな夢の顛末なのですよ」

 静かな怒りを含んだ声で、アイネは断定した。アルミナには、アイネが誰に対して怒っているのか、良く分からなかった。アイネの友だったという、聖母ルサリアのことを怒っているのか。それとも、天使ノルティエ・デュアスにか。友を見捨てて逃げた自分自身にか。あるいは、その全てか。

「ブラン・アムリネス猊下は……どこにいらしても、赤の塔の主でいらっしゃいます」

「あなたは……赤の塔からいらしたのね?」

 アイネは、ふと気づいたように、問いかけてきた。

「……はい」

 アルミナは、迷ったすえ、正直に答えた。その記憶を取り戻していることを、アイネに知られてもよいのかどうか、判断がつかなかった。

「そう。赤の塔は近々閉鎖されるのではないかしら。あなたはファムだから、廃棄するのは惜しいと、こちらの塔へ移されたのかもしれませんわね。それで記憶を調整されたのですわ。寂しいお気持ちは、分かります。けれど、忘れたふりをなさい。運命にあらがっても、不幸を招くだけなのですから」

「そうなのでしょうか……」

 アルミナの反論を、アイネは真顔で受け止めた。

 そういえば、この方は、ほかの大人のファムのように、口答えするなと頭ごなしに叱りつけたりしないのだわ。

 静かにアルミナの言葉を待っているアイネの顔を、アルミナはうつむかずに見つめ返した。

「もし、聖母さまが運命に抗わず、お城をお出にならずにブラン・アムリネス猊下をお産みになっておられたら、わたくしは猊下の妻にはなれませんでした。同じ親を持つ者同士は、子をもうけてはならないのだと聞いています。わたくしが、アイネ様のおっしゃるように、ノルティエ・デュアス猊下の血を引いて生まれたのだとしたら、ブラン・アムリネス猊下とわたくしは……兄と妹ということに、なりますもの」

 それは禁忌の気配のする言葉だった。神殿種には、血の繋がりを取りざたすることが、不道徳なこととされていたからだ。親兄弟をさす言葉は、聖典のなかに時折登場するため、アルミナも言葉としては知っていたが、それを実際にいる者に対して使うことには、抵抗感があった。

 アイネが愕然と表情をゆがめたので、アルミナは恥ずかしさで縮み上がった。

「アルミナ様……あなたは……」

「申し訳ございません」

「あなたは赤の塔で、ブラン・アムリネス猊下の妻だったのですか」

 アイネは、顔色を失い、絞り出すような小声で、それを尋ねた。

 動揺し、ただ頷いて答えるアルミナの顔を、アイネは食い入るように見つめてくる。

「あなたの目は緑……猊下は確か、灰色の目をなさっておいでだったわ。あなたの、その目は……」

 ふとんの上で硬く握り合わされていたアルミナの手を、アイネが震える指でとらえた。

「わたくしの目です。あなたは……あなたは、わたくしの娘です」

 アルミナは、なにも考えられなくなった。重ね合わされたアイネの手は、手袋越しにも、緊張のために冷たく強ばっているのがわかった。青ざめたアイネの白い胸元に、薄暗がりでも鮮やかに、真っ赤な百合の刺繍が咲き誇っている。そういえば、それは、ファムを産んだ証なのだ。

 どんどん、と小部屋の扉が強く打ち鳴らされた。

 アイネは、はっとしたように、アルミナの手を離した。アイネが椅子から立ち上がると、衣擦れの音が立った。

「どうぞ」

 震えを隠した、張りのある声で、アイネが応えると、扉はすぐに開かれた。壁の灯火が、頼りなく揺れ動いた。

「正神官さまがたがお越しです」

 先触れに来たらしいファムは、背後を気にして、早口にそう告げた。

「でも……アルミナ様はもう回復されたようです。白の塔の方々をお呼び立てすることは……」

「白の塔からではありません。突然お越しになって……」

 ファムは驚いた仕草でふりかえり、すぐさま長い衣の裾をかいとって、姿勢も低く脇へのいた。その深々としたお辞儀の意味はひとつだった。そこにオムがいるのだ。

 アイネが、ふと我に返ったように、同じ恭順の姿勢をとった。寝台に寝ていたアルミナだけが、呆然とひとり取り残され、扉をくぐって入ってきた三人の正神官と向き合うことになった。

 三人は、鎖の紋章を身にまとい、眩しいほどの白の衣と、銀色の杖で正装していた。一目で高位の神官とわかる出で立ちだった。

 それを見てしまってからでは手遅れだったが、アルミナは慌てて、寝台に座ったまま、深く頭を垂れた。

 雑居房にいるときの普段着で、ファムたちは容貌をかくすためのヴェールを纏っていない。予告なく現れたオムたちに、できるかぎり深く頭を垂れて顔を隠すほかなかった。

「めでたくも、我が主、ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ様の聖母となられる貴女様に、ご挨拶に参りました。貴女はファムの中にありて、祝福された方。母の中の母、御名は永遠とわに讃えられたもう」

 窮屈な部屋のなかで跪き、オムたちはよく通る低い声で、一語一句違わない同じ言葉を口にした。

 すぐ横で腰を折っているアイネが、息をのむのが分かった。

「聖母アルミナ様」

 あとの二人を先導していた正神官が、懐に持っていた白銀の百合の花を、アルミナに差し出した。

 それを受け取れという意味だと分かってはいたが、アルミナは訳がわからず、ただ深々と頭をさげたまま身動きがとれずにいた。

「……アルミナ様、百合をお受けするのです」

 焦ったような小声で、アイネが促した。

「なんとお返事するか、ご存じですわね?」

 まさか知らないはずはあるまいという、口調だった。

 正神官に白銀の百合を差し出されたファムが、どんな言葉を口にすべきか、それは神殿種のファムなら知らないはずはなかった。幼いころから、何度もお伽話がわりに語ってきかされてきた物語だ。アルミナにも、オルハがたびたび聞かせてくれた。

 その、受胎告知の物語を。

 百合を受け取らねばならない。

 そして、こう言う。

 わたくしは、主の婢女はしためです。御言葉どおり、この身に成りますように。

「あ……」

 かすれた声だけが、アルミナの喉からこぼれ出た。

「わたくしは……」

 差し出された作り物の百合が、冷たい凶器のように、アルミナを指し示している。

「いやです。お受けできません」

 その場にいたもの全てが、筋書きとちがう言葉を耳にして、弾かれたように顔を上げた。

 寝台に座っていても、恐ろしさで、脚が震えている。

「……助けて」

 顔を覆い、アルミナは膝を抱えて、消え入るような小声で祈った。

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