060 運搬者(ヴィークル)

「死んでいるのか」

 透明な膜の向こう側で眠っているヴィジュレをのぞきこんで、ノルティエ・デュアスは冷静に質問してきた。

 その長身の背中を遠目に眺め、カフラは気怠く答えた。

「いいや。翼(よく)の機能で、なんとか持ち直してる。まだ意識はないけどね」

 人払いしてあるのをいいことに、カフラはご大層な僧衣を脱ぎ、簡単な夜着だけになって、ぐったりと椅子に座り込んでいた。

 ヴィジュレの容態を見下ろすノルティエ・デュアスは、早朝にたたき起こされて駆けつけたとは思えないほど、きっちりと正式な僧衣に身をかためている。ご丁寧に、手袋まで忘れないのはさすがだ。

 ヴィジュレを覆う膜は、白の神殿の地下房に棲み付いている大きな虫のようなものが紡ぐ皮膜で、中には酸素が満たされている。ヴィジュレの弱った心臓と肺への負担を減らし、呼吸を楽にするための処置だ。

 ごろんと丸い胸部の節を持った虫は、うずくまった男ほどの大きさがある。

 生かしておくには餌をやる必要があるが、普段は休眠しており、命令を受けると目を覚まして、透明な皮膜を張り、その中を酸素で満たす。そのためだけに生きている。おそらく、この城の地下にしか、生息していない種だ。

 人の手を借りてしか生きられない、不自然な謎めいた種族。

 だが、こいつらがいなくなると、困る。

 空気でまるまると膨らんだ、虫の白っぽい胸節がゆっくりとしぼんでいくのを見守りながら、カフラは内心で身震いした。

「なぜ呼んだのだ」

 ノルティエ・デュアスが上体を捩(ねじ)って、こちらを振り返った。

「いくつか問題が」

 縮れた金髪に指を入れると、汗で蒸れた熱気がこもっている。それを解きほぐしながら、カフラはデュアスと目を合わせないように、うつむいた。

「一つは見ての通り、サフリア・ヴィジュレの体調のことだけどね。本人は転生を希望しているらしいけど、そうなの?」

 ノルティエ・デュアスはすぐには返答しなかった。

 カフラがじれて顔をあげると、デュアスはまた、透明な皮膜の中で眠っているヴィジュレに目を戻している。

 手術痕が痛々しいヴィジュレの裸体は、見間違いようもなく、女のものだった。それを見つめるデュアスの態度は、なにか寒々しいほど冷たく思われる。

「べつの体に移るには、まだ早い」

 答えるデュアスは、声までが無表情に響く。

 彼は死の天使と呼ばれ、その名にふさわしい職務を負っていた。天使たちの死と転生を司るのも、彼の役目だ。

「ヴィジュレは、本人がいう程には、覚醒が進んでいない。今の状態から転生の処置をすると、転生胚(てんせいはい)形成の段階で、情報劣化が起きる」

 淡々と肉声で語るデュアスの口振りは、城の地上部で話す時の、いつもの厳かな口調から、いくぶん外れたものだ。なぜこんな時にと驚くが、ノルティエ・デュアスはどこかしら、この場でくつろいでいるようだった。

「転生すればいいというものではない、ヴィジュレの記憶が受け継がれなければ、なんの意味もない」

 金糸で一面に刺繍を施された絢爛(けんらん)な外套の中で、ノルティエ・デュアスは腕組みをし、カフラに向き直った。

 その言葉には、どことなく、サフリア・ヴィジュレという名の天使への親しみや愛着がこめられているようには聞こえた。だが、それが彼の目の前で憔悴して眠っている、女の形をしたものへの愛着ではないことも、カフラには分かっていた。

「運搬者(ヴィークル)を保たせるのはお前の仕事だ、ディア・フロンティエーナ・アズュリエ・カフラ。不可能だというなら、我々は貴重な仲間をまた一人失うことになる。天使を失うのは、大きすぎる痛手だ」

