061 魂の行方

 傍仕えの神官たちが届けてきた天使のための神官服に着替え、ヴィジュレは満足げに軽い伸びをした。

「ああ、気分がいい……昨夜までの苦痛が嘘のようですよ」

 カフラは、地下房の白い床から生えた寝台に軽く腰かけたまま、ヴィジュレを眺めた。

 甦生した身体を確かめる仕草は、新しい服の着心地を試しているのに似ている。

 体調さえ良ければ、ヴィジュレはむしろ、機嫌のいい性分だ。その明るい表情を見れば、肉体を死に至らしめたほどの変調が、甦生によって改善されたことは明らかだった。

「昨日じゃないよ。一昨日(おととい)だ」

 自分の爪の先を弄りながら、カフラが教えると、ヴィジュレがかすかに首を傾げた。

「私はまる一日眠っていたわけですか。そんな覚えがないですが……」

 こちらに顔を向けたヴィジュレの赤い目は、カフラを通り越して、その背後にある壁のあたりを見ているような目つきをしている。

「復活したから、その前後の記憶が抜け落ちてるんじゃないの?」

 訝(いぶか)しむヴィジュレに、カフラは軽薄な作り笑いを返した。

 種明かしを聞いて、ヴィジュレの顔が一瞬曇った。

 今さら、不死身と引き替えに失ったもののことを、惜しむわけでもないだろうに。内心にそう呟きながら、カフラは微笑み続けた。

「……また死にましたか、私は。貴方が介抱してくれたのですか」

 サヴィナと変わりない美声で、ヴィジュレが密やかに尋ねてくる。カフラは笑いながら首を横に振ってみせた。

「根性がなくて、また兄上様の力を借りちゃったよ。あんたが、ぎりぎりの線で、一命をとりとめてたもんだからさぁ」

 作り笑いではない。サヴィナの仮面をつけているだけで、話しているのは寄生種だと知り尽くしていても、その声で語りかけられる親密で秘密めいた響きに胸が疼き、自嘲の笑みがこぼれてくる。

 笑って話すようなことではなかったが、女の顔をした天使には、それを咎める気配すらない。

「ノルティエ・デュアス?」

 そう反復して、ヴィジュレはうっすらと不覚そうに顔をしかめた。鼻の付け根に、細かな皺が寄る。

「どうせ兄上のお手を患わせるなら、いっそ新しい身体に転生させてくだされば良いのに。必要を越えて何度も甦りを繰り返すのは、その……よくないのでしょう?」

 ヴィジュレは、感情を露わにするのを嫌う「彼」らしい、いかにも柔和な作り笑いを見せた。

 カフラは何もない空間に向かって、にやりと苦い微笑を返した。

「その話は、考えてみるってさ。そう遠くないんじゃないの? 俺はこれから聖母様選びをするよ……」

 もったいぶった口調で教えてやると、ヴィジュレの表情が、とたんに明るくなる。すっかり気が晴れたように顔を輝かせ、ヴィジュレは笑い声を立てさえした。

「そうですか! それは何より。このお粗末な乗り物(ヴィークル)とも、やっと決別できるというわけですね」

 喜ぶヴィジュレの姿を、カフラは自分の顔に貼り付いた微笑の仮面を維持することだけに集中しつつ見つめた。

 何も考えずに笑っていることは、すでに慣れきった日常茶飯事だ。

「吉報は、早いほうが良いですよ、アズュリエ・カフラ。怠けていないで、さっさと働きなさい。どうせなら美しい女(ファム)がいいな。醜く転生するのは、面白くないでしょう?」

「贅沢言わないでくれないかなぁ。聖母様は健康第一。美しい骨盤の女を選んでやるよ。こう、突っ込み甲斐のあるような、いいケツしたやつをさぁ」

 冗談めかせてカフラが請け合うと、ヴィジュレは一瞬、かすかに顎を上げ、陰湿な微笑を閃かせた。

「よろしく頼みますよ、今生のような失敗がないように。さもないと、私はあなたが職能を失ったのかと疑いたくなる。貴方が本当に、アズュリエ・カフラの名で呼ばれるべきものなのかどうか…」

