057 刺繍図案集
アルミナが刺繍した布を、しばらく隅々まで確認してから、グロリアは大きな目でじろりとこちらを見上げてきた。
アルミナはたじろいで、握り合わせていた手を、さらにきつく握った。
身重のせいだというが、グロリアは頻繁に機嫌が悪くなる。
時によっては、全く筋の通らないことで、厳しく叱責を受ける者もいた。
任された刺繍の出来が、グロリアの目に叶わなかったのだろうか。
今日に限って、アルミナは他の少女たちが受け持っているのとは別の、はじめての図案を任せられた。
ひと針ずつ慎重に、間違いがないようにと気を遣って仕上げたため、思った以上に時間がかかり、この日一日を使いきってしまったが、そのことで仕事が遅いと叱られるのだろうか。
グロリアが黙ったままでいるので、アルミナはしばらくの間、さまざまな不運な想像ばかりを思い描いた。
「あなたは明日から、作業から外れて結構です」
神経質な声で、グロリアが告げた。
ぎょっとして、アルミナは息を呑んだ。
「申し訳ございません。刺繍は、もう一度やり直します」
慌てた声で、アルミナが許しを乞うと、グロリアは目を細めて、さらに苛立った顔をする。
「誰が口をきいていいと許しましたか。ふしだらですよ!」
鞭のような声で、グロリアに叱責され、アルミナは反射的に目をつぶって、首をすくめた。
もう一度謝ろうとしたが、口をきけばまた叱られそうに思えたので、アルミナは深々と頭を垂れて、女(ファム)の礼儀とされる、恭順の姿勢をとった。
ごほん、と気まずそうな咳払いの音がして、椅子に腰掛けているグロリアの脚が大儀そうに身じろぎするのが見えた。
大きく膨らんだ腹にそえられていたグロリアの手が、顔をあげろというように、せわしく振られる。アルミナは恐る恐る姿勢を起こしてみた。
「刺繍の出来は、たいへんよろしいですわ。ですからあなたには、別の仕事をしていただきます」
斜向きに、アルミナをちらりと眺めて、グロリアが早口に言った。
「念のために尋ねますが、あなたは未産ですわね」
「は……はい……たぶん…………申し訳ございません」
ぽかんとしそうになっている自分を感じ、上擦った声で、アルミナは慌てて答えた。
謝ったのは、頷けば済むのに口を聞いたことについてか、子どもを生んだことがないことについてか、自分でも分からなかったが、グロリアは納得したように頷いた。
「それで結構、このお役目は未産の方にしかできないのです、しきたりとして」
うっ、と短いかけ声のようなため息をつき、グロリアが椅子から立ち上がった。
「セシリア様、あなたもおいでなさい」
グロリアが億劫げに呼ばわると、大きな円卓の向こうで、刺繍をしていたセシリアが、びっくりしたように立ち上がった。
とたとたと早足にやってくるセシリアと、グロリアの横でおどおどしているアルミナを、円卓の女(ファム)たちは皆、興味深げに横目で眺めてくる。
グロリアは広間のすみに置かれた、赤みを帯びた木製の戸棚のところまで二人を連れて行き、鈍い金色の錠前のかかったその開き戸に、そっと触れた。
錠前の鍵は、なぜかその戸棚のすぐ側の壁にある釘に引っかけてあり、グロリアはその小さな鍵で、しばらく閉ざしてあったらしい、戸棚を開いた。
中にあったものに、窓からの陽の光がさしこみ、アルミナの一抱えほどもありそうな、大きな刺繍枠を照らし出した。
枠には、透けるほどに薄い、白い絹の布が張ってあり、その半分までが、精緻で鮮やかな色合いの刺繍に埋め尽くされている。それは図案というより絵のようだ。
白い布、白い糸しか見たことがないこの部屋で、極彩色の刺繍の絵は、異様なほど際立っていた。美しく微妙な色合いに、アルミナは目を奪われた。
「中から取り出していただけますかしら」
命じる口調で、グロリアはアルミナたちに告げた。