 足音ひそかに歩み寄りながら、デュアスは淡々と話す。その口調は淡泊だが、何者も逆らわせない断固とした力が潜んでいる。

「運搬者(ヴィークル)ね……」

 うっすらとした嫌悪感をこめて、カフラは反復した。

「お前は宿主(ホスト)と呼び慣わしているんだったな」

 ごく淡い笑みが、デュアスの顔に現れる。その残酷な微笑は、彼の顔に無理やりかぶせられた仮面のように不自然に思えた。

「我々は客分(ゲスト)ではないだろう、主権はこちらにあるべきものだ。これは、我々の乗り物(ヴィークル)に過ぎない」

 腕組みをゆるめて、ノルティエ・デュアスは自分の胸を、軽く指で叩いて見せた。彼の運搬者(ヴィークル)、彼の宿主(ホスト)を。

「俺も次には、もっと使い勝手のいい乗り物(ヴィークル)に恵まれたいもんだよ。兄上のようにね」

 皮肉を言っているのか、自虐に走っているのか、自分でもわからないまま、カフラは苦い笑いに顔をゆがめた。

「単刀直入に言うよ。ヴィジュレの体はもう寿命がきてる。今年にはいってから三度目の危篤なんだ、それも、ほぼ定期的に」

 ノルティエ・デュアスが興味深げに目を細める。無表情だった灰色の瞳に、ちらりと人並みの感情がよぎる。しかしそれは、同情や哀れみではない。探求心、という言葉がいちばん近いだろう。

「その割には元気なように見受けたが」

「……やつはな、無茶をしてるんだ。まあ、たとえるなら、分解寸前のポンコツな乗り物(ヴィークル)で、荒野をぶっとばしてるようなものだよ。今乗っているものが壊れても、すぐに新しいのがあると、たかをくくってるんだ」

「忠告して自重させろ」

「自重したって無駄なんだよ……」

 自分の顔から、軽薄な笑顔の仮面がはがれ落ちそうになるのを感じて、カフラは深い息をつき、言葉を置いた。

「定期的に突然危篤になる理由だけどさ。前回の危篤時に活性化した蘇生胚(そせいはい)を消費しきったら倒れるということだと思うんだよね。つまりさ、やつの運搬者(ヴィークル)は、もう役に立たない。運転手を運ぶどころか、寄生種(パラサイト)が後ろから押してやらないと進むこともできないぐらい、ぶっ壊れてるってことなんだよ」

「なるほど」

 大した感銘を受けるわけでもなく、デュアスはあっさりと納得した。

「患者を治療するのが俺の仕事だよ、たしかに。だけど、もう、なんていうか……ヴィジュレは歩く死体だ。翼(よく)の機能が宿主(ホスト)を辛うじて生かしているというだけで……」

「つまり」

 耳元にはっきりと響くノルティエ・デュアスの声が、カフラの言葉を止めさせた。口に出しかけていた回りくどい説明が、頭の中で砂の山のように崩れる。

「お前はこう言いたい。お前にできることは、もう何も無い、と」

 カフラが顔をあげて眺めると、わかったよと宥(なだ)めるような、どことなく優しげでもある微笑が、ノルティエ・デュアスの顔に浮かんでいる。

 昔はこうではなかったと、唐突にカフラは考えた。回想に逃避している自分を感じる。

 デュアスは変わった。別人になったのだ。それが天使として目覚めるということ。そしてそれは、宿主(ホスト)の精神的な死と同義だ。

 創生神話は、神殿種のことを、翼(つばさ)ある者、と記している。的確な表現だろう。天使の本体は、その翼のほうにある。天より来たりて第四大陸の全種族を牧しているのは、この体の中に巣くっている、翼そのもの。

 天使とは、死体に取り憑いて生きていく、何者かのことだ。

「それで。どうするのだ」

 デュアスの平板な口調の裏に、どことなく嬲(なぶ)るような気配がする。カフラは枯れた喉のまま押し黙り、自分を見下ろす長身の天使と向き合った。

「医師(ドクトル)、どうすればヴィジュレは回復する?」

「蘇生胚(そせいはい)の形成を……促すほかは」

「要するに、お前が私に相談したいのは、お前と私の、どちらがヴィジュレを殺すかということなんだろう。いや、もっと親切に言ってやるとしたら、お前は自分の手を汚したくない。臆病心と……お前の職能ゆえの、くだらん自尊心からな」