「ごみ箱行きだってか?」

 微笑みを守ったまま、カフラはヴィジュレの盲目の目と見つめ合った。

 サフリア・ヴィジュレは神殿種の内政を取り仕切る役割を担っており、誰であろうと、彼が不適当だと感じた者に対して、大小の懲罰を与える強権を持っていた。

 その最たるものは、廃棄処分の断行だ。ヴィジュレに名指しされた者は、その存在を抹消され、永遠に忘却される。

 天使ともなれば、一介の神官のごとくに、ヴィジュレひとりの気まぐれで消されることはなかったが、審問会の対象にはなった。

 審問、と称される拷問だ。

 寄生種は運搬者との感覚的な交流を、意図して断つことができると信じられている。つまり、天使は苦痛を感じない。そのような妄想が、神殿種の間では一般に広まっているのだった。

 だが実際には感じる。

 ヴィジュレは身をもってそれを知っており、時折、気にくわないと思った天使を審問会にかけては、神殿種たちの見守る中、覚醒の浅薄を糾弾するのを趣味としていた。

 犠牲者の行き着く果てにあるのは、その場限りの死と、その次にある甦生という、洗礼めいた復活祭で、同胞たちは皆それを眺め、天使の品質が保たれることに安堵する。

 実際に感じる苦痛には、論理も駆け引きもありはしない。肉体に感じる痛みのゆえに、天使たちは常にヴィジュレに一目置いた。

 今後は特に、天使会議の議場も緊迫することだろう。

 ヴィジュレのお気に入りの獲物だった、ブラン・アムリネスがいなくなってしまった。盲目の天使の次の狙いが、誰の上に定まるのか、微妙な情勢だ。

「カンベンしてよ。俺は今の、女のアレを毎日拝める仕事が気に入ってるんだ。失業なんて困るよ」

 くすくすと笑いながら、カフラが気のない演技で受け流すと、ヴィジュレはふんと短く嘲るようなため息をもらした。

「あなたが”忘れっぽい”と、私に密告してくる天使もいますよ」

「俺って、クラスでイジメに遭いやすいタイプなんだ」

 にやにや笑いのまま、カフラは応えた。

 なんのことか意味はいまひとつ分からなくても、自分が覚醒していることを印象づけるため、天使たちはお互い同士だけの密談で、そういう言葉を好んで使う。覚醒した天使の記憶の中にある、断片的な言葉の群れだ。

「そんな話は初耳です。あなたはクラスの人気者でしたよ。忘れたんですか?」

 挑戦的に問いかけられて、カフラは絶句した。ヴィジュレの問いかけてきた事の意味が、カフラには少しも分からなかった。

「……親友にしか言えない悩みもあるのさ」

 曖昧に応えた一瞬の後、ヴィジュレがくすりと笑い声をたてた。カフラは自分の顔の微笑む仮面に、細かな亀裂が走るのを感じた。

「それは残念……あなたとは親友だと思っていたのに、何千年もたった今になって、こんなふうに裏切られるなんてね」

 皮肉をこめた一言で、ヴィジュレが仮面をうち砕いていった。

 カフラは思わず眉間に皺を寄せ、まじまじとサフリア・ヴィジュレの白い立ち姿を見つめた。

「カフラ、あなたは怖いのでしょうけど。我慢しなくては」

 やんわりと、ヴィジュレが話しはじめた。

「手遅れになると、運搬者(ヴィークル)の寿命がつきるまでに、転生胚が作れませんよ。そうなると貴方は死ぬことになる。どちらがより大きな痛みか、冷静に考えることですね」

 ヴィジュレの諭す口調が、嘘を見破ったことを物語っている。

「それとも、まさか、運搬者(ヴィークル)に情けをかけているのですか? あなたは悪趣味だから……」

 失笑して、ヴィジュレは言葉を濁した。

 その声を聞くと、カフラはまるで自分が肉でできた箱か檻のようなもので、ヴィジュレはその中にいる別の誰かを透かし見、それに呼びかけているように感じられる。

「あんただって、一昨日(おととい)の夜は、泣きわめいて逃げ回ってたぜ」

 演技を忘れたカフラの声には、思わぬ憎悪が充満していた。

 冷静さを失いかけている自分に、ひやりとした恐怖を感じ、カフラは口にのぼりかけていた言葉を幾つも呑み込んだ。

「必要以上に切り刻まれたいと思う奴ぁいないよ。さすがの俺も、そこまで趣味の幅が広くはないからさぁ。だいたい、あのお兄様はやりすぎだ。案外、そっちの趣味があるんじゃないの? あんたと同じで、さ……」