それに手を触れるのがはばかられるようで、一瞬及び腰になってから、アルミナはセシリアとともに、重い木枠をごとりと床におろした。
そして木枠を裏側から見て、アルミナは微かな驚きの声をあげた。
はかないほど薄い透ける布の、裏側には全く別の模様が刺繍されていた。
表には、明るい昼間の風景が、その裏には、よく似た場所の、夜の風景が描かれている。
これほど薄いものなのに、片面を刺繍したときにできるはずの、裏にあらわれる糸の始末や、結び目などが、ひとつも見あたらない。まるで魔法のように。
「これの続きを、あなた方お二人で、やっていただくことにします」
グロリアは淡々とそう命じた。
「糸はこの戸棚の中に。必要なら、いくら使ってもよろしい。一日の作業が終わるたびに、ここに片付けるようになさい」
「……あの、わたくし、できません」
立ち去ろうとするグロリアの背に、アルミナは思わず泣き言を言った。
グロリアはちらりとこちらを振り返り、不機嫌そうに顔を歪めた。
「この厨子(ずし)の刺繍は、女(ファム)の中でも、とくに技術に長けた方だけが携わることのできる、名誉なものです。名を残せるのですよ」
最後のところを、特に強調して、グロリアは言った。
「できないと知っているなら、できるように努力なさい」
ぴしりと言いおいて、グロリアは立ち去っていった。
身重の体が円卓の椅子に腰掛けるのを待ってから、横にいたセシリアがほうっと安堵の息をもらした。
顔を見合わせると、セシリアはにっこりとこちらに笑いかけてくる。
「大丈夫です。わたくしは以前にも、この刺繍を勤めましたので、やり方はお教えできますわ」
セシリアはてきぱきと、刺繍枠の表と裏の両面に、ひとつずつの椅子を運んで、二人が布ごしに向かい合えるようにした。
そして、戸棚の引き出しから、大きな紙が筒に丸められたものを取り出してきて、木枠の横の床に拡げた。
「まあ……」
感嘆の息を漏らした唇を慌てて指で覆って、アルミナは紙に描かれた絵をのぞきこんだ。
片方は昼間の、もう片方は夜の絵で、色鮮やかな絵の具で彩色されている。
昼間のほうの絵の中央には翼を拡げた天使が描かれており、夜のほうには、同じ位置に、二つの卵を抱えた竜(ドラグーン)がいた。
並べて描かれた二枚の絵は、たぶん、裏どうしを重ねて透かすと、ぴったり同じ輪郭になるように描かれている。
「これが、この厨子の刺繍の図案です」
セシリアが言うのに、アルミナは小さく頷いた。
「わたくしが刺した針を、そちらで受け取っていただいて、アルミナさまが向こう側の図柄の糸を刺した針といっしょに、こちらに刺して戻してくだされば、わたくしが同じことを繰り返します。片方の裏面になる始末の糸は、もう片方の表の糸で隠れますので、結び目が見えないようになっているのです」
すでに刺繍された部分を眺めると、微妙な色合いになるように、糸の種類をこまめに変えてある。棚の引き出しに収められた色糸の枷(かせ)には、驚くほどの種類があって、赤い糸だけでも十種類以上あるようだった。
「……大変な作業ですわね」
緊張のため息をついて、アルミナは呟いた。
「ええ。それに、技術の同じ方が、二人いないとできません。もう一度、このお仕事ができるなんて、思ってもみませんでしたわ」
喜ぶセシリアの頬が、うっすらと赤みを帯びていた。
「昼と夜と、どちらの面がお好きですか」
セシリアに尋ねられて、アルミナは図案の絵柄をじっと見おろした。
昼間の天使は、緑と花のあふれる輝く草原に、白い翼を拡げて佇んでいる。その周りでは、見たこともない珍しい生き物が、体を丸めて眠り込んでいる。天使も目を伏せているが、どことなく微笑んでいるように見えた。
目を開いたら、きっと、この方は緑の瞳をしていらっしゃるのだわ。
脈絡もなく、そんな空想が浮かび、アルミナは嬉しくなった。