 ちらりと鋭い犬歯をのぞかせて、ノルティエ・デュアスが嗤(わら)った。

「命を助けるのが俺の仕事だ!」

 皮肉めかせたからかいの言葉に、カフラは思わず声を荒げた。

 鞘走る音がして、ノルティエ・デュアスの外套の奥から、鈍く光る刀身が引き抜かれる。

 その使い込まれた刃に、横目に視線を吸い寄せられたまま、カフラは言葉を失った。

 この武器に見覚えがある。その切っ先を身に受ける痛みに、憶えが。

 理屈抜きの、恐怖を感じた。

「用意してきた」

 ため息まじりの小声で、ノルティエ・デュアスが呟く。

「そう怖じ気づくな。道具が違うだけで、お前が常日頃やっていることと似ている」

 見つめ合ったノルティエ・デュアスの灰色の瞳に、カフラは何の迷いも見つけられなかった。

 この乗り物を操っているのは、まさしく死の天使なのだ。

「死ねばいいんだろ。どうしてもっと楽な方法じゃ駄目なんだ……なにもそんな野蛮なもので……」

 早口に問いかける自分の口調に、はっきりと懇願の色がまじるのを、カフラは止められなかった。

「損傷が激しければ、翼(よく)はその分大量の蘇生胚を形成する。軽傷で二度三度と死ぬよりは、より効率的に寄生種(パラサイト)の覚醒を促せる。だから薬物でもいいんだぞ、アズュリエ・カフラ。早すぎず、遅すぎずで、劇的な損傷を受けて死ねばいい。どうする、お前がやるか?」

 カフラが座る椅子の背に手を置いて、デュアスは小さな子供の顔色でもうかがうように、身をかがめて問いつめてくる。

 拒絶が言葉にならず、カフラはただ何度も首を振って拒んだ。

 ヴィジュレは意識がない。意識がないんだと自分の声が頭の中に響く。

 だから痛みも感じない、そのぶん、ずっとマシじゃないか。眠っているうちに片がついて、目が覚めたらまた、かりそめのものでも健康な体に。

 だが、だからといって、その道筋にある出来事を受け入れられるか?

 人間のやることか?

