059 塔の囚われ人

 杖が扉を打ち鳴らすずっと前から、慌てふためいた何対かの翼が階段を駆け上がってくる気配に、天使は叩き起こされていた。

「猊下(げいか)!」

 扉の向こう側で、怯えたような鋭い声が呼ばわる。

 すでに明け方近く。窓のない部屋には、ぼんやりとした丸い燐光が点々と灯り、白い壁を薄緑に浮かび上がらせている。

 枕元の小卓に置かれた振り子時計が、規則正しく時を数えているのを横目に一瞥し、眠気に痺れた目元を揉みながら、アズュリエ・カフラは寝台から身を起こした。

 縮れた癖の強い金髪が、枕のせいで、どうにも処置のないほど乱れている。満足に手櫛も受け付けないそれを、申し訳程度に撫でつけて、カフラは憮然とした。

 神殿内の僧房は施錠されていない。最高位の神官である天使の房でも同じことだ。

 深夜の訪問客は、部屋に飛び込みたければ、いつでもそうできるはずだが、天使が内側から扉を開くのを、やきもきして待っているようだった。

 夜着のまま、なにも羽織らずに出向いて扉を開けると、転がり込むように、三人の正神官が面前で膝をついた。

「猊下、どうかご内密に」

 いきなりの肉声で、その中の一人が懇願してくる。

 神殿内では通常、会話には翼(よく)による念話を用いる。そうすれば、城の中にいる誰にでも、その気さえあれば聞こえるからだ。

 内密の話というのは、それ自体になにか不穏なものがあると見なされる。それゆえ常に、不特定多数に公開された状態での会話を主とするのが、この城での作法だった。

 先頭に膝をついている神官が、壊れ物でも運ぶように、絹製の僧冠を捧げ持っているのを、カフラは伏し目に見つけた。

 その純白の面(おもて)に金糸で刺繍されている紋章の意匠は、鎖(くさり)だった。天使サフリア・ヴィジュレの紋章だ。

 ヴィジュレの血のように赤い盲目の目を思い出し、カフラは顔をしかめた。

 見れば、神官たちの僧衣の文様も、カフラの司る白の神殿のものではない。

 消灯後、各所に錠の下ろされた神殿内を、所属を越えて別の塔へ行くのは通常では無理がある。まして天使の居室まで駆け上ろうというのでは、殆ど不可能と言ってよい。

 しかし目の前の三人は、天使の僧冠を手形代わりに、ここまで押し入ってきたもののようだった。

 と、なると、用件はひとつだ。

「ヴィジュレが倒れたか?」

 念を押すため、カフラは声に出して確認をした。

 その声は、眠気にかすれて、不機嫌だった。

 神官たちは、床に額をこすりつけて平伏する。

「とつぜん苦しまれて、発作を起こされました」

 幾つかの遺伝的な障害を抱えて生まれついたサフリア・ヴィジュレの肉体は虚弱だった。時折の不調は珍しくなかったが、伝令たちの顔色を見れば、それがちょっとした体調不良ではありえないのは明白だ。

 おそらくヴィジュレは昏倒している。

 すでに絶命している恐れもある。

 やつが「死ぬ」のは今年で三度目、とカフラは苦々しく反芻した。

 ヴィジュレはいくら忠告しても、自分の肉体の深刻な状況に無頓着だった。苦痛を覚えるのだけが煩わしいようで、痛みのある時にだけカフラのもとに現れ、鎮痛のための処方箋が効果を示している限りは、あたかも健康体であるかのように振る舞っている。