「あのう……昼のほうを刺しても、よろしいでしょうか」
そうできれば、一日中ずっと、絵の中の天使を見つめていられる。
アルミナが遠慮しながら言ってみると、セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
「どうぞ。わたくしは夜の絵のほうが好きなのです」
そう言われて、アルミナはやっと、夜の絵のほうを真面目に眺めた。
絵の中にいる竜(ドラグーン)は、恐ろしげな姿をしている。
石だらけで剥きだしの地面に、竜と二つの卵だけがぽつんとあり、周りには銀色のなめらかな岩のようなものが、幾つも突き刺さっている。昼の面で、動物のいる位置だから、なにもいない夜の面では、それの代わりに銀の岩があるのだとアルミナは思った。
暗い空には月があり、満天の星があり、渦のような形に集まった小さな星々や、薄い七色の絹の布を風に流したようなものが、闇を彩っている。流れ星がいくつか、竜のいる地面に落ちてきて、明るく辺りを照らしているのが、美しいといえば美しかった。
「怖い絵です……」
なぜこんなものが好きなのか、という疑問を押し込めて、アルミナはセシリアの顔を見た。
「前にも、夜の面を刺したので、その時に考えていたのですけど。たぶんこれは、創生神話の時代のことを描いてあるのですわ」
セシリアは、刺繍図案の中の、ふたつの卵を指さした。
「原初の竜、ふたつの卵を擁す。一つは白き、一つは黒き卵なり」
絵の中の卵は、たしかに、黒いものと白いものが、一つずつだ。
「ですからこれは、創生前夜の絵で、この卵から、すべての大陸の民が孵(かえ)るのでしょう。その後の世が、そちらの昼の面の絵なのだと、わたくしは思うのです。原初の竜は転生して、天使になったのですわ」
「こんな恐ろしい竜が、転生して天使様になるなんて……」
鮮やかな赤い鱗(うろこ)に覆われた竜の姿を眺めて、アルミナは言った。
「恐ろしくないですわ、だってこの竜は母親なんですもの。どんな姿をしていても、卵を抱く女(ファム)には聖母の慈愛があるはずです」
「グロリア様にも……?」
思わずアルミナが尋ねると、セシリアは黙り込んで、笑いをこらえるような顔をした。
「……案外、意地悪ですのね、アルミナ様」
言われてみて、はじめて、アルミナは自分が口走ったことの大胆さを感じた。
もしグロリアに聞こえていたら、きっととんでもなく叱られてしまうに違いない。
そう思い当たりながら、なぜかアルミナは、思わず微笑んでしまっていた。
「さっそく始めましょう」
そそくさと椅子に腰掛けて、透ける布地の向こう側で、セシリアが図案どおりの色糸を、針に通している。
同じように腰掛けて、アルミナも引き出しの中の糸を選んだ。
図案の中の、縫い始めの場所にあたるのは、草原のなかの小さな丸い花だ。
淡い赤紫色をした、はかない花に見覚えがあるような気がする。
針に糸を通した糸のはしを結びながら、アルミナは図案の中の天使を見つめた。
手紙に記された署名には、シュレー・ライラルとあった。
夢の中で思い出した幼い日のあの少年も、今ではアルミナと同じくらいの年になっているはず。
この天使と似ているだろうか。
まっすぐで細い金の髪に。長い腕……。
絵のなかの天使が、ゆるやかに両腕をさしのべて微笑んでいるのを、ふいに身近に感じて、アルミナは真っ赤に頬を染めた。
「アルミナ様、はじめてもよろしいですか?」
「は……はいっ……」
セシリアに声をかけられ、アルミナは大慌てで、甲高い声の返事を返した。
不思議そうな目でセシリアに見つめられたが、理由など恥ずかしくてとても話せない。
ぎゅっと唇を引き結んだまま、アルミナは震える指で、最初の一針にとりかかった。
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