 びりびりと紙を裂くような音がして、ふと目を向けると、ノルティエ・デュアスがヴィジュレを包む透明な膜を破いていた。

 僧衣をまとった姿のせいか、抜き身の剣を提げているのにも何か神聖さがあるような錯覚をおぼえるほどだ。

 ノルティエ・デュアスが寝台に横たわるヴィジュレの背の下に手を入れて、白い体を抱き起こすのを、カフラは身動きもとれずに見守った。

 息が上がっているせいか、それとも、膜から漏れた純粋酸素を吸っているせいか、指先がじんと痺れたように感じる。

「……ああ、あにうえ?」

 朦朧とした目覚めの声が聞こえて、カフラは思わず立ち上がっていた。

 ノルティエ・デュアスの横顔が、かすかにこちらを向くのが分かる。どことなく、天使は微笑しているようにも見えた。

 どうした、と嘲弄する視線が、こちらを一瞥していく。

 自分に言い聞かせていた、馬鹿げた言い訳は、その一瞬でかき消えた。

「ヴィジュレ、お前を治すには、もう、復活させるしかないそうだ」

 穏やかに説明するノルティエ・デュアスの声が聞こえた。息をのむヴィジュレの声が聞こえた。裸の背に触れる、冷たい金属の感触が何なのか、ヴィジュレは悟ったようだった。

 湧き起こるヴィジュレの恐怖で、空気が凍る。

 カフラは二人から目をそむけた。

「転生を。新しい体に移してください、兄上。もっと健康な……!」

「無様なまねは止せ。ほんの半時の辛抱だ」

 哀願するヴィジュレを淡々と諫(いさ)める、ノルティエ・デュアスの声に、カフラは耐えきれず、耳を覆った。

 押し込められた悲鳴が聞こえ、何か重いものが寝台から転がり落ちる音がきこえた。

 甲高い金属音を聞くのに似た、脳を軋ませるほど圧倒的な波を、翼(よく)が拾い上げて伝えてくる。

 ヴィジュレの翼(よく)が上げる救難信号、耳をふさいで誤魔化すことのできない、激しい悲鳴だ。

 切り刻まれながら床を逃げまどう何かを、ゆっくりと、しかし執拗に追いつめるものの気配が背後から押し寄せる。

 濡れたものが床に飛び散る気配、それにつづく絶叫。

 早く終わってくれと、カフラは気づくと必死に念じていた。

 早く。

 早く。

 早く死ぬんだ、ヴィジュレ。

「たすけて……」

 背後から足首をつかまれて、カフラは自分の喉が痙攣するのを感じた。

 見下ろすと、立ちつくす膝に、ヴィジュレがすがりついている。盲目のせいで、恐怖にひきつった顔は、あらぬ方向に向けられている。

 その腹に、ぱっくりと赤い裂け目が開いていた。

「たすけて……ごめんなさい。ちゃんと思い出します、だから、もう、やめて……」

 ヴィジュレが口走っている言葉はほとんど譫言だった。

 蒼白の全裸だったヴィジュレの体が、今はまるで赤い文様の服を着ているようだ。

 無視できず、カフラは思わず自分にのばされたヴィジュレの手を握って庇った。

 ヴィジュレは引きつった喘息と、譫言のようなか細い悲鳴を上げ続けている。

 発作を起こして、心臓が止まらないのが不思議なほどだ。

 なぜこんな時に限って、持ちこたえたりするのか。

 カフラの中に逃げ込もうとでもいうように、ヴィジュレは傷ついて自由のきかなくなった体で、必死に抱きついてくる。

 人肌を、これほど近くに感じたのは、たぶん生まれて初めてだ。

「もう止めよう、デュアス、もう充分だろ」

 意味がないとわかっていても、カフラは気づくと懇願していた。

 目の前に立つ、死の天使に。

「まだ死んでない」

 血と脂にくもった刀身を、ヴィジュレの背中にかざして、ノルティエ・デュアスは穏やかに反論してくる。

 顔色一つ変えてない。

 悲しんでいるわけでも、楽しんでいるわけでもない。

 これがあんたの仕事だから。それだけの理由で、悲鳴に慣れている。

 かすかに異様な痙攣を始めるヴィジュレの体を抱きしめながら、カフラは、仮面のように無表情なデュアスの顔を見つめた。

「あんたには、心がないのか……」

 咎めるカフラの言葉に、デュアスは逆手に握った剣を振り上げながら、不思議そうな上の空の顔をした。

「避けないと、お前にも当たるぞ」

 かすかな濡れた音をたてて、刀身がヴィジュレの白い背中に沈み込む。自分の脇腹に押しつけられたヴィジュレの喉が、短い悲鳴をあげ、女の形をした体に痙攣の波が走るのを、カフラはただ何もせずに抱き留めていた。