 にやりと作り笑いして付け加えると、ヴィジュレは何ということもないふうに、肩をすくめた。

「私の神殿に戻ります」

 ヴィジュレは含みのある微笑を投げかけてから、カフラに背を向けて歩き出した。地下房の出口を目指して。

 腕組みし、カフラはただ無言でいた。応えるのに相応しい、そつのない言葉が、何も浮かんでこなかった。

 白い床にごろりと転がっている、いくつもの体節を持った虫の横を、ヴィジュレが通り過ぎてゆく。虫は今朝がたまで酸素を作り続けていたが、ヴィジュレが目をさます前に、寿命が尽きて死んでいた。

 いったん休眠状態から起こしてしまうと、この生き物は急激に消耗してゆく。

 たった一日の限られた命を捧げ尽くしてくれたものの死骸に、ヴィジュレは気づきさえしないようだった。

 この城の中では、命というものの尊厳が、そもそも希薄なのだ。

 階位の頂点に据えられた天使たちでさえ、見せ物のように殺されて、衆目を楽しませる。

 ヴィジュレが次の獲物として選んだのは、もしかすると俺かもしれないな。そう思うと、なぜかカフラの顔には苦笑が湧いた。

 出生の怨みを晴らすには、まさにお誂(あつら)え向きだ。前世の借りを、身体で返せということだろう。

 己にふりかかる厄災を、よそに回すためなら、天使会議は審問会開催に反対しない。下手に反対して、ヴィジュレの不興を買うだけ損だ。

 議場に漂う怯えを感じ取るにつけ、皆が天使に対して抱き、天使たちが自らに強制している幻想は、根拠のないものだと確信する。

 お互い、嘘がばれないかと戦々恐々だ。

 天使の記憶を取り戻さないアムリネスを蔑むのに熱心だった連中も、内心では、自分の代わりにヴィジュレを楽しませる者がいてくれて、ほっとしていたに違いない。

 少なくとも、自分はそうだった。

 アムリネスは、口では頑固で、己を糾弾する茶番に押し黙っていたが、血の薄さのために制御のとれない翼(よく)のほうは正直で、助けて、苦しいとすぐに悲鳴をあげた。

 それを皆で無視している欺瞞が苦くても、痛むのが自分の身体でなければ耐えられたのだ。

 その欺瞞のつけを、支払う時が来たということか。

 主を迎えに来ていた神官たちが、ヴィジュレの出立に気づき、杖と外套とを持って駆け寄ってくる。着せかけられた鎖の紋章の外套にくるまり、ヴィジュレはいつもの威厳を取り戻したようだった。

 誇らしげにそれを振り仰ぐ神官たちの表情には、神聖なものを目の当たりにする忘我の表情がある。

 この城における天使とは、肉でできた偶像だ。同胞たちは、そこに理想と妄想を投影し、そこから逸脱するものを見つけたら、手でも足でも、容赦なくもぎ取ってしまう。

「猊下、ご復活おめでとうございます」

「おめでとうございます」

 言祝ぐ取り巻きたちを引き連れ、ヴィジュレは上機嫌に立ち去ってゆく。

 寝台に腰掛けたまま、カフラは身じろぎもせず、それを見送った。




 物々しい、よその塔の連中がいなくなると、地下房にはいつもの、居慣れた少数の部下だけが立ち働いていた。

 白い床にあたりかまわず飛び散っていた殺戮の痕跡は、昨日のうちに拭き浄められている。残る仕事は、虫の死骸を始末することぐらいだ。

 絶命したあとも、そのまま放置されていた死骸に、一人の正神官が近づいていき、お仕着せの靴の固いつま先で、軽くひと蹴りした。すると白っぽく乾いていた死骸は、まるで灰じみた燃えかすのように、脆(もろ)くごっそりと崩れ、細かな塵となる。

 死んだらすぐに、こういった分解に至るように、この生き物は創られている。崩れた死骸は、まだ生きている虫の餌になる。

 この城には、あらゆる意味で無駄がない。完全に閉じられている。

 神殿種の殆どは、ごく僅かな例外をのぞいて、城の中で生まれ、死んだ後も城壁の外へ出ることはない。遺体は城の地下にある、処理場に送られる。そこで何かに使っているらしいが、別の塔の管轄であり、カフラは詳しい事情は知らなかった。