 ヴィジュレは自分の、生来の不運を無視しようとしている。そうすることで現実が修正できるわけでもないだろうに。

「内密には無理だな。治療には俺の神殿を起こさないといけない。それに、場合によっては別の神殿も」

 彼らの主(あるじ)から、有事の際には隠密にと命じられていたのだろう。神官たちは哀れなほど狼狽えた。

「ここまで駆け込んできた機転は正しかったよ。それはヴィジュレにも諭しておく。もちろん、やつが無事に甦ったらだけどさ」

 冗談めかせて脅しつけると、神官たちは蒼白になった。

 天使は死なない、たとえ死んでも、すぐに蘇生する。

 それは神殿内では当たり前の事実であり、翼を備えた神殿種たちにも共通する事例だった。

 しかし蘇生しないこともある。

 明言する者はいなくても、それは衆知の事実だった。神殿種にも死ぬ者はいる。

 天使にも、だ。

 延々と転生を繰り返し、不滅の魂を持つはずの天使が死んだとしたら。

 そのときに神聖神殿の中で起きる反射は、この城で生まれ育った者なら本能的に予想のつくことだった。

 その天使は、はじめから居なかったことになる。

 神殿内では、それで全ての辻褄が合ってしまう。

 そうなれば、その塔に仕える者たちも、いるはずのない、存在してはならない者たちということになる。

 蒼白になった神官たちの目は、それを知っている様子だ。

 この城の中では、現実よりも、幻想のほうが重視されるということを。

 それでこそ、必死の形相で、夜中の螺旋階段を駆け上がってくる気にもなろうというものだ。

 塔に棲む者はみな、最上階の天使と運命をともにしている。

 特に、ブラン・アムリネスが不在の今、不吉な噂が容易に飛び交うようになっている。半死半生の主(あるじ)を抱えていては、明日は我が身、さぞかし夢見が悪かろう。

 まるで地獄だな。誰も彼もが、審判を待っている、青ざめた罪人(つみびと)のようだ。

 くすりと自嘲の笑みを浮かべてから、カフラは体内に潜む自分の翼(よく)に意識を集中した。

 長身の肉体にくまなく散じていた寄生種が、呼び起こされて覚醒し、耳には聞こえない声を、壁を越え、眠り込んでいる夜明けの僧坊のすみずみまで響き渡らせる。

 それに応えて、自分に仕える神官たちが飛び起きるのが感じられた。

 彼らは常に、天使に忠実だった。

「ヴィジュレを運べ、地下房だ。場所はうちの誰かに案内させろ」

 着衣を整える時間をとらず、カフラはそのままの足で部屋を出た。

 後を追ってきた部屋付きの正神官たちが、夜着の上に金襴の僧衣を着せかけ、翼の意匠のついた長い杖を手渡してくる。

 現れた暗い階段を駆け下りながら、カフラは狙いを定めて、別の塔で眠っているはずの天使に呼びかけた。

 ───ノルティエ・デュアス。

 すると、すぐに返事が返ってきた。

 天使の長兄の感度の高さに、カフラは思わず短く口笛を吹いた。

 ───急いで来てくれ、ヴィジュレがまた昇天した。

 手短に伝えて、カフラは正神官が扉を開いて待っていた、白い小部屋の中に駆け込んだ。

 扉はすぐさま閉じられ、カフラは天井にある、翡翠(ひすい)に似た色の大きな球体を見つめた。それにはまるで、巨大な目であるかのように、深い青の「瞳」がある。それと目が合った瞬間、密閉された室内に、がくんと微かな揺れが走り、部屋はゆるやかに落下しはじめた。

 城の地下を目指してまっしぐらに落ちていく。無数の階段を越えていくより、はるかに速い。

 この小部屋のことを、神殿種たちは「天使の箱」と呼んでいるようだ。

 しかし当の天使たちは内々に、もっと短い別の名で、この動く小部屋のことを記憶している。

 その名は、「リフト」といった。数千年の昔から。




 白の神殿の地下房に運び込まれた時、サフリア・ヴィジュレには意識がなかった。

 ヴィジュレに仕える不寝番の神官が、異変に気づいて部屋に入った時には、胸をかきむしるようにして痙攣していたという。

 ヴィジュレの乱れた着衣の喉元から胸にかけては、自分の爪で傷つけたらしい、生々しい赤い痕と血の染みが、白い膚(はだ)と絹のうえに、鮮やかに浮かび上がっている。

 寝具にくるみ、ヴィジュレを抱きかかえて運んできた神官たちは、息をきらして汗をかいてはいたが、寒風にさらされたように蒼白な顔色をしていた。

 青ざめもするだろうとカフラは内心で考えながら、自分の部下たちに診察と治療の準備を指示した。

 ヴィジュレはこのところ心臓に不具合があった。そのあたりが原因だろう。

 何もない白い部屋に、唐突に生えている白い寝台の上で、ぐったりと命のないもののように横たわっているヴィジュレの頸に触れ、カフラは脈を確かめた。

 思い出したように、時折弱い脈が触れるだけで、ほとんど死んでいるといってもよい状態だ。宿主(ホスト)の危機を察知して、翼(よく)が活性化し、背中から露出したままになっている。酸素をとりこむために体外に飛び出したヴィジュレの翼は、血液を循環させているせいで、赤い色をしていた。