 悲鳴はそのまま収まらず、ごぼこぼと泡だった呼吸音に変わる。

 次の瞬間、ヴィジュレの体が、切り刻まれる痛みとは別のものに、激しく引きつるのが感じられた。

 やっと、ヴィジュレの心臓が発作を起こしたらしい。

 腕を回された脇腹に、強い圧迫がくるのを、カフラはどこか虚脱したままの頭で堪えた。

 早く止まれ。そうすれば終わるんだ。

 血まみれの背中を撫でて、カフラは聞いているはずのない相手に囁きかけた。

「蘇生すれば、昼には傷も癒えているだろうが、念のため、今日の祭祀は休ませるんだな。後日、復活祭をやると言い含めておけば、皆、納得するだろう」

 手袋をはめた手で、ノルティエ・デュアスが顔にとんだ返り血をぬぐっている。

 ひと仕事終えたあとの彼の声色は、爽やかですらある。

 ゆっくりと散漫になっていくヴィジュレの脈をとりながら、カフラはぼんやりと考えていた。だが、自分が何を考えているのか、少しも分からない。

 これは普通のことだ。なにも酷くない。

 長年、この神殿で行われてきたことだ……

 必要なことだ、天使を目覚めさせるために……

 そう言い聞かせる言葉は、カフラの心を上滑りして、深い虚(うろ)へと転げ落ちていった。

「転生の件は、考えておく」

 刀身の血を僧衣でぬぐって、腰に帯びた鞘におさめながら、ノルティエ・デュアスが事務的に話しかけてくる。

「え?」

「ヴィジュレの転生だ。翼(よく)への負担が大きいまま、長く過ごすのは好ましくない。急いで覚醒を進めてみよう」

「急いで……?」

 うろんと疲れ切った頭が、具体的なものごとを考えるのを拒否している。

 天使の記憶が目覚めるのは、蘇生の後と決まっている。ノルティエ・デュアスは殺戮の話をしている。

 どうということもない、慣れ親しんだ作業をこなすように。

「天使を産めるような、女(ファム)はいるのだろうな?」

「さあ……調べるよ」

 緩慢な返答しかしないカフラに、ノルティエ・デュアスがうっすらと顔をしかめる。

「同じ失敗を何度もするなよ。ヴィジュレの転生が不完全だったのは、元はといえばお前の責任だ。非難がましく私を見て、それで誤魔化せると思うな。私はお前の後始末をしてやっているんだ」

 答える気力がなく、カフラは頷いた。それも、単に項垂れただけだったかもしれない。

 静かな靴音をたてて、ノルティエ・デュアスは地下房を出ていった。

 白い繭のような室内の壁に、すうっと切り取ったように扉が開き、長身の天使を外へと送り出す。

 夜が明ければ、早朝から祭祀が始まる。デュアスはこの後、浴びた血をぬぐい落として、何事もなかったような清潔な顔つきで、天使の列を率いるのだろう。

 自分もそこへ、戻らなければならない。

 カフラは自分をそう促してみたが、気力の抜けた身体は、すぐには動こうとしなかった。

 ヴィジュレの転生に関わったのは、前世の自分だ。失敗だ、責任だと言われても、知ったことではない。そう言いたかった。

 しかし憶えている。

 ヴィジュレの転生胚を植え付けた女(ファム)が、妊娠中に苦しみだした。胎内で何らかの異常が起きていることは確かだったが、手を尽くしても回復の兆しが現れなかった。

 母体を救うには、堕胎するほかなかったが、女(ファム)ひとりの命よりも、天使の転生胚が失われることのほうが損失が大きい。

 それには同じ塔に棲む、大勢の命がかかっているのだ。

 悲惨な経過のすえに、天使の翼を寄生させて生まれてきたものは、女(ファム)の体をしていた。

 女の形をしたもの、といったほうがいい。ヴィジュレは外見上は女でも、女としての機能は持ち合わせていない。生殖能力を欠いた、中性体(ユニ)だ。

 当初、ヴィジュレの転生は危ぶまれた。カフラはその責任を追及された。

 だが、医師にもどうにもできないことは、ある。

 避けがたい不運の部類だ。

 医師は神とはちがう、全能ではないのだ、と、天使会議の場で叫ぶ自分の声が記憶に残っている。今とは違う、老人の声で。

 今の身体で思い返せば、それも皮肉な台詞だ。あの老人は、白の塔の天使は、この自分自身は、神のように崇められる者、大陸の民が祈って寄り縋る、神性な存在だ。

 時折思い出さずにはいられない、身に覚えのない数々の記憶。

 アズュリエ・カフラと名乗り、その名で崇められてきたものの、気の遠くなるほど長い生涯の記憶が、自分の中にある。

 生まれ落ちた瞬間から、自分はその記憶を運ぶための運搬者(ヴィークル)に過ぎず、新しい命ではない。すでに古びた人生の続き、あるいはその途中の、ちっぽけな数十年でしかない。