 ただ、漠然とした抵抗感だけがある。

 いずれヴィジュレが別の身体へ転生を済ませて、サヴィナの肉体が必要なくなっても、そこへ送りたくなかった。

 人が死ねば、土に埋めて、墓をたててやるのが、せめてもの慰めだ。

 死んだ者の、魂への。

 それを口に出せば、たちまち異端者扱いで、懲罰は免れないだろう。神殿種の魂は不滅で、翼(よく)に宿る。死はその者の終末ではなく、次の新しい肉体に移るというだけのこと。

 運搬者(ヴィークル)には魂などないのだ。生きて動いているというだけの獣(けだもの)。城の外に棲む、大陸の民のように。

 用が済んだら、廃棄処分するだけのことだ。

 神官たちの手で、細かく砕かれ、掃き集められていく虫の白い死骸を、カフラはぼんやりと眺め、無意識のうちに爪を噛んだ。

 成長するに連れ、いつのまにか始まった癖だ。気がつくとやってしまうので、爪がぼろぼろになる。

 塔に仕える世話係りの老神官は、行儀作法に厳しかったが、この癖だけは直すどころか、歓迎した。

 天使アズュリエ・カフラが代々持っている癖なのだという。

 それが出るのは覚醒が進んだ証しだと、老神官は喜んで、いつも叱りとばしていなければならない不出来な運搬者(ヴィークル)の少年を、いつになく誉めた。

 あの世話係も、年をとりすぎたので、転生するためにカフラの元を去った。

 その後どこへ行ったのか、知らない。行方を捜したこともない。

 誰も皆、天使カフラには忠実だったが、その運搬者(ヴィークル)には冷たかった。その肉体に与えられた、リム・ヨンファルという名は、蔑むため、いずれ抹消されるために名付けられたもので、親しみをこめて呼んでくれたのは、サヴィナと、あとはヴォルグぐらいのものだった。

 運搬者(ヴィークル)に付けられた名を呼ぶことは、天使たちの間では忌避されていたが、幼かった頃、同じようにまだ覚醒前の時代を生きていた三人の天使たちは、秘密裏にその名で呼び合っていた。

 思いついたのはヴォルグで、サヴィナがそれを教えてくれた。もしも、その名で呼びかけても応えない時が来たら、それは少年時代の終わりであり、共有した秘密が潰(つい)える時でもある。

 しかしその名に振り返る限りは、ヴォルグはヴォルグで、サヴィナはサヴィナだと。自分が自分であるその証として、お互いをその名で呼び合うことにしたのだ。

 いい考えだと思ったが、カフラはヴォルグ本人を、その名で呼んだことはなかった。サヴィナがいかにも大切そうに、彼の名を呼ぶのが妬けたし、ほとんど同じ年の二人がそうして親しくしていると、一人だけ遅れて生まれた自分が、仲間はずれにされたようで悔しく、ヴォルグが嫌いだった。

 だが今になって思う。自分は彼を嫌いではなかった。子供っぽい逆恨みだったのだ。

 ヴォルグが彼の名を忘れる前に、一度ぐらい、呼んでみればよかった。

 サヴィナが好きになるのも不思議でないほどには、ヴォルグはいい奴だった。少なくとも、リム・ヨンファルよりはずっと、サヴィナにお似合いだったろう。

 ただひとつ、ヴォルグに欠点があったとすれば、彼がサヴィナの気持ちに気づかず、親しい仲間としか思っていなかったことだ。

 もう大丈夫なつもりで、そう認めてみて、カフラは自分が今だに猛烈な嫉妬を感じるのに驚いた。思わず苛立って爪を噛むと、するどい痛みとともに指先の皮が破れ、血が滲んできた。

 舌打ちして、カフラはみっともなくなった自分の指先を見つめた。

 悪い癖だ。天使にうつされた、悪癖。

「……誰か、俺の手袋を持ってきてくれ」

 翼(よく)を使って誰にともなく呼びかけると、沢山の翼の囀(さえず)りが、天使に仕えたい一心から、我先にと応えを返してくる。

 手袋を捧げ持った神官たちが、幾つもある地下房への侵入口から、あちらこちらと現れてくるのを、寝台に腰掛けたままカフラは待った。

 最初に辿り着いた者が、誇らしげに純白の手袋を差し出してくる。

 それを受け取り、カフラは出遅れた者たちが落胆する気配を周囲に感じた。真っ白い、椀を伏せたような形の巨大な地下房に、やはり白の神官服で全身を覆った者たちが、数十名ほども。