 そうやって、翼が停止しかけた心肺機能を補助しているかぎり、ヴィジュレは生き続けるが、それは死んでいないというだけの意味でしかない。宿主(ホスト)にとっても寄生種(パラサイト)にとっても、消耗の激しい状況であるのが問題だった。

 いっそ死んでいれば、と、カフラはぼんやりと、どこか遠い心の奥で考えた。半端に生きているから、再生がはじまらず、いつまでも苦しむことになる。このままだらだらと消耗したうえ、宿主(ホスト)と寄生種(パラサイト)が共倒れになるのでは困る。

 意識のない目を見開いたままのヴィジュレの美貌は、紙で作った人形のように真っ白で、盲目の瞳だけが、まがまがしい赤い色をして真上に向けられている。

 治療にむけて、ヴィジュレの夜着を剥ぎにきていた神官が、自分が持ち上げた衣の下にあるものを目にして、ひっと短い悲鳴をあげ、後ろによろめいた。

「……猊下、こ、これは」

 助けを求めるように自分を見上げる神官に、カフラは首をかしげて苦笑を返した。

「そう、びびるなよ……」

 思わず毒づき、カフラはヴィジュレの生白い胸に走る生々しい手術痕を視線でなぞった。胸郭を開いたのは去年のことだ。

 しかし、医術に慣れ親しんだ神官たちをたじろがせたのが、この傷ではないことは分かり切っている。

 だらりと無防備に両腕を垂らし、意識のないヴィジュレには、さらされた膚(はだ)をはばかる様子がないのは当然のことだ。

 それだけに、無闇に触れるのには罪悪感がある。

 ヴィジュレの胸には、青ざめた頬と同じように白い、ふたつの乳房があった。

 瀕死の息に、不規則に上下する丸みを帯びた肉は、痩せてはいたが、なめらかな弾力を予想させる、整った形をしている。

「こ……これは……女(ファム)です」

 やっと絞り出したような声で、神官がカフラに抗議してきた。受け入れがたい事実に抵抗を試みているような、動揺に満ちた声色だ。

「ヴィジュレが聞いてたら、お前、殺されちゃうよ」

 含み笑いして、カフラは両腕を消毒するために寝台のそばを離れた。

 聞かれていなくても、この施術に関わった彼らの命運は、尽きたも同然だ。

 ヴィジュレはおそらく、この秘密への代価として、彼らに死を求めるだろう。ままならぬ身への苛立ちは、それだけに留まらず、カフラにも向けられるかもしれない。

 ヴィジュレは時折、たがが外れたような残虐性を露わにして、不都合のある者を地下牢に引き立て、拷問することがあった。

 それがヴィジュレの心には何かの救いに感じられるのだろう。

 この城は病んでいる。たぶんもう手の施しようがないほど。

 疲労とも、自嘲ともつかぬ倦怠感のなかで、カフラはそう思った。

 しかし、それから逃れる方法などない。

 いかに狂い果てていようと、それが天使の姿をしているかぎり、大陸は天使を、竜の末裔を、神殿を求める。天使であることから逃れて、どこへ行こうというのか。

 ブラン・アムリネスのように?

 思わず微笑してから、カフラは自分に驚いた。

 アムリネスの悪あがきも、天使であることから彼を解放してはくれないだろう。

 なにしろそれは、己の背にある、この身のうちに。

 塔からは逃げだせても、自分自身から、どうやって逃れようというのか。

 しかし、逃れたいという想いには、カフラは共感していた。

 アムリネスの宿主(ホスト)は、まだ若い。もしや自分には生きている価値があるのではないかと、一縷の望みを抱いていられる年頃だ。

 一度は誰でも、そんなことを思う。命のある者として、当たり前のことではないか。それを願わないとしたら、その者には、心が無いのだ。

「ノルティエ・デュアスを喚べ」

 カフラは逃避的な回想を振り払うために、小さく首を振ってから、呆然としている正神官たちに命じた。

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