 それなら生まれつき、自分の心などない方が良かった。

 運搬者(ヴィークル)には、心など、必要ない。

 ふと気づくと、腕の中にいるヴィジュレはもう死んでいた。

 カフラはヴィジュレの体を抱きしめて、銀の髪を撫でた。

 それは他の天使より幾分長めに切りそろえられている。頼りない手触りで、ふわふわと指にからみつく。

「ごめんよ……」

 ヴィジュレの死に顔が泣いている。

 恐怖に引きつってはいても、その顔立ちは美しかった。

 強ばった体に、かすかな漣(さざなみ)のような震えが走りはじめる。

 翼(よく)が変じた蘇生胚が、活動を始めたらしい。

 生命機能の停止を刺激として、翼は宿主(ホスト)を蘇生させ、破壊された器官を修復するための、特殊な形態に変わる。蘇生胚はまず宿主(ホスト)の脳を確保し、その後全身をくまなく探査し、修復を始める。体に走る漣のようなふるえは、この時のものだ。

 ヴィジュレの頸に触れ、カフラは脈をはかった。どくん、と唐突な脈動が指に触れる。

 見る間に出血がおさまり、むごたらしかった傷口が、少しずつ塞がっていくように見える。開いた傷口からは、胎内を通りすがる蘇生胚が放つ、ぼんやりと青い燐光が、時折こぼれた。

 しばらく待つと、ヴィジュレの唇が開いて、ひゅう、と短い息を吸い込んだ。

 そのとたん、激しい咳をして、気道に残っていた血の泡が吐き出されてくる。

 カフラは慌てて、呼吸を確保するために、ヴィジュレの姿勢を変えさせた。

 ひとしきり激しくむせてから、ヴィジュレはぐったりと大人しくなり、喘ぐようなため息を何度かついた。

「……さむい」

 闇を見透かそうとしているように、ヴィジュレの赤い瞳が遠くに向けられる。

 その声を聞いて、カフラはやっと我に帰り、椅子の背にかけたままの自分の外套を、腕をのばして引き下ろし、ヴィジュレの裸体に覆いかぶせた。

「だれ?」

 かすれた声で、ヴィジュレが尋ねる。

 ヴィジュレの顔は、ほんの少女のようにも、すでに年老いたもののようにも見えた。蘇生のたびに天使は若返る。何度も死んで、蘇生を繰り返したヴィジュレの年齢は、外見からは量りがたかった。

 ずっと昔のまま、年をとっていないようにも見える。

「ヴォルグ?」

 朦朧と尋ねてくるヴィジュレの問いかけに、カフラは一瞬、黙り込んだ。

「……いいや」

 やっと絞り出した声で答えを返すと、ヴィジュレは痛みをこらえているように、深く、ゆっくりとした息をつく。

 蘇生したばかりで、ヴィジュレの意識は混乱しているのだろう。

 その名前のあるじは、もういない。おそらく。星の海のすみからすみまで探し回ったとしても。

 ヴィジュレの唇がその名を呼ぶことの意味が、カフラの脳の中を白熱する閃光(インパルス)になって飛び回った。

「サヴィナ」

 胡座した自分の腿のうえに、ぐったりと頬を乗せている白い横顔に、カフラは呼びかけてみた。どこか祈るような気持ちで。

「……なぁに」

 盲目の目を薄く開いたまま、ヴィジュレが夢の中で話しているような相槌をする。彼女が返事をしたことに、カフラは驚きもしたし、同時に、やはりという気もした。

 サヴィナは彼女の宿主(ホスト)の名前だった。遠の昔に、この白い女の身体に巣くう天使が、すっかり食い尽くしたはずの娘の名だ。

「ごめん」

 考えるより先に、詫びる言葉がカフラの口をついた。

「なにを謝っているの」

「……ヴォルグじゃなくて、ごめん」

 そう言うと、サヴィナは微笑した。懐かしい微笑みだった。どことなく諦めきったような物静かな。

 最後に見たのは何十年も前、あの頃サヴィナは腎臓がひどく悪くなって、古い血を取り替えるため、毎日のように、白の神殿に通ってきていた。その枕辺で眺めたのと、同じ微笑みだ。