 すでに見慣れた、しかし目にするたびに異様な光景だ。

 男(オム)ばかり。

 それが当たり前のはずが、カフラはいつからか、この光景を異常なものに感じるようになっていた。昔はもっと、この城の中には、女が沢山いたような気がする。

 房に囲われ、白絹に覆われて生きる無言の女(ファム)でも、正神官を恐れ、身をかがめて歩く出来損ないの中性体(ユニ)でもなく。当たり前のように、そこらじゅうにいた。

 昔、はるかな昔だ。前世の、そのまた前世の、さらに昔の……。それとも、寄生種に食い荒らされる脳が、都合良く正当化した妄想なのかもしれない。そうであればいい、というような。

 なぜなのか、いつからなのか、自分でも分からない記憶や、意識が、自分自身の中に色濃く紛れ込んできて、気づくとそれが当たり前になり、元あった自分自身がいなくなる。

 あと二、三度、甦生を経れば、リム・ヨンファルはいなくなり、天使アズュリエ・カフラの乗り物(ヴィークル)は、乗り心地の良さを増すだろうと思われた。

 ヴィジュレが近々、審問会をするつもりでいるなら、リム・ヨンファルに残された時間はそう長くない。

「皆、せっかく無駄足を踏んだついでだ。働いてくれ」

 翼ではなく、肉声を使って話すカフラに、神官たちの顔がさっと緊張の色を浮かべる。

 天使が肉声を使うのは、その内容が機密であることと同義だからだ。

 しかし、どの顔も怖じ気づく気配はなく、野心を潜ませた者の表情をしていた。それも不思議はない。天使の着衣に触れる権限を持っているのは、この塔の中の階級制度を登り詰めてきた一握りの者たちだけだ。

「我が友、虚ろなる祈りの記録者(ディア・フロンティエーナ・サフリア・ヴィジュレ)が転生する。それにあたって聖母となる女(ファム)を選定する。全塔の記録から、もっとも相応しい、健康な個体を探せ」

 一声すら上げる者はいなかったが、言葉になる以前の、驚きの気配が、この場に集まった者たちの翼から翼へと投げ渡され、共鳴を起こすのが感じられる。

 天使は、百数十年に一度しか転生しない。一介の神官たちが日常的に触れる出来事ではなかった。

 最後に行われた転生の儀式は、十数年前、ブラン・アムリネスのためのものだが、それは正常には終わらなかった。

 聖母が、大火とともに城から消えたせいだ。天使の転生胚を胎内に持ったまま。

 今では存在しなかったことになっている、その女(ファム)は、城外で天使の翼(よく)を持った嬰児を産み落とした。あろうことか、大陸の獣を父に持つ運搬者(ヴィークル)に乗せて。

 この醜聞の詳細は、忘却の彼方に葬られたが、漠然とした不名誉は、今もまだこの塔の中に充満している。

「ヴィジュレは、今度しょぼくれた乗り物を寄越したら、俺を殺すつもりだそうだ。まあ、いくら奴がいかれてても、二三度死んで詫びたら許してくれるとは思うんだが、もっと上の兄上たちが、俺のことを無能だと思ったら、話は別だからな。念には念を入れて……」

 笑いながら、冗談めかせてカフラは告げたが、それを笑う者はいなかった。

 冗談では済まない。

 塔を守護する天使の死は、そのまま塔全体の消滅を意味している。

 ブラン・アムリネスを失い、サフリア・ヴィジュレを消した、その罪は、同じ消滅をもって購わされるだろう。

 表情を押し隠しながら震撼する者たちの顔を見渡して、カフラも恐怖を感じていた。

 目の前にいるこの者たちや、この塔に棲む大勢の命に、責任を負っている。

 天使として生まれようと、他のなんであろうと、それは一人の身には重すぎた。

 逃げ出してよいなら、いつでも、今すぐにでも、逃げてしまいたいほどだ。

 しかし出来ない。この大勢を裏切っては。

 死ぬまでここに囚われているのが、生まれる前から決まっている自分の運命だった。囚われた、その中でやれる全てを、果たしきることが。

 だが、もし───と、時折なにかの発作のように思う。

 もしも、これとは違う、別の道が、自由に至る道があったのだとしたら。自分はそこへ続く道程を探すこともせず、後戻りできないところまで、すでに来てしまった。

 他の誰かのためだという、運命なのだという、責任めいた言葉を言い訳にして。

 しかしその実、お定まりの道筋から逸れてゆくのが、怖かっただけかもしれない。いやだいやだと嘆きながらでも、何世代もかけて先人が踏みならした道をゆく安堵感に囚われるうち、ふと気づくと、逃げる道がもう無かったというだけなのだ。

「不出来な主(あるじ)で悪いんだが、俺は死ぬつもりはない。安心してくれ。まあ精々頑張ろうや」

 自分の顔を覆う天使の仮面が、にっこりと微笑むのが感じられ、カフラはふと気が楽になるのを感じた。何かが自分に変わって、人生を操縦してくれるような安堵感がこみあげてくる。

 思い詰めたふうだった、周囲の神官たちが、引き込まれるように微笑した。彼らの目が、ヴィジュレを仰ぎ見ていた者たちと同じ、神性なものを見つめる時の輝きを帯びてくる。

 その目の奥にあるものは、この天使に従ってさえいればよいという、自らの意志を放棄した者だけの、甘く深い安堵だ。

 臆病な運搬者(ヴィークル)、リム・ヨンファルには出来ない芸当だろう。

 ここしばらく穏やかになりを潜めていた寄生種が、ヴィジュレの転生と聞いて、俄然やる気になってきたらしかった。ざわつく何かが胸の奥底で蠢きはじめ、身体感覚を奪っていくのが感じられる。

 アズュリエ・カフラは良い天使だ。つねに人を思い遣る。人の命を救う仕事をしている。励ます微笑で人を勇気づける。

 たぶん、彼を運ぶ運搬者(ヴィークル)よりも遙かに、この人々にとって価値がある。

 ……いいや。たぶん、ではない。確実に、その通りだ。任せて眠れば、それでいい。

 内心の回想に応えるように、カフラの心の奥底で、静かな、しかし力強い声が湧いた。

 それはすでにもう、自分自身の考えのようにも思える。自分と、自分の中に巣くう寄生種との、境界線が曖昧だ。

 これが正しい方向なのだと、自分に言い聞かせるたび、カフラは悲しかった。

 せめて運搬者(ヴィークル)にも魂があって、伝説のいう、あの船に乗れたら。そう願ってきた。

 そこでサヴィナに言いたいことがある。

 後悔している、天使から君を奪って逃げなかったことを。

 手遅れになってはじめて、そう思う自分のことを。

 彼女には、生まれついての義務があるから。サヴィナが見つめていたのは他の男だったから。彼女はずっと年上で、自分を相手にするはずがないから。城を出ては、生きてはいけないから。逃れようとする自分を、彼女は蔑むだろうから。

 消滅を目前に見つめる今になっては、そんなもっともらしい理由の全てが、何もかも下らない言い訳に思える。

 死ねば二度と甦らない、魂さえない、たった一度きりの生涯で、心底から求めるものに手を伸ばそうとしなかった、大切なものを守ろうとしなかった、あらゆる困難から逃げ続けた、それが自分の生きてきた結果だ。

 後悔しているというのが、恐らく自分の生涯で最後の言い訳。

 だけど───

 伏し目がちになって目を瞬かせ、カフラは襲ってきた熱い眩暈(めまい)をこらえた。

 だけど、まだ。この生涯は、終わってはいない。彼女が呼んでくれた、本当の名前を憶えている。

 リム・ヨンファル、とカフラは自分自身に呼びかけた。

 聞いているか? お前はまだ、生きているのか?

 追いつめられた今になって、自分の魂が必死で願うものの正体を、カフラはもう知っていた。

 サヴィナを苦しめ、自分を苦しめる、この城を覆い尽くした呪いから、神殿種を救いたい。解き放たれた自由な世界で、子供が生まれ、自分自身の望む人生を生き、そして年老いて死ぬ。

 それをどこか知れない魂の安息地で迎え、よくやったと労う。それが今望む最後の願いだ。

 この望みを手放してはならない。それを見つめている間だけ、自分にも魂があるような気がした。サヴィナも、ヴォルグも、消えていった者たちが皆、今もどこかにいて、うやむやに過ぎ去った時代の悔恨を、償(つぐな)えるような気が。

 船に乗るのだ、リム・ヨンファル。魂の安息地へゆく、月と星の船に。

 諦めるのは、もうやめろ。活路を探さなければ。

 せめて、遺される者たちが、自由に生きられる道を。終わる果てのない不遇の連鎖を、続く世代に送ってはならない。

 消えかける臆病な自分の心を、カフラは必死で励ました。

 抗う運搬者に苛立った天使が、阻(はば)まれ蛇のようにのたうつのが、カフラの身の内に、灼け付く熱となって感じられた。

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