「あなたは臆病なリム・ヨンファル。そうでしょう。知ってる声とちがう、どうしたの」

 サヴィナの声は、年端もいかない少年と向き合う時の、優しげな甘い口調で話していた。

 それもそうだろう。サヴィナが一番鮮やかに記憶しているリム・ヨンファルは、枕辺の椅子に座ると、足が床から浮くほど、幼い少年だったのだ。

「声が変わったんだよ。だけど今も臆病だよ」

 まだ深い傷の残っている腕を伸ばして、顔形を確かめようとするように、サヴィナはカフラの下あごに手を触れ、鼻の高さを指先で測った。

「髭がはえたの? なんだか知らない人みたい」

 力無くはあっても、楽しげな声で、サヴィナは笑った。

「君も変わったよ」

「そう?」

 サヴィナの紅い唇が、やんわりと美しく微笑む。

「ヴォルグも変わったよ」

「どんなふうに?」

 はにかんだようにサヴィナが表情を変える。少年の頃には意味のわからなかった、サヴィナのこの恥じらう顔。

 それを見下ろし、カフラはわずかに苦笑した。

「どうっ、て。そうだな……怖いふうにさ」

 冗談めかせて、カフラは説明した。

「あなたって、いつも、ふざけてばかり……。なぜ、いつも、ヴォルグを悪く言うの? あんなに優しい人なのに」

 サヴィナがまた、楽しげに笑う。

 盲目の瞳が、どこかしらうっとりと熱を帯びている。

「……ヴォルグに会いたい。彼はどこにいるの」

 眠気に意識を吸い取られているように、サヴィナの瞼が重くなっていく。

「ついさっきまで、ここにいたよ」

 君を殺していた。

 見えるはずのない相手に、気づくとカフラは無理に作り笑いを向けていた。

 傷つけたくないという思いより、サヴィナの微笑を一分一秒でも長く自分のものにしていたいという欲のほうが強かった。

「そう? もっと早く、目を覚ませば良かった……」

 残念そうに、サヴィナの顔が曇る。

「でも、なんだかとても眠いの……ヴォルグは戻ってくる?」

 言い終える間もなく、サヴィナは深い無意識の眠りへと落ちていく。

 深く暗い淵の底に沈み込んでいったはずの亡霊が、何かのはずみで、ふと浮き上がり、すぐにまた、もとの虚無へと呑み込まれていく。

 その一瞬に居合わせただけだと、カフラは自分に言い聞かせた。

 サヴィナはもう死んだ。ずっと以前に。天使のための生け贄として。

 膝に抱いた体が、ぐったりと重く力を失っていく。

 せめてもう一言と、心は追い縋っても、言うべき言葉が見つからない。

 少年の頃には、サヴィナが死ぬのではないかと、彼女が蒼白の顔で眠り込むのが恐ろしく、枕辺で、思いつく限りのことを喋り続けた。

 サヴィナはいつも、穏やかな微笑でそれを聞いてくれた。

 臆病なリム・ヨンファル。あなたは天使になるのが怖いのね?

 大丈夫。ほんとうに大切な人の記憶は……誰にも奪えない。天使にも、貴方自身にだって、ぜったいに。

 子供だったカフラの金髪を撫でながら、そう保証したサヴィナは、何もかも忘れて別人になってしまった。ほんものの天使に。

 かたく伏せられた瞼から、薄く開かれた唇から、微笑の残滓が消え、サヴィナの面影が消えていく。

「戻ってこないよ、ヴォルグも、君も……」

 指先で頬に触れると、そこにはほんのりと暖かみが戻っていた。なめらかな肌の感触は、新しい絹を撫でるようだ。

「サヴィナ……本当にこれで、良かったかい?」

 眠りこんでいる女の顔から、すでに優しげな微笑は消え果て、見慣れた酷薄な天使の顔が、その空白を埋めていた。

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